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最近のHODINKEE Radioのエピソードで、ジェームズ、ダニー、ジャックと私は、所有したあとに手放し、そして今、心から恋しいと思う時計をテーマに議論した。このエピソードの収録後、私は自分のコレクションのなかで、買ったり売ったりした時計について考えずにはいられなかった。2003年に初めて自分で時計を買って以来、私は時計を手に入れ、楽しみ、そして処分することを繰り返してきた。そして、またそれを繰り返す。そして、また...。
ある時計は、ハネムーン期を過ぎても(飽きても)ずっと手元に残っている。新しい時計や、ときには別の趣味のための資金を得るために手放すこともあった。この20年間を振り返ってみると、私の時計の好みは変化しており、すべてを手元に置いておいたのでは趣味の世界で“成熟”することはできなかったと確信している。時計を売ったお金で別の時計を購入することもよくあった。そして、コレクションボックスから何かが消えるたびに、別の時計が入れ替わるのだが、それ以上に重要なのは、その時計に付随するちょっとした経験なのだ。
私の初めての機械式時計は、高校の頃に買ったセイコー モンスターだった。私は、セミトレイラートラックの冬の道路の汚れと融雪剤を洗い流したり、ピックアップの荷台から大きなスレート片を降ろしたり、家の庭に壁を作るために積み上げたり、高級レストランでクロークを務めたりして、急成長していた時計の趣味の資金を調達した。つまり、時計を1本買うのにはちょうどよいぐらいの資金を持っていた。当初、私は時計コレクターの永遠の悩みに取り憑かれていた:1本の時計しか持てないことはわかっているが、その1本だけですべてを兼ね備えたい、という理想だ。つまり、完璧な時計が欲しかったわけだが、そんなものは存在しないことを早くから気づいていたため、頭のなかで繰り広げられる理論的なシチュエーションに臨機応変に対応するための2、3本の時計を求めた。そして、答えのない問題について考えることに多くの時間を費やすのは馬鹿げていると気づいたのだ。その頃読んだ『タオのプーさん』(編注:『くまのプーさん』から老子の道教を読み解いた本)の一節が心に残っている。
緊張し、気まずく、混乱する最も確実な方法は、頑張りすぎる心、つまり考えすぎる心を育てることである。
時計のような比較的些細なものに振り回されるうちに、私は趣味から遠ざかり、適度な「お楽しみ資金」をサイクリングや旅行などに振り向けるようになった。そして、インターネットやどこかで素敵な時計を見かけると、またその沼が再開するのである。
最近、私はコレクションを減らそうとしている。2、3本の時計があれば満足だからだ。コレクションに終止符を打ったわけではないが、コレクションの中で果たすべき役割について、自分自身と会話をすることはもうない。最後に、『プーさん』が教えてくれたもうひとつの知恵を理解した。
“本当に幸せになりたいのか? 自分が誰で、何を持っているかに感謝することから始めなさい”
以下は、長い年月の間に現れては消えていった時計の数々を披瀝したい。これは、物語を語ることで、彼らを記念する私なりのやり方だ。今、それらを引き継いだ所有者たちが、私と同じように楽しんでくれることを願っている。そして、彼らが手放すとき、次の人が同じように楽しんでくれることも願っている。
セイコー オレンジ&ブラックモンスター 2003-2013年
物語はこの時計から始まった。2003年のことだ。私はAmazonで200ドル以下のオレンジモンスターを購入し、数ヵ月後にはブラックモンスターを買い増した。この時計は私がセイコーに夢中になるきっかけだったが、特別珍しいことではない。世界中で同じような現象が起こっていることが判明したからだ。
この時計を毎日つけていた数ヵ月後、私はさらに一歩進んで、改造とセラミックコーティングで評判の高いボブ・セイヤーJr.というテキサスの時計仲間の元へ送った。ボブには、ブラックモンスターのチャプターリングを交換するよう依頼。それが外観を劇的に変えるもっとも手軽な改造だったからだ。そして、当時流行っていた “watchadoo”のブレスレットを装着した。このブレスレットはeBayでオーストラリアから40ドル程度(送料込)で購入することができた。この時計について考えるとき、私は、赤いピルを飲んでウサギの穴に向かうことを決めた最初の瞬間について思い出す。当時はHODINKEEも、腕時計専門サイトも、SNSもなかった。フォーラムやインターネットでのディープな検索がすべてだった。あるいは、Borders Books and Music(忘れもしない、今は亡き)に行って、私のような人間が立ち読みしないように、時計雑誌をビニールで封印していないことを祈るしかなかったのだ。
なぜ売ったのか?:2013年当時、私の関心は旅に移り、できる限り見聞を広げようとしていた。船上生活体験のための資金を集めようとしたことを覚えているが、この時計の売却もその一環だったようだ。
なぜ恋しいのか?:私にとって初めての時計への愛であり、忘れることのできないものだったからだ。
手放すべきだったか?:おそらく、そうすべきでなかった。初代モンスターは入手が難しくなり、ボブ・セイヤーJr.は廃業してしまったので、これは再現できない時計なのだ。
セイコー SKX MODダイバー 2006-2013年
MK IIとYobokiesのビル・ヤオ(Bill Yao)氏は、セイコー改造コミュニティの先達だった。ただ、当時は自分で改造する必要があったのだ。今は、改造されたセイコーがたくさん溢れているのと対照的だ。私はPhotobucketに行き、部品のアルバムを見て、それからPayPalを通してそれらを注文し、届くのを祈ったことを覚えている。ヤオはあれからずいぶん進歩した。彼のThe Gray NATOのエピソードを聞けば、その様子がわかるだろう。
この時計は、人気のあるSKX007の非常に近い親戚であるSKXA53として生まれた。私は友人と一緒にこの時計を分解し、ケースとベゼルにビーズブラスト加工を施し、ケースバックを殺菌(つまり表記を消すこと)し、MKIIダイヤルとYobokiesの“プロングール(ダイバー)”針、そしてダイヤル色とマッチしたデイトホイールを取り付け、すべてを組み直した。とても楽しい経験だったし、多くを学んだ。当時はネット上にケース構造の図面が公開されていなかったため、時計を実際に分解して仕組みを理解するのに役立った。現在のセイコー5スポーツは、SKXの改造という往時の伝統を受け継いでいるように思える。しかし、この時代のセイコーを改造することに対する考え方は変わった。今はSKX007などには手を出さないかもしれない。ありのままが素晴らしいとわかったからだ。私はやっとセイコーのデザイナーと同じ境地に達することができたわけだ。
なぜ売ったのか?:古いスティール製のビアンキのフレームを組み立てていて、資金が必要だったため。
なぜ恋しいのか?:セイコーの改造は、最近よく見かけるようになったが、自分で手を加えることは、長い目で見れば、より大きな意味がある。MK IIはセイコーMODのダイヤル販売から移行した。私も今時SKXをいじる気にはなれない。
手放すべきだったか?:そうだ。よくも悪くも、セイコーのことを調べれば調べるほど、オリジナルの時計のよさがわかるようになった。いい勉強になったし、ある意味、役目を果たしたと言えるだろう。
バティス ハワイ 100ファゾムズ 2006~2014年
クラシックカーのWebサイトPetroliciousが凋落する前、私は彼らが公開する動画を熱狂的に見ていた。2015年、久しぶりに気になる人物が紹介されていた。その人物こそが、バティス・ハワイのジョン・パターソン氏にほかならない。彼から時計を買ったら、手書きのメモと一緒にマカダミアナッツとハワイのキャンディをたくさん入れてくれた。ジョンは素晴らしい男だ。もし、バティス・ハワイがのちに店をたたむと知っていたら、私はそれを保管していたことだろう。この前、ハワイでサーチナをつけて“ブラックウォーターダイビング(ナイトダイビングの一種)”を決行することになった。バティスにするべきだったかもしれない。
なぜ売ったのか?:古いスティール製のビアンキのフレームを組み立てていて、資金が必要だったからだ。
なぜ恋しいのか?:バティスはあまり夢中になることはなかった。典型的なハワイの気風を持ち、この会社はただ楽でクールだった。あのようなマイクロブランドは、もう存在しないのではないだろうか。
手放すべきだったか?:難しいところだが、おそらくそうすべきでなかっただろう。バティスがなくなって、同じような時計を探すほど私は勤勉ではないからだ。
セイコー タートル SRP775 2016-2018年
当初この時計を買ったのは、日産スカイラインに乗ったドライブ旅行で日本に長期間滞在することになり、その記念にと思ったからだ。それにぴったりの時計だった。その後、2016年に海外生活を終えてアメリカに帰国し、大学院に通いながらRecreational Equipment, Inc.でバイクメカニック兼スキーテクニシャンとして働いた。この時計は店の仕事のときにつけていたものだ。私はこの時計に過酷な環境を強いたが、セイコーのダイバーズが最も得意とするところだから問題なかった。その頃、親しい友人が時計に興味を持ち始め、この時計が私に必要な役目を果たしたように感じたので、この時計を贈り時計への愛着を育むと同時に、感謝の気持ちを表すのがよいと思った。今でも彼の日常の相棒として愛用されている。
なぜ売却したのか?:売ったのではなく、プレゼントしたのが正確なところだ。
なぜ恋しいのか?:恋しくはない。いつでも相棒を呼び出して眺めることができるため。
手放すべきだったか?:もちろんだ。この趣味はそういうものだからだ。
Camy セブンシーズ 2016-2017年
この時計には、面白い裏話がある。大学時代、私はメリーランド州ボルチモアの自転車ショップで働いていた(話が読めた?)。ある日、顧客がキャノンデールのSix13フレームのアルミのヘッドチューブとカーボンファイバーのトップチューブの継ぎ目のクリアコート層にクモの巣状のクラックが発生したため、返品してきた。これは設計不良であり、保証の対象であることが知られていて、これは私たちが最初に扱った取引ではなかった。キャノンデールは全米の正規販売店に対して、新しいフレームを送る前に欠陥のあるフレームを破棄するように通達を出していた。そこで私は自転車を引き取り、上司はそれを廃棄するように指示したが、代わりに私の車の後部座席に入れて持ち帰った。私は、そのフレームを無駄にするつもりはなかったのだ。
それから数ヵ月、顧客が来てはコンポやフォークなどをアップグレードすると、古いものは取っておいてと言われたので、保管することにした。やがて、Six13を1台分組み上げるために必要な部品がすべて揃った。大学を卒業すると、私はそのバイクと一緒に引っ越した。そのバイクで6年間、タイ中を走り回った。帰国する前の週末、私はバイクでヴィンテージウォッチのディーラーに行き、別れを告げた。何週間も前から目をつけていた時計があったのだが、Camyというブランドは聞いたことがなかったので、大金を払う気にはなれなかった。そこで、私たちは解決策を考えた。私はCamyを持ってタイを出国し、ディーラーは新しいバイクを手に入れたというわけだ。1年後、私はCamyを時計仲間の@watchsafariに売ることになり、今ではどこにあるのかわからないし、別のものを見たこともない。
なぜ売ったのか?:バンコクからニューヨークへの移動は、お財布に優しくないものだった。そのため、多くの腕時計を処分する必要があった。
なぜ恋しいのか?:Camyはとにかく「びっくり」するような時計だった。今まで、これに近い時計はAnalog:ShiftのMirexalしか見たことがないが、それはメタルケースではなかった。ブルズアイダイヤルが70年代らしく、クールだった。
手放すべきだったか?:そうでもなかった。しかし、私はこの時計をタダで手に入れたわけだし、この時計には素晴らしいストーリーがある。手放すべきではなかったと思う。
ボーナスウォッチ:2005年からずっと一緒のオメガ シーマスター 300M
この時計は絶対に売るつもりがない。なかには、コレクションとしての役割を超え、強力なシンボルとなる時計がある。この時計は私の父がくれたものなのだ。この時計については、この記事で紹介している。