アレゲニー川を見下ろすピッツバーグのPNCパークは、多くの人が現在のMLBで最高の野球場と考えるパイレーツの本拠地だ。ピープルズ・ホームプレート・ゲート(入場口のうちのひとつ)まで歩くと、J.P. “ホーナス”・ワグナー……の像の影が見えてくる。ワグナー像が設置されたのはずいぶん昔のことだが、今でも大きな存在感を放っている。現在のカーネギーと呼ばれる郊外で生まれた彼は、鉄鋼の街の息子として今後も人々の記憶に残り続けるだろう。
今月、ワグナーが所有していた特別な時計が、ヘリテージオークション ウィンター プラチナナイト スポーツイベントの一環としてオークションに出品されることになった。この時計が特別なのは、次の理由による。裏蓋にワグナーの名が刻まれていること、1939年に行われた最初の野球殿堂入りの式典で贈られたものであることだ。この時計はどれほどの価値があるのだろうか? その質問に答えるためにワグナーの偉業、彼がプレーした都市、そして彼が亡くなってから67年経つが、どれだけ評価を保ち続けているかを振り返ってみる必要がある。
聖地フォーブス・フィールド(当時のパイレーツ本拠地)
ピッツバーグの肉体労働者地区で、みっつの大学を擁するオークランドの街を歩くと、まるで幽霊に出くわしたような気分になる。この地域は、もう存在しない野球場の鼓動で生き続けているのだ。フォーブス・フィールドはソルジャーズ&セイラーズメモリアルホール、そして後には“学問の聖堂”として知られるアール・デコ調の傑作の陰に隠れつつも、ピッツバーグ大学のキャンパスの中心に位置した。
1909年3月に着工したパイレーツのホームグラウンドは、わずか3ヵ月後に完成し、熱心なファンで埋め尽くされた。そのとき、ホーナス・ワグナーが初めて登板したのだ。その年、ワグナーは唯一のワールドシリーズタイトルを獲得し、さらに8シーズンプレーしたのち、17年のキャリアを終えグローブを置いたのもこの球場だった。
私の祖父は、この球場が建設された年にピッツバーグで生まれた。父によると、ワグナーの現役最後の試合も観戦していたそうだ。私がピッツバーグ大学に通っていたころ、かつて公園があった場所の向かい側に住んでいた。その公園は、今では研究棟(ウェスリー・W・ポスバー・ホール)となっている。その研究棟のなかにはホームプレートが保管されており、通りの向こう側には昔の外野の壁が残されている。ワグナーが建てた家はもう存在しないが、その面影を感じることができる。
史上最強の遊撃手
ワグナーは間違いなく、球場のダイヤモンドを飾った最も偉大な選手のひとりだ。パイレーツで中堅手、三塁手を務めたトミー・リーチ(Tommy Leach)は、チームメイトであった彼について、次のように回想する。
“ホーナスはリーグ最高の三塁手であると同時に最高の一塁手、最高の二塁手、最高の遊撃手、最高の外野手でした。それは守備での評価です。さらには1900年から1911年のあいだに8回もリーグの打率をリードしたのですから、彼が最高の打者であったこともわかるでしょう。そして、最高の走者でもあったのです”
パイレーツの一員として球場に足を踏み入れてから122年、選手として引退してから105年、チームを完全に離れてから71年(彼はマネージャーやコーチとして長年球団に籍を置いた)が経過した今でも、米野球界は彼の貢献を記憶し、大切にしている。先週ESPNが発表し、物議を醸している「史上最高の選手100人」のランキングでは、ワグナーが12位にランクインしている。
しかし、彼の遺産はスポーツだけではない。多くの人が彼の名前を耳にするのは、神秘的で、しばしば困惑させられるオークションの世界、つまり歴史に値札が付けられる場だ。ワグナーが描かれた20世紀初頭のベースボールカードがオークションに出品され、記録を打ち立てているのは、まさにこの場でのことなのだ。
タバコカード
ホーナス・ワグナーのベースボールカードは、何枚かに数百万ドルの値札がついたことでかなり有名になった。2021年8月には、T206 ホーナス・ワグナーのベースボールカードが660.6万ドル(約7億6000万円)で落札された……なんとティファニー ブルーのノーチラスを凌駕してしまっている。さらについ2日前には、ワグナーの半分に千切れたカードが47万5000ドル(日本円で5000万円超)で落札された。
ワグナーのカードがほかのカードと違うのは、生産された枚数が少ないことである。これらのカードはタバコのパッケージや噛みタバコのパックに封入して売られていたことから、T206と呼ばれている(“T”はタバコの略)。その数はわずか60枚と言われている。その理由には諸説ある。ワグナーがタバコを嫌っていたからだという説もあり、彼自身もそう語っている。しかし、ワグナーがタバコメーカーと契約していたことを考えれば、そのようなことはあり得ない。それにもかかわらず、これらのカードは希少であり、特にワグナーのように有名人の名前が付いている場合には、希少価値が高くなる。彼はプロスポーツ界の巨人だったのだ。
タバコに僕の写真を載せたくないけれど、
君に10ドル失って欲しくもないから、
その分の小切手を同封するよ。
– ホーナス・ワグナー、タバコ会社の仲介者に宛てて記念ウォッチ
ワグナーは、ベーブ・ルース (Babe Ruth)、クリスティ・マシューソン(Christy Mathewson)、ウォルター・ジョンソン(Walter Johnson)、タイ・コブ(Ty Cobb)とともに、ニューヨーク州クーパーズタウンにある野球殿堂の初代選手に選ばれた。1936年のことである。この年の殿堂入りは、単なる発表や形式的なものに過ぎなかった。その後、スポーツ界の100周年記念である1939年になって、あらためて表彰された。もちろん記念すべき式典にはお祝いの時計が用意された。彼らには、金張りのグリュエン カーベックスが贈られた。裏蓋には、このイベントを記念した特別な刻印と彼らの名前が刻まれていた。この日、時計を手にしたのは37年、38年、39年選出の選手を合わせて11名だった。
この時計は当時の流行をよく反映している。細長いレクタンギュラー(長方形)のフォルム、裏蓋には14Kゴールドフィルド(金張り)と記されている。ダイヤルはシャンパンに近いオフホワイト(経年変化によるものと思われる)で、アプライドされたゴールドのブレゲ数字、長方形のスモールセコンドを備えている。一世を風靡したフランク・ミュラーがこのタイムピースから多くのインスピレーションを得たことがうかがえる。
カーベックス(FMではカーヴェックス)というモデル名は、単なる宣伝文句ではなく、機械的革新をも表わしていた。湾曲したデザインのケース内部にムーブメントを収めるのは、難しい課題だったのだ。その解決策として、一部のモデルではムーブメントを時計と同じように湾曲させたが、これは容易なことではなかった。
1955年にワグナーが亡くなったあと、彼の時計はワグナー家に受け継がれ、甥のビル・ギャラガー(Bill Gallagher)の手にわたった。ギャラガーとその家族は、ワグナーが生涯を過ごしたカーネギーの町に残っていたのだ。この時計の委託者(匿名)は、1970年代にギャラガー夫妻の隣人であった。彼は子供のころ、ギャラガー家の芝生を刈っていた。親しくなったギャラガーは、最終的にこの時計を含む野球道具をすべて委託者に譲った(草刈りの仕事としては悪くない報酬だ)。
委託者はその時計を何年も保管していた。なぜ今になってそれを手放そうとしたのかはわからない。しかし、ヘリテージオークションのプレスリリースによると、この決断は金銭絡みの動機ではないようだ。これだけは言っておこう、彼が今オークションに舵を切ったことを責める人は誰もいないだろう。
フィリップス、サザビーズ、クリスティーズ、ボナムズのような大規模な時計専門メゾン以外のオークションで、このような由緒正しい時計が登場するのを見ると、いつもワクワクするものだ。もし、上記のいずれかに出品されたとしたら、より広いヴィンテージウォッチ市場での適正価値を知ることができるのではないだろうか。もちろん、そのようなことを予測することは不可能で、オークションの予想価格が極端に低くなることもよくある話だ。
グリュエンが築いた一時代
ベースボールカードといえば、厚紙に野球選手のグラフィックが印刷されているという点で共通している。そこに描かれている選手とそのカードの保存状態によって価格が決まるのだ。
時計の場合は、いろいろな要素がある。ブランドも状態も来歴も重要だ。しかし、それぞれをどの程度重要視するかはケースバイケースだ。もし、これがホーナス・ワグナーのタイメックスだったら、まったく違う話になっていただろう。1930年代後半から1940年代前半にかけて人気を博したグリュエンだが、オハイオ州に本拠地を置くこのアメリカの時計メーカーは、1950年代末から1960年代にかけて少しずつ衰退していった(ショーン・コネリーが『007 ドクター・ノオ(Dr.No)』でグリュエンのプレシジョン Ref.510をタキシードに合わせたのは、その前のことである)。しかし、それ以降も興味深い時計を作らなかったわけではない。
グリュエンは今でこそヴィンテージ界で注目されているが、収集価値という点では、まだまだの存在である。私は、このベースボールウォッチが贈られた1939年が、このブランドの絶頂期だったと考えている。創業者であるディートリッヒ・グリュエン(Dietrich Grüen)はドイツ出身であることから、“さまよえるオランダ人(The Flying Dutchman)”のニックネームで知られたドイツ系のワグナーと同じ血筋を持つ時計である(訳注:オペラ“さまよえるオランダ人”を作曲した同姓のリヒャルト・ワーグナーが現ドイツ・ライプツィヒ出身であることから付いたニックネームである)。
興味深いことに、フォーブス・フィールドのスコアボードには、かつてグリュエン製の巨大クロックが取り付けられており、“Gruen Watch Time”というフレーズが刻まれていた(後年、このクロックはスポンサーを務めるロンジンに置き換わることになった)。このクロックは1951年の映画『エンジェルス(原題;Angels in the Outfield)』で見ることができる。この映画は架空の野球チーム、パイレーツ球団の癇癪持ちの監督が神の声を聞き、低迷したシーズンを立て直すというものだ。この1951年という年はワグナーが球団に別れを告げた年として特筆に値する。なお、彼はこの映画には登場しない。
価値を査定しよう
話を時計に戻そう。1939年の野球殿堂入りを記念したグリュエンの時計は、過去にもオークションに出品されたことがあるが、オリジナルの11本のうち1本が出てくるのは実に9年ぶりのことだ。2013年にはウォルター・ジョンソン所有の個体が5万7000ドル(約650万円)弱で落札され、ジョージ・シスラーの個体は4万5000ドル(約510万円)で落札された実績がある。
しかし、2013年は時計の銀河においては遠い昔のことである。ロレックス、パテック フィリップ、オーデマ ピゲなど、多くの時計がそのときから2倍、3倍に値上がりしている。あまりにも価値が上がりすぎて、折れ線グラフでは表現できないものもあるほどだ。
しかし、今回はグリュエンだ。この時計が600万ドルに達し、タバコ会社のトレーディングカードと並んでホーナス・ワグナーのオークションの山頂に鎮座するだろうか? 私は、ほぼ絶対的な確信を持って「あり得ない」と答えよう。しかし、ウォルター“ビッグ・トレイン”ジョンソン(訳注:当時最も速い乗り物が汽車であることから付いたニックネーム)の時計よりも、はるかにいい結果になると確信している(オークションの高額落札結果を測るのに“良い”という指標が正しいかどうかは別として)。ワグナーの時計は、より特別な予感がするからだ。
ひとつはっきりしているのは、落札者が誰になるのであれ、賞品をプラスチックのホルダーに入れて温度管理された金庫に保管する必要はないということだ。殿堂入りを果たした時計、偉大な“さまよえるオランダ人”ホーナス・ワグナーがかつてしていたように、触ったり、手に持ったり、身につけたりすることができる時計を手に入れることができるだろう。それは特別なことなのだ。
ヘリテージオークション ウィンター プラチナ ナイト スポーツイベントは、2月26日と27日に開催される。入札はすでにオンラインで開始されており、本稿執筆時点での入札価格は2万6000ドル(約300万円。バイヤーズプレミアム込みで3万1200ドル、約360万円)となっている。詳細については、ヘリテージオークションのWebサイトをご覧いただきたい。
Lead illustration, Andy Gottschalk
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