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時計コレクターはミステリーが好きだ。究極のミステリーは、知名度の高い有名人や公人の時計が公の前から消えてしまうことだろう。オノ・ヨーコはジョン・レノンが亡くなる2ヵ月前にパテック フィリップのRef.2499 永久カレンダー・クロノグラフを贈ったが、彼がこの時計を着用している写真は2枚しか公開されていない。パブロ・ピカソは、ジャガー・ルクルト、パテック フィリップ、ロレックスのみっつの腕時計を着用している写真を撮られたが、1973年の死後はそれらの時計は一度も目撃されていない。
では、宇宙で着用された最初のスイス製腕時計は? スコット・カーペンターが1962年5月24日、地球を周回する2番目のアメリカ人宇宙飛行士となった際に着用したブライトリング コスモノートはどうだろう。カーペンターは、ブライトリングを着用して飛行のための訓練をしているところを写真に撮られている。1962年5月24日、彼がオーロラ7カプセルで飛行しているとき、写真ではクロノグラフを見ることができる。また、大西洋で救命用いかだに座り、回収船への搬送を待つ彼の手首にもこの時計が見える。しかし、この時計は着水から60年間、一般に公開されることはなかった。カーペンターの腕にも、博物館やNASAの資料室にも、オークションハウスやディーラーの展示室やカタログにもない。それは、空を横切る彗星のように消えていったのだ。
そして今、ついに、それは姿を現した。
マーキュリー・セブン(Mercury Seven)と呼ばれる7人の宇宙飛行士は、雑誌の表紙を飾り、ホワイトハウスを訪れるなど、マスコミの寵児として自由な世界に英雄を輩出した。彼らの訓練や飛行の様子は、NASAやメディアによって徹底的に撮影され、現在でもさまざまなコレクションやアーカイブを通じて何千枚もの写真が公開されている。マーキュリー・セブンの宇宙飛行士たちは、記者会見やパレードなど、公の場に数多く登場し、時計を身につけている姿を見ることができる。
マーキュリー・セブンの宇宙飛行士が常時着用していた他の時計と比べると、スコット・カーペンターのブライトリング コスモノートは一目瞭然だった。この当時、カーペンターはマーキュリー・セブンの宇宙飛行士のなかで唯一クロノグラフを着用しており、ダイヤル幅42.5mmのブライトリングは、他の宇宙飛行士が着用したアキュトロンのアストロノートやルクルトの24時間時計よりもかなり大きなサイズだった。
今日、ブライトリングはすべての人に見てもらえるよう、この時計を展示している。ブライトリングは時計を見せるだけでなく、この時計がこれまでどのように過ごしてきたかを証明する資料や情報を提供してくれた。1962年5月24日に軌道上で76021マイルを走破したのち、この時計はかなり控えめな生活を送ってきたことがわかった。この時計は、ブライトリング社の3代目オーナーであるウィリー・ブライトリングが1962年から、1979年に亡くなるまで所有していたものである。彼の死後、彼の妻がこの時計を相続し、彼女の死後、この時計は彼らの息子であるグレゴリー・ブライトリング(Gregory Breitling)氏の所有物となった。グレゴリー・ブライトリング氏は、現在もこの時計をプライベート・コレクションとして所有している。しかし最近、彼はカーペンターの飛行60周年を記念して、この時計を世界に公開することを決意したのだ。
この時計がどのようにしてグレゴリー・ブライトリング氏の金庫に眠ることになったのか、そして今日、一般の人々の目に触れることになったのかを理解するために、まず、宇宙に夢中だった時計愛好家と時計に夢中だった宇宙愛好家という2人の青年の物語から始めてみよう。
1913年に生まれた時計師ウィリー・ブライトリングは、1950年代後半に宇宙開発計画に強い関心を抱くようになった。マーキュリー号の宇宙飛行士スコット・カーペンターは1925年生まれで、腕時計が宇宙探査の重要なツールになると信じていた。 ブライトリングとカーペンターは共に強い好奇心を持ち、新しい道を切り開く勇気を持ち、問題解決に全力を尽くしたのだ。
ブライトリングのクロノマットとナビタイマー
父の死から5年後の1932年、ウィリー・ブライトリングは、祖父が1884年に設立した会社の経営を引き継いだ。ウィリー・ブライトリングは、父と祖父に成功をもたらしたアプローチにこだわり、特に飛行士、ビジネスマン、科学者、エンジニア、スポーツマンに適した革新的な時計を開発、生産しようとした。時計コレクターであり、ブライトリングのブランドヒストリアンであるフレッド・マンデルバウム(Fred Mandelbaum)氏は、ブライトリングが初期に達成した革新的な業績をいくつか取り上げている。「ブライトリングは1905年にモーターレース用の時計の特許を取得し、1915年には世界初の“2時位置プッシャー”式のリスト・クロノグラフを発売。1933年には4時位置に独立したリセットプッシャーを加えた初のデュアルプッシャー・クロノグラフの特許を申請しました。しかしもちろん、同社による不朽のイノベーションの最たる例は、クロノグラフに計算尺を取り入れたことであり、ブライトリングのカタログは過去80年間にわたってこの便利なツールを提供しています 」
数学者のためのクロノグラフとして設計されたことを意味する名を持つクロノマットを、1942年、ブライトリングは計算尺を組み込んだ初のクロノグラフとして発表した。手持ち式の計算尺(17世紀に誕生)は、複数の目盛りが記された木片が組み込まれており、木片を前後に動かして数学的な演算を行い、その結果を透明なカーソルで読み取ることができる。手持ちの計算尺には多くの目盛りが付いているが、クロノマットに搭載された円形の計算尺は、目盛りが文字盤と回転ベゼルに印刷されたふたつだけであった。クロノマットは、科学や工学、さまざまな数学的演算を行うために設計され、ほとんどのモデルがふたつのレジスター(ランニングセコンドとクロノグラフ計)を備えている。
ナビタイマー
1954年、ウィリー・ブライトリングは、新たに成長する市場のニーズに応えるため、計算尺付きクロノグラフを開発することになる。パイロット用の時計だ。航空に強い関心を持つようになった彼は、フライトコンピューターを組み込んだクロノグラフが、パイロットの重要なナビゲーションツールとして機能することに気づいた。
ナビタイマーは、クロノマットをベースにしたクロノグラフであり(名称は、NAVIgationとTIMERを縮めたもの)。ブライトリングは、航空機所有者およびパイロット協会(AOPA)との共同開発により、ナビタイマーの目盛りによって、乗除算、海里をキロメートルに、華氏を摂氏に、ガロンをリットルに変換、燃料消費、時速キロメートル、分・秒速キロメートル、平均降下、標高など18種類の航空航海術を測定できると自信をもって発表している。ナビタイマー・クロノグラフは第3のレジスターを内蔵し、12時間までの計時が可能で、文字盤はオールブラック(クロノマットの多彩な文字盤カラーリングに比べると)であった。クロノマット、ナビタイマーともにスナップバックケースを採用していたが、ナビタイマーは丸いプッシャーで「防水性」があるとされていた。
宇宙飛行士に最適な腕時計を開発する
7人のマーキュリー宇宙飛行士たちは、それぞれマーキュリー号の開発において特別な責任を負っていた。例えば、アラン・シェパードはカプセルの着陸と脱出時の宇宙飛行士の回収を、ジョン・グレンはコックピットとフライトシミュレーターの最適化を担当した。また、スコット・カーペンターはカプセルに搭載する航法装置の責任者であり、宇宙飛行士が着用する時計も彼の領域であった。
このとき、NASAはマーキュリー計画で着用する時計を1本も決めておらず、宇宙飛行士に時計を支給することもなかった。そのため、宇宙飛行士は自分で時計を選び、調達することになる。カーペンターは、宇宙飛行士が身につける時計の選択、少なくとも時計の推薦を自分が行うことに喜びを感じていたという。
カーペンターの娘であるクリス・ストーバー(Kris Stoever)氏によると、父親は間違いなく "時計好き "だったという。彼は高校卒業後、海軍に入隊するとき、父親にどんな時計が欲しいかを手紙に書いたという。「航空士官候補生のなかで自分を目立たせるような一番カッコいい時計が欲しいということでした。また、見た目だけでなく、彼は時計がパイロットにとって重要な道具であり、多くの危機的状況で彼らを助けてくれると信じていました」
カーペンターは、訓練と、どんな状況にも対応できるようにすることに力を注いでいた。「重要なのは、常に準備をしておくことです」とストーバー氏は説明する。「災害のための訓練、そしてさらに訓練を重ね、緊急時に必要なあらゆる装備を揃えておくことです。時計、計算尺、ナイフ、ドライバー。それらが救命ボートになるわけです。そして、装備よりも重要なのは、任務を遂行するための体力と、問題を解決するための精神力でした」
ストーバー氏は、スコット・カーペンターが腕時計を宇宙飛行士にとって特に重要な装備だと考えていたことを示唆している。「彼らは、失敗のリスクに備えていました。例えばアフリカやボルネオに着陸するときなどです。もし、ボルネオ島に着陸したら、時計と計算尺が生き残るために重要な役割を果たすかもしれない。もし、星や星座を見つけられたら - 父はそれができました - 時計と計算尺が命を救ってくれたかもしれませんね」。ストーバー氏は、彼女の父親が厳しい訓練から得た大きな自信と、恐怖心を克服する心に誇りを持っていたという。
カーペンターは当初から、宇宙飛行士が使用するのに最適な時計のビジョンを持っていた。何年も前のインタビューで、スコット・カーペンターは、ブライトリングの ナビタイマーを初めて知ったきっかけをこう語っている。「マーキュリー計画の初期、無人のアトラス打ち上げのために、私はオーストラリアのパースに行き、RAAF(王立オーストラリア空軍)と飛行しました。そのとき、私はブライトリングのナビタイマーを見たのです。それらはRAAFのパイロットのためのものでしたが、ナビタイマーは、アメリカの宇宙飛行士が持つべきものだと思いました」。
カーペンターは、ナビタイマーにみっつの改良を加えることで、宇宙飛行士のための理想的な計器になると考えた。
24時間表示
実質的にすべての時計やクロノグラフがそうであるように、ナビタイマーも12時間表示、つまり時針が12時間ごとに文字盤を一周するようになっていた。カーペンターは、90分ごとに地球を周回し12時間のあいだに何度も日の出や日の入りを見る宇宙飛行士には、24時間表示が望ましいと考えたのである。
そのため、マーキュリーカプセルのパネルに取り付けられた時計は24時間表示で、UTC(協定世界時)に設定されていた。この24時間表示により、宇宙飛行士は表示されている時刻が午前か午後かを考えることなく1日の時間を知ることができる。比較的小さな修正によって、ナビタイマーに搭載されたヴィーナス178ムーブメントを24時間表示に使用することができたのだ。
シンプルな計算尺
ナビタイマーに組み込まれた計算尺は、ダイヤル上にふたつ、回転ベゼル上にひとつ、合計みっつの目盛りがプリントされていた。ふたつの標準的な計算尺(CおよびDスケールと呼ばれる)は、掛け算と割り算を行うことができる。ナビタイマーの文字盤に印刷されたみっつめのスケールは、時間/分スケール(HH:MM)であり、時間/距離の計算に使用される(例えば、自動車が時速74マイルで走行する場合、3時間30分で何マイル走れるか? また、飛行機が時速180マイルで飛行している場合、500マイルを飛行するのにかかる時間、または所定の量の燃料を消費するのにかかる時間はどれくらいか)。この第3の目盛りは、分(内側の計算尺に表示)を時間に変換し、HH:MMの形式で表示される。
カーペンターは、ナビタイマーのみっつめのHH:MMスケールが宇宙飛行士にとって役立たないこと、そしてこのスケールを削除することで文字盤がより見やすくなることに気づいた。これによって時間を示す数字に余裕が生まれ、シンプルにすることで時計と計算尺の目盛りの視認性が向上するのだ。
広いベゼル
カーペンターは、厚手の手袋をした宇宙飛行士が計算尺を使えるように、ナビタイマーのベゼルを太くすることを要求した。標準のナビタイマーのベゼルは約40.5mmであるのに対し、改造後の時計のベゼルは約42.5mmの大きさになっていた。
宇宙飛行士からの突然の電話
新しい宇宙飛行士の時計をどのような構成にするかを決めたスコット・カーペンターは、ニューヨークにあるブライトリングの米国代理店、Wakmann Watch社に連絡して改造を依頼し、彼の飛行に間に合うように時計を製造できるかどうかを確認した。グレゴリー・ブライトリング氏によると、米国の販売代理店がスコット・カーペンターが飛行中に着用する時計の製造について連絡してきたとき、ウィリー・ブライトリングは有頂天になったそうだ。「父は、米ソの宇宙開発競争に強い関心を抱いていました」と彼は言う。「父は、宇宙に浮かぶスプートニクを描いた非常に未来的な置き時計(ベビームーン)をデザインしていました。私たちは家の外に立って、夜空に浮かぶスプートニクを見つけたものです。スコット・カーペンターが飛行中に着用するクロノグラフの製作を依頼されたことは、父の想像をはるかに超えるもので、父はカーペンターが満足するような時計を製作しようと決意していました」。
ブライトリングがスコット・カーペンターのために製作した時計は、新型クロノグラフであるコスモノートのプロトタイプとなるそのときだけのものだった。この時計にはカーペンターが要求した改造が施され、ダイヤルにはAOPAのロゴが入り、ダイヤル下部には「Navitimer」の文字がプリントされている。ケースバックにはナビタイマーのリファレンスナンバーである「806」が記され、プロトタイプであるため、ケースにはシリアルナンバーがない。カーペンターが宇宙服の袖に時計を装着できるように、ウィリー・ブライトリングは特別なスティール製ブレスレットを調達した。
カーペンターは、1962年3月15日にMA-7ミッションの宇宙飛行士に任命された。ブライトリングはカーペンターのためにタイムリーに時計を製作し、飛行の5日前である1962年5月19日、カーペンターはWakmann Watchの社長に時計を受け取ったことを確認する手紙を送った。カーペンターは、「ここだけの話ですが、この時計を持っていくつもりです。この時計がどんな環境にも耐えられることを望んでいます」 と書かれている。
スイス製腕時計、初の宇宙飛行へ
最初の4回のマーキュリーの飛行は、2対の飛行として理解するのが最も適切である。最初の2回の飛行は軌道下飛行で、アラン・シェパードがアメリカ人として初めて宇宙飛行を行い(1961年5月)、飛行時間は15分28秒。ガス・グリソムもこの飛行を補うのように(1961年7月)15分37秒の飛行を行っている。1962年2月、ジョン・グレンがアメリカ人として初めて地球周回軌道に乗り、4時間55分23秒で地球を3周回った。1962年5月24日、スコット・カーペンターがこの飛行と同様に地球を3周し、4時間56分5秒の飛行を達成した。その後の飛行で宇宙飛行士の滞在時間は延び、1962年10月にはウォーリー・シラーが9時間強で9周、ゴードン・クーパーは34時間の宇宙飛行中に22周を達成した。
スコット・カーペンターのミッションの目的は、宇宙飛行士が地球の軌道を周回する能力を裏付けることと、飛行中に特定の科学実験を行う(米国初の宇宙食を食べた宇宙飛行士となるなど)ことだった。カーペンターのオーロラ7カプセルは、高度166.8マイルに達し、軌道1周に88分強を要した。最高速度は時速1万7549マイルで、カーペンターの飛行距離は7万6021立方マイルであった。飛行中の最大重力は7.8Gだった。
飛行中の機械的な問題により、カーペンターは着陸予定地から250海里(約460km)オーバーシュートし、米国東部標準時12時41分(世界時17時41分)に水しぶきを上げた。NASA、ホワイトハウス、メディアにとって、カーペンターが外洋で発見されるかどうか急迫した事案となり、捜索機が彼を見つけるまでの39分間は神経をすり減らす時間となった。
海軍のフロッグマンが到着するまで宇宙飛行士はカプセルのなかに留まるのが望ましい手順であったが、カーペンターは、ヘリコプターが彼を見つけるまでに時間がかかること、カプセル内に有効な換気装置がないことを考慮し、カプセルから降りてなかに搭載されていた小さなゴム製の救命いかだへ移動することを決断した。重要なことは、オーロラ7カプセルは傾き、カプセルを安定させ沈むのを防ぐために彼が何度も潜水する必要があったと言うことだ。
カーペンターはこの小さな救命ボートで3時間外洋にいたため、時計は海水でびしょびしょになってしまった。記録によると、カーペンターが救命いかだから引き上げられたのは 米国東部標準時3時40分(世界時20時40分)、カーペンターのコスモノートの針が止まったのは66分後の世界時21時46 分 (米国東部標準時4時46分)である。
これによりカーペンターは、宇宙で使用された最初のスイス製腕時計で離陸から海上に回収されるまでの時間を知ることができ、その使命を果たしたと言える。カーペンターは、外洋でのダイビングには不向きでも、宇宙を飛ぶために適した腕時計を選んだのである。
ブライトリングはスコット・カーペンターの飛行のために初代コスモノートを提供しており、グレゴリー・ブライトリング氏は、会社がこの時計の所有権を保持していると考えている。カーペンターは、海上で水浸しになり修理や保存が必要なこの時計をブライトリングに送り返したのだ。
時計を受け取ったウィリー・ブライトリングは、あるジレンマに直面した。時計を分解し、水によって損傷した部品(ダイヤル、針、ムーブメントなど)を交換し、完璧な外観の時計に組み立てるのは簡単なことだっただろう。オーロラ7号の飛行後すぐに最初のコスモノートが製造されたため、ブライトリングは必要な部品をすべて持っていたはずだ。つまり、損傷した部品がすべて新しく「交換」されたなら、「飛行した」時計とは、飛行した「ケース」になってしまうのだ。
グレゴリー・ブライトリング氏は、ウィリー・ブライトリングがこの時計を見たとき、再構築や修復をしてはならない「神聖な」歴史の一片を手に入れたことに気付いたと回想している。この時計は1962年5月24日の午後21時46分に停止したが、それはアメリカの宇宙開発、そしてブライトリングとスイス時計産業の歴史において重要な瞬間だったのだ。この時計は、カーペンターが飛行中に着用し、救助されるまで動き続けていたものだ。「オリジナル」であり、ほかのすべての時計と同様に、手を加えないことでしか真のオリジナルにはなり得ないものだった。ウィリー・ブライトリングは、この神聖な時計に手を加えず、時計内部の汚れも落とさず、風貌のクリーニングもしないことを選択した。
宇宙飛行士のためのコスモノート
コスモノートが生産されるとすぐに、ブライトリングはカーペンターに、飛行した時計に代わる新しい時計を送った。カーペンターはこれを日常的に身につけていた。その後修理に出され、針がコスモノートののちのモデルに使われるスタイルの針に交換された。
グレゴリー・ブライトリング氏は、カーペンターが飛行したコスモノートの交換用時計を送ったことに加え、マーキュリー計画の宇宙飛行士ひとりひとりにコスモノート クロノグラフを提供したことを確認している。マーキュリー・セブンの宇宙飛行士の何人かが、長年にわたってこれらの時計を着用している写真を見ることができる。
ジョン・グレンが所有していたブライトリング コスモノートは、彼の遺品整理で落札されたあと、最近グレゴリー・ブライトリング氏が公開オークションで入手した。
「スペース・ウォッチ」をはじめとする宇宙の記念品を収集する愛好家のコミュニティが生まれ始めた2000年頃、スコット・カーペンターが飛行したコスモノートの行方は何度も話題になったものだ。ブライトリングがスコット・カーペンターを称えるコスモノートシリーズを復刻したことも"彼が宇宙で着用したオリジナルのコスモノートはどこにあるのか?"という疑問を呼び起こした。現在、この時計はグレゴリー・ブライトリング氏の金庫にレストアされていない状態でしまわれていたことがわかっているが、オッカムが示唆するこの単純な答えではなく、飛行したコスモノートの着地点についてはいくつかの説明が登場した。ブライトリングが提供した「代替品」のコスモノートをスコット・カーペンターが所有していたという事実も、飛行した時計を追跡しようとする人々のあいだに混乱を招いたのかもしれない。
スコット・カーペンターが飛行させたコスモノートの行方については、長年にわたってコレクター間でみっつの説が唱えられてきたが、皮肉にもそのいずれもがグレゴリー・ブライトリング氏の金庫に眠っているという事実よりも複雑なものであった。ブライトリングSAはもはやブライトリング家の所有ではないため、同社に問い合わせると、この時計は海に沈んだあと、破壊されたのだろうという答えが返ってくるのが普通だった。もうひとつは、水没した時計が誤った部品で修復され、個人のコレクターが所有しているという説である。みっつめは、飛行したコスモノートはブライトリング家が所有しており、初期のコスモノートの仕様で復元されたものだという説だ。
宇宙へ行った初のスイス製腕時計が2022年、登場する
グレゴリー・ブライトリング氏は、スコット・カーペンターの飛行したコスモノートが長いあいだ公開されなかったのは、その機密性を維持しようとする家族の意思に基づくものではなかったと説明する。彼の家族はもはや会社とは無関係であり、他の優先事項があった。「私たちはこの宇宙へ行った時計を見てどうしようかと考えていたわけではありません。私たちは、ほかのことで頭がいっぱいだったのです」。
2017年、ブライトリングSAがプライベート・エクイティ企業に買収され、ジョージ・カーン氏が同社のCEOに就任すると、この状況は一変した。グレゴリー・ブライトリング氏は、現在のブライトリングのカタログが、彼の家族のメンバーが開発したヘリテージモデルからインスピレーションを受けていることを高く評価している。「部屋の向こうから見ても、その時計がブライトリングであるとわかります。これこそがブランドの本質であり、何年、何十年経っても一貫した特徴的な外観を持つのです」。それだけではない。グレゴリー・ブライトリング氏はジョージ・カーン氏やフレッド・マンデルバウム氏と親密な関係を築いている。ブライトリングを築いた家族の貢献が今日の会社で十分に評価されるようになったと彼は信じている。
「今、人々はこのような歴史的な時計に興味を持っています」と彼は語る。「インターネットやオークションハウスによって、人々はこれらの時計の歴史を学ぶことができます。現在のブライトリングがこの時計のストーリーを共有することを、サポートできてうれしく思います」。
今回お見せするように、スコット・カーペンターの飛行に使われたブライトリング コスモノートは、文字通り「激しく着用され、濡れたまま収納され、60年後に回収された」時計がどのようなものであるかを物語る。予想通り、ムーブメントはほとんどの部品に激しい錆が見られ、メインのクロノグラフブリッジと歯車だけが比較的原型をとどめている。
文字盤は「溶岩惑星」(マンデルバウム氏の言葉)のような外観で、数字が目立ち、AOPAのロゴが文字盤の上部にはっきりと見える状態で残っている。曜日針は歪んでおり、文字盤の破片が針と針のあいだを埋めるように入り込み、その場で止まっているように見える。クロノグラフ針は見えるが、汚泥でコーティングされているようで、針がその位置に固まってしまっている。クリスタルは薄い膜で覆われているためこれをつけると、文字盤の細部が見えにくくなる。クリスタルを装着した状態では、スコット・カーペンターと宇宙に行ったブライトリングのコスモノートは別世界のもののように見え、エンジニアや宇宙飛行士が使用する精密機器というよりも、遠い惑星の表面や流星のように見える。
スコット・カーペンター 限定モデル
スコット・カーペンターの飛行から60周年を記念し、また宇宙で使用された初のスイス製腕時計という栄誉を得たこの腕時計が初めて一般公開されたことを記念して、ブライトリングはコスモノートの新しい限定モデルを発表した。ナビタイマー B02 クロノグラフ 41 コスモノート 限定モデルは、宇宙飛行士がデザインし着用したコスモノートにオマージュを捧げるモデルだ。
スコット・カーペンターがデザインし、着用したコスモノートに敬意を表するとともに、この時計を今日の愛好家にとって理想的な計器にするための機能も組み込まれている。
オールブラックの文字盤にみっつのレジスター(12時間積算計)、2~24の大型アラビア数字と温かみのあるトーンの針、文字盤にひとつだけ印刷されたシンプルな計算尺による視認性など、「スコット・カーペンター」コスモノートの基本要素は受け継いでいる。エンジニアとしてのスコット・カーペンターが宇宙で着用する時計の仕様を提供したように、ブライトリングのエンジニアは、この限定モデルをより魅力的なものにするための機能を盛り込んだ。宇宙飛行士の手袋に合わせてオーバーサイズにするのではなく、ベゼルはケースの輪郭に沿ってギザギザの加工が施されている。また、時分針に組み込まれた日付表示は、カーペンターが要求したものではないが、今日の顧客からはしばしば要求されるものだ。
マンデルバウム氏は、カーペンターの飛行とコスモノートの誕生から60周年を記念して、ブライトリングはオリジナルウォッチを1対1でコピーする以上のことをしたかったのだと示唆している。「この時計の改良は、オリジナルの時計を製作したウィリー・ブライトリングとスコット・カーペンターへのトリビュートとしてふさわしいものです。コピーを作っただけでは十分ではなかったでしょう」。
今回の限定モデル、コスモノートの最も意外な特徴は、ベゼルにプラチナが使われていることだろう。戦闘機パイロットや宇宙飛行士が耐久性に優れたステンレススティールを好むのは当然だが、貴金属を使ったユニークなベゼルを採用したことで、「スコット・カーペンター」のコスモノートがほかのモデルと異なるのはベゼルであることが際立った。マンデルバウム氏は語る。「スコット・カーペンターがコスモノートに指定した幅広のベゼルは彼の時計を特徴づける要素であり、限定モデルのプラチナベゼルもまた、ユニークな特徴です。貴金属を使用することで、この時計が重要な歴史的出来事を刻み、永遠に残ることを告げているのです」。
ケースバックには「宇宙で活躍した初のスイス製腕時計」へのオマージュを示すマークがあり、サファイアクリスタルを通して見えるムーブメントのマークには、「カーペンター」の名前とオーロラ7のロゴが記されている。マーキュリー7のカプセルの絵も描かれており、"地球を3周する "ことを達成した概要が記されている。手巻きムーブメントB02は70時間のパワーリザーブを備え、薄型構造によりケースの厚さは10.9mm(ベゼル部)と、ヴィンテージの先代モデルである11.25mmよりも薄型に仕上がっている。
2008年のインタビューで、スコット・カーペンターは、自分が常に腕時計に魅了されていたことを認めている。シェパード、グリソム、グレンという歴代の宇宙飛行士が腕時計をつけずに飛行したのに対し、カーペンターは自分のミッションに最適なまったく新しいタイプの腕時計を率先してデザインしたのだ。常に航空に関心を持ち、宇宙開発に魅了されていたウィリー・ブライトリングは、カーペンターにとってこの時計の制作において完璧なパートナーだった。カーペンターは、「私が飛行機に魅了されるのは、飛行機がとても素晴らしい機械だからです。時計も同じです」と語っている。
スコット・カーペンターとウィリー・ブライトリング、そして彼らの素晴らしい新コスモノート クロノグラフにとって、1962年5月24日は「ミッション達成」の日だった。60年後、愛好家たちは彼らの物語と、この素晴らしい時計に対するブライトリングの賛辞を分かち合うことができるのだ。
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