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時計愛好家のあいだで意見が分かれる最大のポイントのひとつとして、スマートウォッチが(例えばApple Watchなど、もちろんどのモデルにも言えることなのだが)、これが本当に時計なのかどうかということだ。当然この議論は定義の問題ではなく、腕に装着できるものに対する賞賛すべき広い心を表現しているのか、あるいは電子リストデバイスとその象徴に対する賞賛すべき嫌悪感を表現しているのかのどちらかである。
スマートウォッチよりも意見が分かれるのは、それをどのように身につけるかという問題だろう。この記事を読んでいる人には、スマートウォッチを機械式時計の代わりに使っている人はいないと思うが、スマートウォッチを使っている人(私は普段Apple Watchを使っている)は、もう片方の手首に機械式時計をつけていることが多い。
これは理にかなっているものの、実際には奇妙に感じられるはずだ。しかし、長年の習慣により私たち時計愛好家は、ひとつの時計を身につけることに慣れてしまっているため、ふたつの時計を両手に身につけることは間違いなくおかしいと感じる。しかし、何年か続けているうちに、スマートウォッチと機械式時計の組み合わせが、もう少し自然に感じられる方法があることに気がついたのだ。(この記事で撮影したApple WatchはSeries 7の45mmモデル)。
大小2つのつけこなし
片方の手首に時計をつけるということは、左右で非対称になるということであり、それぞれの手首に同じような大きさのものをふたつつけるということが普通ではないために、違和感がある。では、どうすればいいのか? 慣れ親しんだ(固有受容)感覚を利用して、質量、サイズ、またはその両方の点で、どちらかの時計がもう一方の時計を圧倒するようにすればいい。
41mmや45mmのApple Watchは、Fitbitのような目立たないものに比べてかなり大きなスペースを占める。そのため、目立たないもの(例えば、タンク ルイ カルティエ)や比較的目立ちにくいもの(ロイヤル オークオフショアとか? おそらく)などと組み合わせることは、基本的に同じものをふたつけていないと感じさせる、最も基本的な方法のひとつである。 いずれにしても、技術的にはふたつの時計を身につけていることに変わりはないが、それは冗長さを感じさせず、多様性の謳歌しているように感じられることだろう。
同じサイズのものをふたつつける
これは、脳を騙してふたつの時計をつけていると思わせないための戦略というよりも、脳が慣れないものを受け入れるように再訓練するためのものだ。このシナリオでは、片方の手首にあるものをもう片方の手首に補完させようとはしない。代わりに、片方の手首で快適に感じるものは、おおよそもう片方の手首でも快適に感じるものであるという事実を受け入れる。そして、右手首も左手首と同じように幸せになるべきではないだろうか。その逆もまた然りだ。
この手法を採用することで、いくつかの興味深い点がある。ひとつは、もちろん選択肢が非常に多くなったということ。愛好家たちは1mm単位での議論を好むが、ひとりの人間が快適だと感じるサイズの実際の範囲は、おそらくその人にとってかなり狭いものだ。そのため、例えば45mmのApple Watchを購入した場合、ほかの多くの時計も、あるいはほとんどの時計もサイズ的にはほぼ同じになると考えられる。例えば45mmのApple Watchとセイコーのダイバーズウォッチを組み合わせても、決して相反するものをつけるシナリオにはなりえない。その代わり、あなたは基本的に自分の身体感覚の記憶にこう言うのだ。"うん、ちょっと間違った感じはするけれど我慢してくれ。どうにかしてくれ"。
「魔法はコンフォートゾーンの外で起こる」という言葉があるが、まさにその通りなのだ。
高いものと安いものを一緒に
ここで、あなたには「同じものをふたつ持つ」ことに必要な違和感を解消する能力が、生まれつき備わっていないと仮定しよう。スマートウォッチから得られる楽しさや機能性を求める一方で、機械式時計に注ぎ込んだ感情的な投資をあきらめたくない。つまり、この物語の大前提である「何としてもケーキを食べたい」という気持ちを持っているわけだ。
もうひとつの方法は、困窮はしていないだろうけれど、片方の手首には少なくとも便利で実用的なものを選ぶということ。同じものをふたつ持っているとは思えないほど洗練され、完璧に仕上げられた機械的なものを装着するのだ。理想的なのは、実用的で控えめなケース素材を使った小型のスマートウォッチを持つことだ。アルミニウムであれば問題ないが、ローズゴールドカラーのスマートウォッチや、セラミック製のApple Watch(あるいはソリッドゴールドのEdition Series 1)のようなものであれば、この戦略はあまり効果的ではないだろう。もう一方の手首には、サイズや重さの点で意図的なミスマッチはないにしても、時計の伝統に根ざした古典的な美しさを持つものを身につけるといい。
この独特のバイヴスのいいところは、もしあなたが少しでも余裕があるなら、可能な限りの幅広い選択肢があること。右腕に41mmのApple Watchを装着すると、左腕のカラトラバや(ロイヤル オーク)ジャンボ、さらにはロジャー・スミスやフィリップ・デュフォーのような高級時計とはまったく正反対の感覚になるだろう。もし、あなたがこれらの時計を買えるほど一生懸命働いてきたのであれば、転倒防止や不整脈の予防のために、時間を追うごとによいアイデアを思いつくような年齢になっているはずだ。実際に、Apple Watchが発売された最初の年、SIHHで偶然出会ったコレクターの友人は、片方の手首にダトグラフ、もう片方の手首にApple Watch Series 1を装着していた。
ある年齢になると、2つの時計を身につけているという感覚はなく、片方の手首には時計(つまり、一生懸命働いて得た美しき報酬)を、もう片方の手首には携帯用の小さな医療保険を身につけているような感覚になるわけだ。
フェイス: シンプルさと複雑さの融合
これは、先ほどと同じような戦略だが、多くの人にとっては、より安価であるという利点がある。この方法では、コントラストをつけることで、二重構造にありがちな奇妙さや奇抜さを抑えることができる。片方の手首には、オタク的とまではいかないまでも、技術的な情報を盛り込んだものを、もう片方の手首には、ミニマルな雰囲気を大切にしたものを用意する。
これは、ミニマリズムがシンプルなものではなく、実際のミニマリズム、つまり表現を明確にするために慎重にデザインが縮小されたものである場合に有効だ。(ブランドのマーケティング部門の方がこれを読んでいるとしたら、私は多くのプレスリリースが間違っているのを見たことがあるとお伝えしたい。自分の時計がミニマルであることを誇りに思うということは、それが丹念に洗練されたプロセスを経ているということだ。一方、「シンプル」ということは、基本的にデザインチームが早くランチに行きたがっていることを意味する)。
私は個人的にこの方法をよく使っている。実際、ダブルリスティングの戦略で最も好きな方法かもしれない。この方法が好きなのは、機械式時計とスマートウォッチの違い、つまり片方の手首にはすっきりとしたクラシックなものを、もう片方の手首には個人的なダッシュボードのようなものを持つことができるという点に直結しているからだ。これは、1970年代の子供のころ、スタートレックに出てくる多機能センサー機器「トリコーダー」が欲しかったことと関係があるかもしれない。
機械式時計でもチーム・コンプレックスを演出することは可能だ。クロノグラフはもちろん、オープンダイヤルのミニッツリピーターや永久カレンダー(あるいはグランドコンプリなど)でもいいだろうし、Apple Watchには優れた美観を持つフェイスを使うこともできる。しかし、私を含めた多くの人にとっては、スマートウォッチをApple Watch Modularフェイスのような情報密度の高いディスプレイに設定し、もう一方にオリエントスターやグランドセイコー、タンク、サントスなどを配置する方がずっと簡単で、ある意味ではより理にかなっている。機械式のダイバーズウォッチにも対応する。
これは、機械式時計とスマートウォッチのそれぞれの長所を活かした戦略であると同時に、最も汎用性が高く、手頃な価格の選択肢でもあると思う。
雰囲気をつくる:外観か機能性か
これは「シンプルさvs.複雑さ」と非常によく似た戦略だが、独立したものとして認められるほどの違いがある(もちろん、異論はご自由にどうぞ)。「シンプルさvs.複雑さ」は美的感覚にも触れていますが、実際には最も基本的なことであり、提供される情報量の問題となる。もちろん、それをデザインから完全に切り離すことは不可能だが、それはこのエクササイズの主旨ではない。
一方、「外観 vs. 機能性」では、「道具的」または「道具時計的」なものと、「デザイン的」なものを比較している。繰り返しになるが、可能性は無数にあり、制限されるのは一方ではあなたの時計コレクションの大きさと範囲、もう一方ではスマートウォッチで遊びたいフェイスの数だけだ。
片方の手首にはテクニカルなダイバーズウォッチを、もう片方の手首にはデザイン性の高いフェイスや詩的な雰囲気のあるものを、という組み合わせも考えられる。例えば、私がよくやっているのは、セイコーをはじめとするいくつかのダイバーズウォッチ(ブローバのデビルダイバー復刻版も含む)を左手首につけて、右手首にはApple Watchの天文表示をつけるというもの。
天体の顔は、デザイン的にはあまりよいものではないが、このケースでは、トランスパーソナルで超越的な体験を感じさせるという点で、うまく機能する。地球のどの部分に光が当たっているのか、影ができているのか、惑星がどこにあるのかを見ることで、皮肉なことに初期の複雑時計の背景にあった、整然とした時計仕掛けの宇宙という視点に立ち返ることができるのだ。この組み合わせでは、単にコントラストを楽しむだけではなく、歴史的な根拠に基づいた象徴と意味の微妙な一体化を楽しむことができる。
Apple Watchでも、純粋に見た目で楽しむことはできる。「火」や「水」の文字盤は、テクニカルなダイバーズウォッチ(またはクロノグラフなど)の美的な対極にあるだけでなく、珍しいオートマトンの懐中時計を除いては、機械式時計には真似できないものだ(例えば、ラ・ショー・ド・フォンの国際時計博物館には、回転するガラス棒を使って、かなり説得力のある滝のようなイリュージョンを作り出しているものが存在する)。
この戦略のよいところは、自分が納得できる妥協点を見つけようとしているというよりも、手首を使ったマルチメディア・アート・インスタレーションを作っているように感じられることだ。
ストラップとブレスレット
これは簡単だ。片方の手首にレザー? もう片方の手首にはブレスレット、またはその逆で装着する。Apple Watchにシリコンストラップ? 機械式時計には、ワニ革やシェルコードバンのストラップがいいだろう。つまり、パテックのパーペチュアルのような高級コンプリケーションにNATOストラップをつけている写真を見たことがある人は多いと思うが、この組み合わせ自体を擁護するわけではないけれど、それとは全然違う。そうすれば、Apple Watchのインフォグラフィック・フェイスのひとつと、もうひとつのマグネットクラスプのレザーストラップを組み合わせることができる。そうすれば、入れ子状になった一連のコントラストが、日々の生活で考えを巡らせてくれるだろう(あるいは、仕事を片付けようとしている人によっては、気が散ってしまうかもしれない)。
文字どおりの意味での可能性は無限ではないものの、世の中に存在する時計の組み合わせやストラップの組み合わせの数を考えると、これは最も汎用性の高い選択肢と言えるかもしれない。純正のストラップやブレスレットは、メーカーやブレスレット、バックルの金属によっては驚くほどの金額になることもありますが、少なくとも最も安価な選択肢のひとつと言える。
しかし、もしあなたが私のように、OEMやその他のストラップやブレスレットが引き出しやジップロックバッグ、使わない時計箱のなかに気が遠くなるほどたくさんあるなら、あなたは思っている以上にたくさんの遊びをすることが可能だ。ダブル・リスティングは、右手首と左手首のあいだに平和条約を結ぶこととは正反対であり、実際には積極的かつ日常的な創造行為で、いわば時計のコラージュ芸術の練習でもある。
心配しなくてもいい、だってこの辺では誰がボスなんだ?
ダブル・リスティングは、機械式時計とApple Watchなどのスマートウォッチとの組み合わせに限定して考えられることが多いが、何を隠そう、機械式時計が存在する限り人々はそれを行ってきただけでなく、個人的なスタイルの表現としてもますます一般的になってきている。ニューヨーク・タイムズ紙のアレックス・ウィリアムズ氏は、2019年にこのテーマをいつものように深く正確に取り上げているが、いくつかの例を挙げると、ダブル・リスティングは、ノーマン・シュワルツコフ将軍のような軍人、クリス・プラットのような舞台や映画のスター、そしてドレイクからビリー・アイリッシュまでの膨大な数の音楽アーティストがしていることだ。
これに加えて、非常に高価な時計にブレスレットを重ねることが多いので、私の時計における強迫観念は大きく崩れてしまう。(それがなければ、この記事を書くことも、時計ライターになることもなかっただろう)しかし、ふたつ以上の時計を身につけることは、スマートウォッチと機械式時計を組み合わせること以上の意味があることは否定できない。もし、片方の手首にスマートウォッチ、もう片方の手首に機械式時計をつけたいのであれば、そうすればいい。なぜなら、それらはあなたの手首であり、あなたの時計だからである。それが気に入らない人には、消えてもらえばいい。
しかし、私がこれまでに見た最も極端なダブル・リスティングの例は、俳優でも将軍でも音楽家でもなく(もしくは革命家、チェ・ゲバラはダブル・リスティングをしたとされている)、ニコラス・G・ハイエックという控えめな実業家であり、引っ込み思案の財界人であった。"引っ込み思案"というのは、もちろん皮肉を込めて言っているのだが、私や同僚のジョー・トンプソンが、直接会ったとき(あるいは電話で説教されたとき)にいつも「会長さん」と呼んでいた彼ほど、嬉々としてマスコミに話しかけ、そう、嬉々としてマスコミを操っていた人には、私の職業人生で会ったことがないのだ。"Mr. Swatch"と呼ばれていた彼は、一度に8個もの時計を"stacked"(重ね付け)していたが、それがスタイルの観点から"worked"(うまくいく)かどうか、あるいは時計ケースに優しいかどうかを、彼が一瞬たりとも考えたことはないだろう。
ローマ帝国の将軍が凱旋パレードで貢物を見せるように、ハイエックは自分が主権を握る領域(ブランド、と呼んでほしい)を具体的に示すために、両手首に複数の時計をつけていた。クォーツ危機のあと、スイス時計産業を窮地から救うために誰よりも尽力した男にできることであれば、あなたにもできるはずなのだ。