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Found 五つ星将軍、オマール・ブラッドレーの特別なブローバ アキュトロン

7月4日にふさわしい、“ファイブスター”ウォッチについて。


本稿は2017年7月に執筆された本国版の翻訳です。

五つ星の将軍、オマール・ブラッドレー(Omar Bradley)がかつて所有し、着用していたブローバ アキュトロンウォッチの実物を見つけたことは驚きだった。第2次世界大戦中、アメリカ第1軍の司令官まで上り詰めたブラッドレーが1958年から1973年までブローバの取締役会長を務めていたこと、そして五つ星の徽章(きしょう)が付いた時計がかつて存在したことは知っていた。しかしこれらの時計については、ブローバ愛好家のウェブサイトにさえその痕跡はなく写真もなかった。

Omar Bradley 5 star insignia

五つ星の徽章(きしょう)を付けたオマール・ブラッドレー陸軍元帥。

 ブラッドレーは五つ星の階級を持つ最後のアメリカ軍将校であり、これは陸軍元帥を示している。ブラッドレーはブローバの運営に尽力したが、同時にアメリカ軍の退役軍人を社会に復帰させることにも力を注いでいた。退役兵をブローバの時計製造学校で訓練し、ブローバのプログラムを兵役後の兵士再教育の青写真としていたのだ。彼はまた、ブローバを時計製造会社としてだけでなく、特に冷戦期において軍事および航空宇宙用途の重要な計時機器メーカーとして成長させた。

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ブローバ・ウォッチ・カンパニー

 J.ブローバ社は、1875年にボヘミア(現在のチェコ共和国)出身の移民であったジョセフ・ブローバ(Joseph Bulova)によって創立された。ブローバの製造はアメリカとビエンヌの両方で行われ、ラジオとテレビで広告された初めての時計を含む多くの“初”となる偉業を成し遂げた。

 ブローバ時計学校は、第2次世界大戦から帰還する兵士を訓練するために、ジョセフの息子アーデ(Arde)によって1945年に設立された。アーデ自身は第2次世界大戦には参加しなかったが、彼の兄弟であるハリー・D・ヘンシェル(Harry D. Henshel)が従軍していた。ここでブラッドレー将軍との関係が見えてくる。ヘンシェルは第1軍でブラッドレー直属の将校として従事しており、時計学校を視察するようにブラッドレーを招待したのはほかでもない彼であった。

Bulova's Harry Henshel with Omar Bradley

オマール・ブラッドレーとブローバのハリー・D・ヘンシェル。

 多くの企業がそうであったようにブローバもクォーツショックの影響を強く受け、1979年にロウズ・コーポレーションに買収された。2008年には日本のシチズン時計に売却され、現在ブローバは世界最大級の時計製造会社の一部となっている。


最後の五つ星将軍

 オマール・ブラッドレー元帥はミズーリ州の貧しい田舎に生まれたが、高校では学業とスポーツの両方で優秀な成績を収めた。卒業後は鉄道のボイラー工として働いており、日曜学校の教師のすすめでウエストポイントの入学試験を受けることとなる。1915年に「星が降りかかったクラス(the class the stars fell on)」と呼ばれるグループの一員として卒業したが、これは164人いたクラスのうち59人がのちに将軍となったことに由来する。第1軍を指揮した五つ星のブラッドレーがグループのなかで最高位の将校だと思われるかもしれないが、実際にはドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)に次ぐ地位にあり、彼もまた五つ星の階級を持ち、ヨーロッパにおける連合国遠征軍最高司令官となった。

Omar Bradley as a cadet at West Point.

ウエストポイントの士官候補生であったころのオマール・ブラッドレー。

 D-デイ(編注;戦略上重要な攻撃、もしくは作戦開始日時を表す際にしばしば用いられたアメリカの軍事用語)の上陸作戦時、ブラッドレーは約130万人の兵士を指揮しており、これはアメリカの歴史上、ほかのどの将軍よりも多い数字であった。それにもかかわらず多くの証言によれば、ブラッドレーは静かで礼儀正しい人物であり、大雑把で粗野な人格を持つ同僚たちとは対照的であった。物静かで思慮深く非常に内向的で、「お願いします(Please)」と常につけ、慎重な口調で話した。そして前線の兵士の状況に強く共感する姿勢から、“GI(米軍)の将軍”として知られるようになった。

 彼の統率スタイルに異論を唱える者もいたが、多くの人々にとって彼は部隊の安全に最大限の配慮を払った素晴らしい将校として記憶されている。第2次世界大戦終結時に彼は四つ星将軍の地位にあり、1950年には陸軍元帥(アメリカでは現在使われていない階級で、一般的に戦時中にのみ与えられる)に任命され、軍服に五つ星をつける資格を与えられた。

General George S. Patton, General Omar Bradley, and Field Marshal Bernard "Monty" Montgomery

まったく性格の異なる3人の将軍。ジョージ・S・パットン(George S. Patton)将軍、オマール・ブラッドレー陸軍元帥、そしてバーナード・“モンティ”・モンゴメリー(Bernard “Monty” Montgomery)陸軍元帥。


軍産複合体(MIC): ブラッドレーとブローバ

 ブラッドレーは初代アメリカ統合参謀本部議長となったが、朝鮮戦争に対するトルーマン(Truman)政権の対応に幻滅し、1953年に現役を退く。

 兵士の福祉に関心を持つ将校として、ブラッドレーが退役軍人局の長に就任するのは自然な流れであった。彼は1945年なかごろから1947年までその職を務め、特に負傷した退役軍人の市民生活への復帰支援に強い興味を持っていた。ブローバ時計学校は、障害者に対するバリアフリーにおいて先駆者的存在であり、障害を持つ軍人がハンディキャップを感じないようにすることを目指していたため、彼は当初からこの学校に関心を寄せていた。卒業生はジュエラーズ・オブ・アメリカから1500以上の雇用を保証されており、確実に職を得ることができた。

In-Depth ブローバ アキュトロン アストロノート - CIAが史上最速の飛行機のパイロットのために選んだ時計

アキュトロンは当時最先端の時計であり、NASAだけでなく、史上最速の飛行機を操縦したパイロットのためにCIAにも採用されていた。詳しくはこちらを参照してもらいたい。

 ブラッドレーは退任後、「私の取り組みがほかの人々にも同様に、プロジェクトを始めるきっかけとなることを期待している。そうすれば障害を負ったすべての若者が自分が何かを成し遂げていると感じる機会を得られ、それが自立へとつながるだろう」と記している。また、退役軍人向けの新聞記事のなかで、ブラッドレーは「この学校は、障害を持つ退役軍人の才能と能力をなおざりにするという無駄で損害になりえる慣行が繰り返されないようにするために、政府と産業の共同協力の新たな1歩を示している」と述べた。

 オマール・ブラッドレーは1958年から1973年までブローバ・ウォッチ・カンパニーの取締役会会長を務めた。それはアメリカの時計製造業が消費者向け製品だけでなく、アメリカの防衛産業においても重要な存在であると見なされるようになってきた時代であった。

 時計製造は必要とされるスキルと技術的な観点からアメリカにとって非常に重要な要素となるため、1954年7月、アイゼンハワー大統領は「…必要不可欠な技術の維持を保証することで、アメリカの安全保証を支援する」という理由から、輸入時計に対する関税を引き上げる決定をくだした。これは「…アメリカの時計産業は国防に不可欠である…」という認識に基づいていた(1955年のブローバ・ウォッチ・カンパニー年次報告書による)。アーデ・ブローバはアメリカ国防委員会の小委員会に呼ばれ、陸軍、空軍、海軍に供給される武器のための精密機器の製造と時計製造の重要な役割についての講演のなかで詳細に解説した。

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 あまり知られていないが、ブラッドレーはブローバの取締役会会長だっただけでなく、1954年以降は研究開発部門の会長も務めていた。

 任期中、ブラッドレーは1955年のブローバ年次報告書で、アイゼンハワー大統領が関税引き上げを承認した理由を詳述している。ブラッドレーが特に重視していたのは、精密部品と機器の供給だけでなく、それらの精密機器を製造および維持するための熟練労働者の存在であった。ブローバはアメリカとスイスの両方に製造施設を持っていたため、製品に関税を課せられることなく両国の技術と生産の恩恵を受けることができるユニークな立場にあった。しかし、そのために懸念されたのが、国内生産と供給を維持することであった。第2次世界大戦と朝鮮戦争から学んだ教訓は、ブラッドレーの心に強く残っていた。彼はブローバの株主に対して、保護主義的な措置が防衛のための国家利益となると確信させる手紙を書いた。

Omar Bradley and Harry Henshel Bulova

ブラッドレーが会長に在任中の、オマール・ブラッドレーとハリー・ヘンシェル。

 ブラッドレーのもとで、研究開発部門はタイマーやその他の多くの精密機器を軍事用途のために製造し始めた。1954年、彼は「ブローバは、誘導ミサイルの探知装置、迫撃砲の信管、地雷探知機、複雑な魚雷先端部のアッセンブル、水晶振動子、そして国防総省によって機密とされている特定の装置など、我が国の兵器庫のためにもっとも複雑で繊細なメカニズムを製造している」と書き記している。わずか1年(1954年)で、研究開発部門の従業員数は5倍に増加した。そして消費者と軍事の両方にとって重要な役割を果たしたのが、アキュトロンという名前で知られる時計の開発であった。


エレクトロニクスによる精度の向上: アキュトロン

 1952年、ブローバのハリー・ヘンシェルは、エルジンやリップなどの競合他社による電子時計の進歩を懸念し、時計製造における新技術の可能性を調査するためにスイスへ赴いた。そこで彼は、ビエンヌにあるブローバ工場でエンジニアのマックス・ヘッツェル(Max Hetzel)に出会う。ヘッツェルは音叉時計・アキュトロンの父であり、1954年までにはすでに動作するプロトタイプを完成させていた。1958年のブローバ年次報告書には、「この時計は電子技術を利用することで、どの機械式時計よりも高い精度を実現する世界初の時計となるだろう」と記されている。アキュトロンのムーブメントは、低電圧のレイセオン製のCK722トランジスタを核として構築されていた。ブローバの競合他社の電子時計とは異なり、電気的にテンプにパルスを供給する方式ではなく、振動する音叉を使用していた。

 アキュトロンにおける最初のムーブメントであるCal.214は1960年に販売された初代モデルに搭載され、そのテクノロジーは手首の上にとどまらず、瞬く間に軍事、航空宇宙、航法の分野においても高精度計時の標準となっていった。アキュトロンは会社の象徴となり、NASAの46のミッションではコックピットにアキュトロンクロックが搭載されたという。1964年にはリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)大統領が訪問国の要人にアキュトロンクロックを贈呈し、エアフォースワンにもアキュトロンクロックが装備された。さらにNASAは月面実験パッケージの一部としてアキュトロンタイマーを月に残した。

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ブラッドレーが所有していたブローバ アキュトロン

 この隆盛によってアキュトロンとブローバは同義語のように扱われるようになり、現在でもブローバという名前を聞いたときに多くの人が思い浮かべる時計はアキュトロンとなっている。最近、個人のコレクションから発見されたブラッドレーのブローバ アキュトロンは、1960年代後半の時計デザインを強く意識したものとなっており、カラトラバスタイルのケースと4時位置にオフセットされたリューズを備えている。シルバーのサテン仕上げの文字盤と金のマーカーも、この時代の典型的なものだ。

Omar Bradley Accutron and Box

 ブラッドレーが所有していたいくつかの時計で特徴的なのが五つ星の徽章(きしょう)だ。これらは実際のところ会社からプレゼントとして贈られたものであり、ブラッドレーは毎日この時計を着用していた。当然ながらこれは日常的に行われていたことではなく、ブローバミュージアムは12個以上製造されていないと推察しており、これはそのうちのひとつである可能性が高い。現在の所有者は家宝であるこの時計のミュージアムへの寄贈を拒否している。

Omar Bradley Accutron

6時位置の真上にある、5つの星に注目。

 この時計は1968年ごろに製造されたアキュトロン Ref.218であり、アメリカの時計製造業が(スイス製とはいえ)技術的な進歩を見せ、アメリカの国防に不可欠な機構や素材を提供していた時代を象徴している。オマール・ブラッドレーが会長を退任する1973年までにブローバは約400万個のアキュトロンを販売し、空前の高精度を誇っていた。

Accutron 218 movement

オマール・ブラッドレーの“ファイブスター” アキュトロンのムーブメント。上部には音叉のふたつのヘッドと駆動コイルが見える。ブリッジの三角形の切り欠き部分内にあるふたつの銅色の円は、インデックスジュエルとポールジュエルを保持するアームの取り付けポイントである。

 アキュトロンの技術における核は音叉であり、正確に制御された振動がアキュトロに高精度をもたらしていた。上記の写真では、突起したふたつの音叉の頭部と、それらを振動させるコイルが見える。音叉の直線運動を時計の針の円運動に変換するために、音叉に接続されたインパルスジュエルを使用し、インデックスホイールをひとつずつ前進させる(インデックスホイールが逆戻りするのを防ぐために、別のポールジュエルも使用される)。

 このインデックスホイールは驚異的なエンジニアリングの上に成り立っている。320本の歯があり、それぞれの高さはわずか0.01mm、直径は2.4mm、厚さは0.04mmであった。アキュトロンのムーブメントには1950年から1959年までに20件の特許が申請されており、ムーブメントを規定する主な特許は1953年6月19日にスイスで申請された特許番号312290だ。マックス・ヘッツェルは、1953年の特許申請時に使用された最初のプロトタイプを手作業で製作した。

 この物語には興味深い逸話がある(文献によって出来事の順序に異論もある)。それは1957年にはヘッツェルがブローバを去り、オメガに移籍しようとしていたということだ。ヘッツェルの最初のプロトタイプは特許を取得したものの信頼性が低く、ビエンヌ工場のマネージャーはそれを廃棄するつもりだったため、ヘッツェルは退社をほのめかした。アーデ・ブローバはこの件に個人的に介入し、ヘッツェルにニューヨーク工場の主任物理学者の地位を提供、1959年に初めて量産モデルとして成功したプロトタイプがニューヨークで製造された。

Omar Bradley Bulova Accutron 218

 この時計が製造されてからわずか1年後、セイコーはクォーツムーブメントを搭載した初の生産モデル、アストロンを発売。アキュトロンが世界で最も正確な量産時計であった時代は、これを持って終わりを迎えつつあった。ブラッドレーの影響力が衰え、ワシントンの権力中枢とのコネクションが失われるとともに、ブローバの軍需サプライチェーンにおける地位も終焉を迎えることになる。この“ファイブスター”ことブローバ アキュトロン Ref.218は、アメリカの時計製造史の驚くべき物語の頂点と、その終焉の始まりを象徴するものなのだ。