パテック フィリップは、よくも悪くも多くの愛好家のあいだで、1976年に発売されて以来、非常に長い期間スポットライトを浴びているステンレススティール製スポーツウォッチ・ノーチラスと同義語になっている。しかし、Watches & Wonders 2022でティエリー・スターン氏がHODINKEEのニック・マリノに語ったように、同社は単にトレンドのスティールブレスレット時計のメーカーと思われることに満足していない。今回の展示会で発表した作品は、ひとつの時計がInstagramの人気者になったからといって今のパテックになったわけではないことを思い出させてくれるものだった。
パテックの時計作りは、常に仕上げの品質とコンプリケーションにおける非の打ち所のない出来栄えを2本柱としており、歴史上には両者を兼ね備えた時計の例が数多くある。ヘンリー・グレーブスのスーパーコンプリケーションや、近年ではグランドマスター・チャイム(その美学は両極端だが機構には堂々とした革新性がある)などだ。
今日、パテックは、技術的に極めて洗練され、また同社のコンプリケーションが一般的な時計製造のベンチマークであるという点をさらに強調する新しいクロノグラフを発表した。この 1/10秒シングルプッシュボタン・クロノグラフ 5470P-001は、もちろん最初のハイビートクロノグラフではない。10分の1秒クロノグラフは、1969年にゼニス エル・プリメロが発売されて以来、ずっと存在していた。しかし、パテックがハイビート・クロノグラフを発表するために長いあいだ待たされたのだとしたら、それはそれだけの価値があったということだ。1/10秒シングルプッシュボタン・クロノグラフ5470P-001は、他のハイビート・クロノグラフとは一線を画している。
一見すると、まったくクラシックなプラチナ製2レジスター・クロノグラフに見える(他のプラチナ製パテック・ウォッチと同様に、6時位置のラグのあいだに小さなダイヤモンドが付いている)。中央の赤い針は一見するとクロノグラフの秒針だが、深いブルーの文字盤を背景にすると少し変わった印象を受ける。しかし、それ以外は2022年のパテック・クロノグラフであるのと同様に、1952年のパテック・クロノグラフでもありえる。だがよく見ると、中央のクロノグラフ針は2本で、文字盤には小さく"1/10 second" と書かれている。さらに、外側の経過秒数表示はふたつの目盛りがあり、ひとつは経過秒数(分針から読む場合は分)、もうひとつ外側のものは12の赤いインデックスで、赤い中央クロノグラフ針を10分の1秒単位で読み取ることができるようになっている。赤いクロノグラフ針は、12秒に一度、文字盤の周りを一回転する。
10分の1秒の動作は、新しいムーブメントによるものだ。これはCal.CH 29-535 PS 1/10で、2009年にデビューしたラトラパンテ・クロノグラフのキャリバーCH 29-535 を原点としている。クロノがゼロにリセットされると10分の1秒のクロノグラフ針とクロノグラフ秒針が重なるなど、ラトラパンテの系譜を新ムーブメントで見ることができる。新たな10分の1秒システムに対応するため、脱進機や振動子をはじめ、すべての機構が再構築された。
この脱進機は、パテックの特許であるオシロマックスシステムで、2011年に発表されたアドバンストリサーチ プロジェクトウォッチ、パテック フィリップ アドバンストリサーチ Ref.5550Pに初めて搭載された。 オシロマックスシステムには、シリコン(シリンバー)製ヒゲゼンマイ、特殊な歯形を持つシリコン(シリンバー)製ガンギ車、そして最も目に付く、珍しいジャイロマックスSiテンプが組み込まれている。ジャイロマックスSiテンプは、グリュシデュール製の他の輪状のテンプとは明らかに、そして劇的に異なっている。シリコン製(それゆえに「Si」)、ゴールドの慣性モーメントを備え、蝶形のプロファイルがCal.CH 29-535 PS 1/10 の先代ラトラパンテとはまったく異なるものであることを即座に示している。その特異な構成にもかかわらず、パテックのジャイロマックステンプに見られるタイミング調整用のウエイトを備えており、伝統と最先端の素材科学に基づく時計製造との結びつきが目に見える形で表現されている。
シリコンが高速脱進機の問題点を解決することは多い。Cal.CH 29-535 PS ラトラパンテの振動数は2万8800振動/時だが、3万6000振動/時に上げると(4Hzから5Hz)、低い振動数では生じない慣性の問題が生じ、そこでシリコンの軽量化が必要になる(さらに常磁性体の使用による利点もある)。
Cal.CH 29-535 PS 1/10 では、10分の1秒針のシステムは、ムーブメントの4 番車から駆動される。駆動輪は、柔軟なスポークを持つ上側輪と、硬いスポークを持つ下側輪のふたつの部分から構成されている。下側の車輪は4番車から駆動され、上側の車輪はクラッチ車を駆動する。これは、動輪とクラッチのあいだのバックラッシュを防止するためのシステムである。10分の1秒クロノグラフ針の12秒間での1回転は、10分の1秒歯車のピニオンに施されたマイクロトゥージングによるもので、直径わずか1.46mmのピニオンに136個の歯があり、歯厚は30ミクロンとなっている。
クロノグラフ機構は基本的にふたつに分かれており、ひとつはコンマ1秒を計測する機構、もうひとつはスタンダードなセンターセコンドと瞬時にジャンプするミニッツカウンターの機構だ。10分の1秒機構はすべてクラッチレバーに搭載され、ベースシステムも10分の1システムも伝統的な水平クラッチのクロノグラフだ。
10分の1秒システムは、アンチバックラッシュ車(4番車によって駆動)とその剛性の高い下輪、柔軟性の高い上輪で構成されている。上部バックラッシュ防止輪は、クロノグラフ作動時に動輪(下図、黄色)を安定させ、10分の1秒ピニオン(ひいては針)がふらつかないようにする役割を担っている。パテックが10分の1秒ピニオンにアンチバックラッシュ用のスプリット歯(中央で分割された柔軟な歯車の歯が小さなバネのように作用する)を使用しなかった理由は、ピニオンの歯が小さすぎるためだ。
10分の1秒クラッチレバーは、システム全体を搭載しているため、従来の水平クラッチのクロノレバーよりもはるかに重い。その上、10分の1ピニオンの歯が非常に小さいため、衝撃が加わると10分の1秒クラッチホイールがピニオンと噛み合わなくなる可能性があるのだ。パテックは、ふたつの「振り子式」耐震レバーを備えた新しい耐震システムの特許を取得した。このレバーは、上下左右どの方向から衝撃が来ても、クラッチホイールが10分の1秒ピニオンにしっかりと押しつけられるように構成されている。例えるなら、防水時計のケースバック(あるいは潜水艦のハッチ)は、水圧を増すほど密閉度が高くなるように設計されているのと同じことだ。
10分の1秒機構は、下部にある標準的なクロノグラフ機構のクラッチシステムの動きと完全に一致するため、そこにも何らかの保護が必要だ。パテックでは、衝撃を吸収するフックスプリングを追加し、クロノの作動時にはコラムホイール上部の丸いプレートの下にある対応するフックに引っ掛ける事で、これを実現している。クロノグラフのスイッチを切ると、フックはコラムホイール上部の丸いプレートの下にある安全フックから外れ、レバーは自由に動かせるようになる。
この種のムーブメントでは、技術的な改良のためにできる限りの努力をするものだが、パテックはもうひとつ、主ゼンマイの香箱に手を加えた。パワーリザーブを決定するふたつの基本要素である主ゼンマイの長さと巻き数は、ともに主ゼンマイの最内輪を支える中央軸の直径を小さくすることで増加させた。この点は、過去に破損の原因となったことがあり、パテックでは過度の張力による破損を防ぐために、主ゼンマイの外側のコイルにあるスリップブライドルを改良し、さらに主ゼンマイの取り付け部(ニヴァフレックス製)を強化したのだ。
パワーマネジメントの最後の要素は、10分の1秒針だ。パテックは強化スティールの使用をやめ、代わりにシリンバー(シリコンに酸化シリコンをコーティングしたもの)製の針を選択した。シリンバー針はスティール針に比べて3.35倍も慣性が小さく、針の動きとゼロ位置へのリセットに必要なエネルギーが少なくてすむのだ。しかし、これにはふたつの問題があった。ひとつは、シリコンはもろいため、摩擦ポストに針を押し付けることができないこと、もうひとつは、通常の赤い塗料が針に付着しなかったことだ。パテックは針を赤く着色するための下地剤の特許と、針の中心に中空の真鍮パイプを取り付け、針をセットできるようにする第二の製法の特許を取得することで、これらの問題を解決した。
これらの結果、中央にクロノグラフ秒針と10分の1秒針を備え、極めて洗練された振動系と高度に最適化された駆動系を持つ10分の1秒ムーブメントが誕生したのだ。新しいCH 29-535 PS 1/10は、実はラトラパンテ・バージョンよりも0.15mmほど薄くなっている。ラトラパンテ・バージョンの厚さは7.1mmで、CH 29-535 PS 1/10は6.96mmだ。このムーブメントの開発は、パテックの研究開発責任者であるフィリップ・バラ氏と時計研究責任者であるアンソニー・クルットリー氏の監督下で行われた。私が思うに、時計愛好家のコミュニティ全体は彼らにシャンパンのマグナムと1ダースのバラを送るべきだ。なぜなら、こんなに型破りで想像力に富んだ技術ソリューションを備えたキャリバーを見たのは、記憶にないくらい前だからだ。
Cal.CH 29-535 PS 1/10とエル・プリメロ キャリバー3600を比較した場合、最も大きな違いは駆動方式とシステムのカップリングにあると言えるだろう。ゼニス クロノマスタースポーツに採用されているCal.3600は、センターの10分の1秒針が10秒に1回転と、CH 29-535 PS 1/10よりも若干速く回転する。しかし、Cal.3600のシステムは、4番車ではなくガンギ車から駆動されている。一般的に、ガンギ車から何かを駆動させることは、そこでのトルクがすでにかなり低いため避けるものだが、ゼニスはそれを可能にする方法を考え出した。パテックのシステムは輪列のひとつ手前の歯車を使用するため、利用できるエネルギーが大きくなる。多くのユニークな方法で最適化されたパテックのシステム(ユニークというのは、このムーブメントに関する特許が31件あり、そのうち7件は完全に新しいものだから)は、高振動クロノグラフを構築するためのまったく新しいアプローチであり、同時にほぼすべてのクラシックな水平クラッチクロノグラフに共通の特徴、すなわち4番車からクロノ輪列を動かすということを実現しているのだ。
この時計の年間生産数はそれほど多くないと思われるものの、限定版と思いきやレギュラーコレクションとして発売されることになっている。価格は「応相談」で、控えめに言っても大量生産とは言い難いものだろう。このモデルは、美しい伝統的なデザインに、私がこれまでに見たハイビート・クロノグラフのなかで最も洗練された時計製造技術が施されている。あなたが苦労して稼いだお金でリアルな時計学を知りたいなら、パテック フィリップを超えるのはまだ非常に難しいということを、この時計がさらに証明した。
パテック フィリップ 1/10秒シングルプッシュボタン・クロノグラフ5470P-001:ケース プラチナ950、41mm x 13.68mm、30m防水、サファイアクリスタル(フロントとバック)、6時位置のラグのあいだにホワイトトップウェッセルトンダイヤモンド。ムーブメント Cal.CH 29-535 PS 1/10、10分の1秒クロノグラフ、センターセコンドと10分の1秒針、29.6mm x 6.96mm、パワーリザーブ48時間(クロノグラフ停止時)、3万6000振動/時。スピロマックスヒゲゼンマイ、シリンバー製パルソマックス アンクルとガンギ車、シリンバー製ジャイロマックステンプ、ゴールド製慣性ウェイトと調整可能なタイミングウェイト。パテック フィリップ・シール、日差+3/-2秒。モノプッシャークロノグラフ、2時位置にスタート、ストップ、リセット用プッシャー。3時位置に30分積算計、9時位置にスモールセコンド。
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1/10秒シングルプッシュボタン・クロノグラフ5470P-001モデルの詳細については、パテック フィリップのサイトでご確認ください。