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今の時代に、ミントコンディションで、市場に出回ったばかりの真に歴史的な重要性を備えた時計を発掘できることは稀である。だが希少ではあるものの、不可能ではない。
ここでは、有名なレーシングドライバー、キャロル・シェルビー(1923-2012)と彼が1959年に授与されたピンクゴールド製のパテック フィリップのクロノグラフ Ref.1463のストーリーを初めてご紹介する。この時計は、アストンマーティンDBR1で、コ・ドライバーのロイ・サルヴァドーリと共にル・マン24時間レースに勝利した時のトロフィーだった。このレースでの勝利は、シェルビーのレースキャリアのハイライトだった。そして、ロレックスではなくパテックのクロノグラフが、究極のカーレースの賞品として与えられたという事実は? これによって時計の歴史が書き換えられることになる。
2019年の映画『フォードvsフェラーリ』(原題: Ford v Ferrari)では、キャロル・シェルビー(特にフォード時代)を理解するための枠組み(ハリウッドスタイルで)を知ることができる。ドキュメンタリー映画『Shelby American: The Carroll Shelby Story』では、養鶏家としての失敗に終わった彼の試みから、レース時代、そして彼のレガシーとその後のACコブラやシェルビー・マスタングの開発に至るまで、シェルビーの人生とレガシーについて、より現実的な洞察を得ることができるものだ。
最近、キャロル・シェルビーの末っ子であるパット・シェルビー氏とこのパテック フィリップ Ref. 1463について話す機会を得た。パット氏はル・マンのピットにいて、その記念すべき日に出席した側近で生き残った最後のメンバーの一人だ。「当時はまだ子供で、歴史を目撃していることに気がついたのは、ずっと後のことでした。」と彼は話す。
キャロル・シェルビーは高校を卒業してすぐにアメリカ空軍に入隊した。彼は訓練のためにサンアントニオに派遣され、すぐに才能あるパイロットとしての評判を高めた。彼の息子によると「空軍は彼を空軍曹にしました。彼は海外に行くために入隊したが、他の人を訓練するためにここに残しておいたのです。彼は他のパイロット、航海士、爆撃士の訓練を担当し、何でも操縦しましたが、兵役中に最後に操縦したのはB29でした。いつも戦場に行けなかったことに失望していたようです」。
戦後、シェルビーは空から地上に目を向け、ほぼ専らカーレースに専念した。彼は29歳でプロのドライバーとして走り始め、瞬く間に国際的なレース界の注目を集めるようになったのである。
彼は、国際的なレースに出る前の1940年代後半から1950年代前半に国内レースに出場。1954年、彼はブエノスアイレス1000kmに参戦。そこでアストンマーティンと出会い、1959年の有名なル・マン24時間レースへとつながる関係が始まったのだ。彼のレースでの知名度と名声は高まり、ル・マンレースで最高潮に達した。
1950年代を通じてシェルビーは、セールスマンとしてのスキルを磨き、様々なオーナーを説得して、自分が彼らの車をレースで走らせるに値すると確信させた。シェルビーは、オーナーやチームに自分が仕事に適した人物であることを説得し、アストンマーティン、オースティン・ヘイリー、フェラーリ、マセラティ、ポルシェなどの車をレースで走らせたのである。
シェルビーは、1959年のレースが彼のレースキャリアの最高点であることを知っていた。そして、ル・マン24時間レースでの優勝でパテック フィリップを受け取った日が、彼の人生の次の章の舞台となった。1961年、彼は南カリフォルニアのリバーサイド・トラックにシェルビー・スクール・オブ・ハイパフォーマンス・ドライビングを開校した。
「24時間レースに勝ったことは、おそらくレースから得た最大のスリルだったよ」とシェルビーは語った。「他のレースでも優勝者にスリルを与えるものはたくさんあると思う。だが、このレースで優勝したときは、自分の良さを伝えるライセンスを与えてくれたようなものだった。それが他の取引につながることも多い」。
彼の息子によると、一度パテック フィリップを受け取ってから、彼はそれを控えめにポケットに入れて、レースの仕事に戻ったという。シェルビーは金持ちや賞賛のためにレースをしていたわけではない。彼は勝つためだけにレースに参加していたのだ。
パテック フィリップ Ref. 1463
このRef. 1463そのものは、非常に保存状態が良い。シェルビーは物質主義者ではなかったので、この時計を身に着けることはほとんどなく、後に当時10代だった息子パット氏に贈った。
記念すべき日を象徴するその時計を、家族は思い出深い価値をもったものとして大切にしてきた。「私はそれを身に着けなかったのですが、そうしないことに父は動揺していました」とパット氏は言う。「身に着けるべきだと言われましたが、私は断りました。手つかずだった時計を私はそのまま保ちたかったのです」。
全てはこのRef. 1463の状態が物語っている。オリジナルのストラップ、ゴールドのカラトラバロゴが入ったオリジナルの赤い箱、そして一度もクリーニングやポリッシュがされていない状態なのだ。Ref. 1463の一例として、このモデルは聖杯の標本と言えるだろう。その驚くべき歴史が、このモデルを新たなレベルに引き上げている。裏蓋の刻印“CARROLL SHELBY. ASTON MARTIN 1st LeMans 1959. 270MILES”という刻印も完璧に保たれている。
この時計は、パット・シェルビー氏が長年の友人であるデニス・ブール氏に数年前に連絡を取るまで、大切に保管され、家族以外の人には知られていなかった。デニス氏はテキサス州ダラスにあるパテック フィリップの正規販売店であるデ・ブール・ダイヤモンド&ジュエリーのオーナーだ。デニスの息子ニック氏は、有名なレースカードライバー(@nickboulle)である。
パット氏は、デニス氏と息子が家族の時計に関して、信頼できる人物だと知っていた。パット氏は彼らに尋ねた「あなた達はレースに夢中だが、これには一体どんな価値があるんだい?」。デニス・ブール氏がこの時計を初めて手にしたときこう言った「カーレースの歴史の一部を手に取ったような気がするよ」。
シェルビーのレガシーと、新品のまま長く保管されていたこのRef.1463の重要性が明らかになり、素晴らしいアイデアへとつながった。
それは、キャロル・シェルビーがル・マン24時間レースで優勝するのを助けたアストンマーティンDBR1(多くの純正パーツや製造工程を経て再現された)と、「トロフィー」と呼べるこのパテック フィリップの時計を、ダラスのデ・ブールで展示することになったのだ。
「長年にわたり、私たちは車を収集する人々の多くがジュエリーや時計も収集していることに気付きました」とデニス氏は語る。「世界中のレースイベントにお客様をご招待することも多く、他では得られないVIPな体験をしてもらうことができます。店内に車と時計を展示することは、訪れる全ての人にとって素晴らしい経験になります」。
「1959年にル・マンで優勝したDBR1の再現モデルを、店内に収めるのは簡単なことではありませんでした」とニック・ブール氏は説明する。「スペースを確保するために、取り付けたばかりのフロントドアを取り外し、ドアの開口部から安全に入るように車を部分的に分解しました」。
何百人もの人が歴史的な車と、期間限定で展示されている時計を見ようと巡礼に訪れた。時計の将来については? 非売品である。それは彼らにとっての家宝であり、家族の中に留めるつもりのようだ。「ちぇっ、明日から着け始めるかもしれないよ」とパット氏は言った。
父は誇りに思うことだろう。
ジョン・リアドン(John Reardon)は、パテック フィリップの専門家として知られ、HODINKEEの寄稿者であり、ヴィンテージパテック フィリップに関する情報と知識を提供するWebサイトCollectability.comの創設者でもある。TOP画像:Bernard Cahier/Getty Images。