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1986年に市販腕時計で初めて実用化されたトゥールビヨンは、90年代に入ると複数のブランドから登場するようになった。とはいえ、世界3大複雑機構のひとつと称された同機構を作り上げることができるのは、当時ごく限られた実力派メゾンだけであった。そして2000年代前半には、ムーブメントメーカーによるトゥールビヨンのエボーシュがいくつも登場し、その数を一気に増やしていく。それでもなお、この複雑機構の象徴が搭載されるのは、超高額モデルに限られていた。
しかし2016年、タグ・ホイヤーが当時の販売価格で170万円を切るタグ・ホイヤー キャリバーホイヤー02T トゥールビヨンをリリース。さらに中国でも同機構の製造が実現された結果、今では35万円台の搭載モデルまでもが登場している。またトゥールビヨンは高精度機構と説明されるが、現代においてはさまざまな手段で精度向上が図られているのも事実である。本記事では、トゥールビヨンの役割や価値がどのように変化してきたのかを考察する。
そもそもトゥールビヨンは、なぜ生まれたのか
テンプと脱進機を収めたキャリッジ(ケージ)を一定周期で回転させるトゥールビヨンは、しばしば「時計にかかる重量方向を平均化して高精度化を図る機構」と説明される。その発明者は、言わずと知れたアブラアン-ルイ・ブレゲ。彼は、1801年に提出した特許申請書に「(前略)ムーブメントの重心がさまざまな位置にずれることによって生じる偏差の補正をもって、その解消に成功しました。(中略)レギュレーターの軸の周囲にある全部品とそれらの回転軸の軸受けに摩擦を行き渡らせることにも成功(後略)」と、記している。時計精度を司るテンプと脱進機の軸先は、鉢状にくぼんだ受石で支えられている。懐中時計が水平位置にあれば、軸先は受石の中心位置にある。しかし携帯時にポケット内で垂直位置になると、受石の側面に軸先が触れ摩擦が増加する。このテンプと脱進機の軸先と受石のあいだで生じる摩擦量の変化を、初代ブレゲは解消しようと試みたのだ。さらに言えば彼は、当時の劣化しやすい潤滑油をかき回し、粘性を均一化することも目論んだ。トゥールビヨンは、多くの場合に垂直位置で携帯される懐中時計においては実に有効であり、加えて姿勢変化が大きくその頻度も多い腕時計でも摩擦量の変化を抑制する役割を担ってくれる。
ブレゲの初代トゥールビヨンムーブメントのひとつ、No.169。ブレゲのトゥールビヨンキャリッジをジョン・アーノルドのムーブメントに搭載したもの。
精度競争のために腕時計へと持ち込まれたトゥールビヨン
パテック フィリップ 天文台トゥールビヨンムーブメント、No.861,115、ボルナンド作、1945年、アンリ・スターンが腕時計としてケースに入れて着用した個体。
アブラアン-ルイ・ブレゲが、その生涯で製作・販売したトゥールビヨン懐中時計は、わずか35個であった。そして彼の死後、幾人もの時計師が同機構の製作・改良に挑んだ。米国の時計師アルバート・H・ポッターも、そのひとり。彼は1870年ごろ、それまで初代ブレゲも含めデテント脱進機を用いてきたトゥールビヨンを、ケージにガンギ車を固定する仕組みを考案してレバー脱進機で実現。同機構が現在へと続く礎を築いた。
そして時を経て1930年、フランスのリップがブサンソン天文台の精度コンクールに向け、角形のトゥールビヨン懐中時計を製作。同モデルは、ムーブメントを反転し、ダイヤル側にトゥールビヨンを見せる設計であった。スイス勢ではパテック フィリップが1945年、オメガが1946年にやはり天文台コンクールのために腕時計用のトゥールビヨン・キャリバーを開発。この時代、トゥールビヨンは高精度をかなえる機構として研究・開発が進められた。
腕時計においてトゥールビヨンは有効なのか
懐中時計向けに発明されたトゥールビヨンは、より頻繁に姿勢差が変わる腕時計でも効果があるのか? 2004年、この論争に終始を打つべく、縦横ふたつの回転軸を持ち、立体的に回転するトゥールビヨン腕時計が2作登場した。ひとつはフランク ミュラーのトゥールビヨン レボリューションII、もうひとつがジャガー・ルクルトのジャイロ・トゥールビヨンである。また同じ年、イギリス人独立時計師であるトーマス・プレッシャーも懐中時計で2軸トゥールビヨンを実現。さらに遡れば、1976年にイギリスのアンソニー・ランデルが2軸のトゥールビヨン懐中時計を製作している。いずれも3次元の回転により、姿勢差への対応をより効果的にすることが目的であった。
ジャガー・ルクルト レベルソ・ハイブリス・アーティスティカ・キャリバー179
しかし1軸トゥールビヨンについて、高精度化という点において多軸に劣る、と断じるのは早計である。何故なら2009年にル・ロックルで開催されたクロノメーターコンクールで優勝を果たしたのは、ジャガー・ルクルトによる1軸のマスター・トゥールビヨンだったからだ。しかも同社は同じコンクールに、ジャイロトゥールビヨンでも参戦しているにもかかわらずだ。
確かにキャリッジを回すトゥールビヨンは、主ゼンマイからのトルク変化が大きくなる。また各姿勢差における歩度調整も難しい。オイル劣化も速く進む、との説もある。これらは精度に悪影響を及ぼすが、しかし設計・組み立て・調整が優れていれば、1軸トゥールビヨンでも高精度化がかなうことをジャガー・ルクルトは証明してみせたのである。
トゥールビヨンは、なぜ珍しい機構ではなくなったのか
トゥールビヨンはもっともシンプルな設計の場合、地板に四番車を固定し、その中心にテンプを含むケージの軸受けを設置。さらにガンギ車をケージ外側に、その内側にアンクルを取り付けている。そして三番車でケージのカナを回し、その動きに準じて固定四番車に沿ってガンギ車が働く仕組みだ。構造自体はそれほど複雑ではないが、全体の重量バランスが均一、かつ主軸が垂直に保たれていなければ上手く稼働しない。ガンギ車がキャリッジ外側にあるので、重量バランスを取るのはより難しくなる。1980年代までは組み立てと重量バランス調整を何度も繰り返す必要があり、そのことが製作の難易度を大きく上げていた。
それを激変させたのが、コンピュータによるCAD設計と、そのデータと連携するCNCマシニングセンタの登場である。CADであらかじめ重量バランスのシミュレーションが出来、そのデータどおりにCNCマシニングセンタがパーツを削り出す。結果、組み立て後のバランス調整の手間がはるかに軽減したのだ。さらにマシニングセンタの加工精度は、足早に進化し続けている。ミクロンレベルの超精密加工ができるようになったことが、結果としてトゥールビヨンの量産化、ひいては低価格化をもたらしたのだ。
このようにトゥールビヨン製造は、だんだんと製造が容易なものとなっていった。一方で主軸が垂直を保てるよう組み立てるためには、自動化は出来ない。またトゥールビヨンは、ガンギ車が固定四番車に添って動くため通常よりも大きな慣性が脱進機に働く。したがって重量バランスに加え、慣性バランスへの対応も求められる。しかし安価なトゥールビヨンの大半は、強力な主ゼンマイを用いて半ば強引に回転させることで、慣性バランスの偏差を克服している。これでは機構としては成立しているが、高精度化は図れない。
量産化がかなうようになったトゥールビヨンは、もはや複雑機構ではないと揶揄する声も耳にする。しかし組み立ての難しさ、そして精度向上という本来の役割を果たすためには、前述したとおり極めて高度な設計、パーツ製造、調整が不可欠である。そうした意味においてトゥールビヨンは、依然として複雑機構のひとつだと言えるのである。
各メーカーはトゥールビヨンで何を表現しているのか
高精度機機構として発明されたトゥールビヨン。しかし腕時計への搭載においては、ダイヤル上にその姿を露にした見栄えの良さを市場価値としてきたことは否めない。近年、ダイヤル側のブリッジをなくしたフライング・トゥールビヨン(ドイツの時計師アルフレッド・ヘルヴィグによる1926年の発明であり、1989年にブランパンが市販モデルで先駆けた)が主流となっているのも、動きの鑑賞を妨げないためだ。そして高額のトゥールビヨン腕時計は、魅せるための入念な手仕上げが施されてきた。キャリッジのデザインに凝り、ブラックポリッシュを施す例も少なくない。言い換えれば、仕上げの手間が高額化の最大の要因である。
またトゥールビヨンを高精度機構と捉えるメゾンは、トルク変化の影響を受けやすい欠点の克服を試みている。それが例えば、A.ランゲ&ゾーネやフェルディナント・ベルトゥー、ブレゲなどによるチェーンフュジー(鎖引き)、そしてF.P.ジュルヌ、IWCによるルモントワール(コンスタントフォース)という定量化装置などとの組み合わせである。
ほかにも、さらなる高精度化を図る術としては前述の多軸化があり、ジャガー・ルクルトは3軸を実現。グルーベル・フォルセイやロジェ・デュブイは、多軸化ではなくテンプを傾けて設置することで、水平・垂直時の平立差の解消を試みている。
グルーベル・フォルセイ クアドルプル トゥールビヨン GMT
ほかにもH.モーザーは、ダブルヘアスプリングやシリンドリカルヘアスプリングをトゥールビヨンと組み合わせ、振動時の偏心を解消することでさらなる高精度化をかなえた。ふたつのトゥールビヨンによる調速をディファレンシャルギアを介して統合・平均化することで精度を上げる試みも、ロジェ・デュブイ、ゼニスなど複数のメゾンが挑んでいる。
一方でトゥールビヨンは、技術力の高さを視覚的に分かりやすく示せる機構として進化してきた側面を持つ。ピアジェやブルガリによる極薄化が、その好例だ。国産時計でもクレドールが薄型に加え、彫金による審美性の高さで高く評価されている。
H.モーザー エンデバー・トゥールビヨン スケルトン
ピアジェ アルティプラノ アルティメート コンセプト トゥールビヨン
現代のトゥールビヨンが持つ意味
複雑機構としてもっともシンボリックであるがゆえ、トゥールビヨンはさまざまな技術革新における絶好のショーケースとしての役割を果たしてきた。前述の、忘れ去られていた機構であるチェーンフュジーの復活も、その好例である。また極薄化においては、新形状のアンクルや薄くても高い慣性モーメントが得られるテンプの形状・素材が考案され、それらはトゥールビヨン以外のモデルにも転用されている。例えば2022年、オーデマ ピゲ ル・ロックルが極薄トゥールビヨンRD#4のために開発した、テンプの振り角を上げる竿先が長い独自のアンクル形状は、同年リシャール・ミルとフェラーリがコラボした当時の世界最薄腕時計RM UP-01にも用いられた。
またケージを軽量化するための選択であるグレード5チタンは、トゥールビヨンで使われたからこそ、その鏡面仕上げ技術が進化してきたとも言える。主軸をケースバック側だけで支えるフライング・トゥールビヨンでは、耐衝撃性能を高めるために軸受けに極小のボールベアリングが使われ、それを通常の軸受けへと転用した例もある。
製造が容易になったトゥールビヨンが、今なおその高い市場価値を失っていないのは、入念な手仕上げを含む各社独自の技術研鑽が注ぎ込まれているからにほかならない。このシンボリックな複雑機構で各社が何を実現しようとしているか、どう表現しているかが、高級機においては問われるのである。
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