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本稿は2017年8月に執筆された本国版の翻訳です。
ダグラスDC-3は、まさに規格外のスケールを持つ航空機のひとつだ。スーパーマリン スピットファイアやB-17 フライングフォートレスと同様、ほかの機体では突破できないような状況でも何度も成功を収めてきたことで知られている。DC-3はもともと商用航空向けに設計され、1936年に登場した当時は画期的な存在だった。予備タンクなしで8時間の飛行が可能な比較的長距離向けの機体で、本格的な大陸横断サービスを初めて実現させた。アメリカ横断飛行は、燃料補給のための途中着陸を挟んでもわずか15時間で可能になり、ついに実用的な移動手段となったのだ。さらに、DC-3はグリーンランドやアイスランドで燃料補給を行いながらヨーロッパへ飛ぶこともできた。今日、ブライトリングは1940年にダグラス・エアクラフトの工場で製造されたDC-3を運航している(記事公開当時)。この機体は単なる国内横断飛行ではなく、世界一周を果たそうとしている。それも機内のどこかに500本のナビタイマーを積んだまま。この旅が2017年秋に完了すれば、DC-3は世界一周を達成した最古の航空機となる(編注;同年9月12日に達成した)。
DC-3(“DC”はダグラス・コマーシャルの略)はもともと14のベッドを備えた長距離“寝台”機として開発され、ダグラスDSTと名付けられた。そのあと21席仕様のバージョンがDC-3として正式に設計された。この基本設計は非常に堅牢で信頼性が高かったため、多くの派生モデルが生まれることになった。アメリカでは607機が製造されたが、軍用モデルのC-47 スカイトレインやロシアと日本でライセンス生産された派生型を含めると、総生産数は1万6000機以上にのぼる。
ブライトリングのロッキード コンステレーションと翼を並べて飛ぶダグラス DC-3。Image courtesy Breitling.
DC-3とその派生機には、長年にわたって実にさまざまな愛称がつけられてきた。パイロットやクルーのあいだではダンボ、オールド・ファットソー、チャーリー47など(ほかにも数え切れないほどある)と呼ばれていたが、最も広く知られたニックネームは“グーニーバード”だった。一見すると侮辱のようにも聞こえるが、実はちょっと皮肉めいた褒め言葉なのだ。“グーニーバード”はアホウドリの愛称であり、飛行士のあいだでは“間抜けな姿をしていて、到底飛べそうにない鳥”として語られている。ただ実際には優雅に飛ぶ。それも、まるで“自分は飛べないはずだ”と気づいていないかのように。DC-3もまた、B-17 フライングフォートレスと同様に、驚くほど過酷な状況にも耐えて飛び続けることができた。おそらくアホウドリと同じように“飛べないはずだ”などとは考えもしなかったのだろう。この驚異的な耐久性を示す逸話は数多く存在する。そのひとつが、戦時中に日本の戦闘機と空中衝突したC-47の話だ。この衝突でC-47の尾部の大部分が失われたが、戦闘機のほうは墜落し、C-47は方向舵のほとんどがなくなった状態でも基地に帰還することができた。この出来事により、そのC-47は正式に空対空戦での撃墜勝利と認定された。
ベルリン空輸中の1948年、ベルリンのテンペルホーフで物資を下ろすダグラスC-47。Phot, US Navy National Museum of Naval Aviation.
戦後、余剰となったC-47やDC-3が市場にあふれ、急速に民間航空サービスへと導入された。短い滑走路で運用可能で整備が容易、信頼性が高く、経済的に運航できるこれらの機体は、驚くほど頑丈で耐久性に優れていた。そのため、DC-3は高齢機ながらも今日に至るまで商業運航を続けており、現在も世界で約150機が飛行可能とされている(ただしその数は減少し続けている)。DC-3は未舗装の滑走路でも運用でき、その頑丈さは“DC-3の唯一の代替機は、また別のDC-3である”という言葉や、“緩い編隊を組んで飛ぶ部品の集合体”といった愛情のこもった表現にも表れている。
ブライトリングのDC-3は1940年に製造された(戦時中の生産ピーク時、ダグラス・エアクラフトは1時間に1機という信じがたい速度で機体を生産しており、約6000人の労働者が組立ラインで働いていた)。この機体は、当時のDC-3の標準的な命名規則に従い、“フラッグシップ・クリーブランド”と名付けられ、3月12日にアメリカン航空へ引き渡された。その後1942年から1944年にかけて米陸軍に貸与され、グリーンランドやアイスランドを経由して兵士をヨーロッパへ輸送する兵員輸送機として使用された。戦時中、この機体がグリーンランドの空軍基地にいた際、沖合でドイツの潜水艦活動が報告されていた。しかし基地司令官は攻撃機を持っておらず、やむを得ずこのDC-3に兵士を乗せ、小型爆弾を手動で投下させる決断を下した。つまりこの機体は少なくとも1日だけ、爆撃機としても運用されたことになる。
ニュージャージー州テターボロ空港の駐機場にあるブライトリング DC-3。
ブライトリング DC-3の方向舵と昇降舵(小さな補助操縦面はトリムタブ)。
戦後、このDC-3はさまざまな地域航空会社で運航され、その間も適切に整備が続けられていた。運航会社にはPBA(プロビンスタウン・ボストン航空)、そしてその後のイースタン・エクスプレスなどが含まれていた。1992年に個人コレクターによって修復のために取得され、現在ではスイスで民間旅客機として認定されている。計器類は近代化され、最新の無線機やGPSナビゲーションシステムが搭載されたことで、IFR(計器飛行方式)での運航が可能になった。
ブライトリング DC-3で飛行中、フランシスコ・アグロ機長の肩越しに広がる景色。
しかしながら、この機体の機体構造やその他の部品はすべてオリジナルのままであり、2基のプラット・アンド・ホイットニー R1830-92エンジンも当時のままだ。プラット・アンド・ホイットニーの“ツインワスプ” R1830ラジアルエンジン自体が、ひとつの物語を持つ歴史的なエンジンである。B-24 リベレーターをはじめとする多くの航空機に搭載され、航空史上最も生産された航空機用ピストンエンジンのひとつとされている。
世界一周
現代の多くの旅客機とは異なり、DC-3は駐機時に尾部が下がっている(このような機体は、パイロットのあいだで“テイルドラッガー”と呼ばれることがある)。離陸滑走の際には尾部が持ち上がり、機首が下がった状態になってから離陸する。
このDC-3の世界一周ツアーは、昨年3月に明確な広報活動の一環として始まった。しかしこの飛行がまったくリスクのないものだったわけではない。そのリスクのいくつかは、最初のDC-3が組み立てラインを出た1930年代後半、商業航空が冒険と隣り合わせだった時代を思い起こさせるものだった。たとえば燃料ひとつをとっても問題になり得る。DC-3はピストンエンジン機であるため、現在最も入手しやすい航空燃料であるジェット燃料を使用できない。代わりに必要なのはアブガス(航空機用ガソリン)だ。ジェット燃料は灯油をベースとしているが、アブガスはガソリンであり、両者に互換性はない。
世界一周ルートの総飛行距離は2万2700海里(約4万2040km)におよぶ。
アブガスはヨーロッパやアメリカでは比較的容易に入手できるが、発展途上国では調達がはるかに困難であり、それが原因でブライトリング DC-3が立ち往生しそうになったこともあった。アジアのある空港で、クルーは次の目的地の空港に事前に電話をかけ、先に輸送しておいた燃料が無事に到着しているかを確認した。すると、空港側から返ってきたのは“燃料はない”という答えだった。なんと数週間前に高値を提示した別の買い手に売られてしまっていたのだ。この状況を受け、パイロットとクルーは燃料を失った空港ではなく、その次の空港まで飛ぶのに十分な燃料を搭載する決断を下した。しかしそれには燃料備蓄を使い果たすことなく到達するために、追い風を十分に利用できることが絶対条件だった。
非常口の窓は翼の付け根の上に設置されているため、“EXIT(出口)”の矢印がある。
燃料備蓄が問題となったのは、このケースだけではなかった。DC-3の1回の燃料搭載量では、広大な海を横断するには十分な航続距離を確保できない。これは、この旅で最も長距離のフライトとなった日本の帯広からシェミア島までの飛行における大きな課題となった。シェミア島はアリューシャン列島の一部で、1943年以降、ほぼ途切れることなく米軍が駐留しているイアレクソン空軍基地がある。現在はSALT II(戦略兵器制限条約)に基づく監視を目的としたレーダーが設置されているが、同時に太平洋上空で遭難した航空機の緊急着陸用飛行場としても機能している。ただし、定期的に使用される民間航空用の滑走路ではない。それでもブライトリング DC-3が日本から到達できる最も近い飛行場であり、定期便として着陸するためにはアメリカ国防総省の承認を得る必要があった。唯一の問題は、そこまでの飛行時間が10時間にも及ぶことだった。つまり燃料備蓄を確保しつつ、シェミア島まで到達できるだけの十分な燃料を機体に搭載しなければならなかったのだ。
ブライトリング DC-3のキャビンは、必要に応じて予備燃料を積み込めるよう、一部の座席が取り外されている。
上のブライトリング DC-3の機内写真をよく見ると、機内中央に座席のない、かなり広いスペースがあることに気づくだろう。世界一周飛行の長距離区間では、このスペースに巨大な燃料ブラダーが設置され、機体はまるで空飛ぶ燃料タンクのようになる(下の写真では前方の座席も取り外されている)。
ご搭乗の皆様、現在この機内は禁煙となっております。Photo: Breitling
帯広からイアレクソン空軍基地へのフライトは、DC-3とそのクルーを生存の危機に追い込むほど過酷ではなかったが、決して楽なものでもなかった。飛行時間は10時間におよび、晩春の北太平洋上空は機体の着氷を引き起こすほどの低温だったため、DC-3は低空飛行を余儀なくされた。この世界一周飛行においてその区間での最高高度はわずか1000フィート(約305m)ほどであり、飛行の後半では500フィート(約152m)まで降下する必要があった。さらに、DC-3がイアレクソン空軍基地に到着する頃には、大きな暴風雨前線が迫っていた。そのためクルーには休む時間もなく、到着からわずか4時間後には燃料を補給し、再び離陸してアリューシャン列島をさらに西へと進み、コールドベイへと向かった。ここからさらに8時間のフライトが続き、クルーがコールドベイに着陸した時点で、彼らはすでに30時間以上も眠らずに飛行を続けていた。
タイのプーケット上空。Photo: Breitling
77年前に製造された機体としては、信じがたいほどのパフォーマンスだ。しかしダグラスはDC-3を長持ちするように設計していたのは明らかである。当時としては驚異的なエンジニアリングの結晶であり、1機あたり半マイル(約800m)以上のコントロールケーブル(操縦翼面は操縦桿と方向舵ペダルに機械的に連結されている)と、驚くべきことに50万個ものリベットが使用されていた。DC-3やC-47は、任務のなかで極端な過積載状態でも飛行できる優れた能力を発揮してきた。その代表例のひとつが、有名なドーリットル空襲後の出来事である。ジミー・ドーリットル中佐を帰還させる任務を担ったC-47は、彼と74人の乗客を乗せた状態で離陸に成功した(なお、初期のDC-3は21人乗りとして設計されていた)。
エンジンカウリングの下には、ブライトリング DC-3が1940年から搭載しているオリジナルの“ツインワスプ” プラット・アンド・ホイットニー製エンジンが残っている。
DC-3の胴体には50万個以上のリベットが使われている。
BはブライトリングのBだ。
これらのリベットが1940年に取り付けられたという事実を考えずにはいられない(パイロットたちも、時折そのことを考えるのではないだろうか。それとも、むしろ考えないようにするのが得意なのかもしれない)。
もうひとつ興味深い点がある。先に述べたように、このブライトリング DC-3のどこかには500本のナビタイマーが積まれている。これらのナビタイマーは限定版でありDC-3の機体のエングレービングと記念メッセージが刻まれる。
ブライトリング DC-3 ワールドツアー ナビタイマー スペシャルエディションは、記念エングレービングが施されたナビタイマー 01だ。
これらの時計はブライトリングのブティックや正規販売店を通じて販売されるが、現在DC-3とともに世界を一周しているため、今年9月に開催されるブライトリング・シオン・エアショーでこの世界一周飛行が完了するまで入手することはできない。時計を無傷のまま世界一周させるには、かなりの工夫が必要だったようだ。最大の問題は、500本のナビタイマー 01の総額が398万ドル(正規小売価格)に相当するため、盗難のターゲットとして非常に魅力的な存在になってしまうことだった。
ブライトリング DC-3のパイロット、フランシスコ・アグロ機長の手首に巻かれたナビタイマー 01。
旅の途中(特に、空港のセキュリティが杜撰であったり、ほぼ存在しないような地域)での盗難を防ぐ手段として、これらの腕時計は機内のとても見つけにくい場所に隠されている。パイロットのフランシスコ・アグロ氏の言葉を借りれば、“たとえ場所がわかっていたとしても、実際に手にするには2時間以上かかる”ほどの場所だ。さらに、時計がフライトのどの時点でも機外に持ち出されることがないため、それらが突如としてコンパクトな金融資産に変わることもない。それだけでなく旅する時計愛好家が“大好きな”税関職員とやりとりする必要もなくなるのだ。
上と下の写真は、ブライトリング DC-3の尾部(方向舵と昇降舵)。
正直に言うと、若いころの私はDC-3という飛行機を少し見過ごしていた。私が引かれたのは高性能な戦闘機だった。第1次世界大戦時のスパッド VIIから、第二次世界大戦の偉大な単葉戦闘機、ジェット機時代初期のF-86 セイバージェットやミグ 15、そして究極の高速偵察機SR-71/A-12のような怪物まで、どれも夢中になるには十分すぎる機体ばかりだった。しかしDC-3は決して脇役ではない。シンプルで汎用性が高く修理が容易で、そして何よりも圧倒的な信頼性を誇るDC-3は、機械式時計愛好家が機械式時計に見出すような魅力を数多く備えている。長寿命であること、修理可能であること、そして(タイメックスのキャッチコピーを借りるなら)“どんな衝撃にも耐えて時を刻み続ける”メイキングマシンへの徹底したこだわり。現代の航空技術が必ずしも体現できていない精神を、DC-3は今なお体現しているのかもしれない。
前回のフライデーライブのエピソードで、読者から“なぜ昔のようなつくり方をしなくなってしまったのか”という質問があった。より優れた技術は、遅かれ早かれどんな機械も凌駕するものだ。ただ時折、あまりにも完成度が高いため、より現代的なものを想像するのは容易でも、真に“より優れた”ものを想像するのは難しい機械が生まれることがある。この点で、DC-3と優れた機械式時計には多くの共通点がある。どちらも、適切に手入れをして丁重に扱えば、驚くほど長い期間にわたって本来の目的を果たし続けることができるのだ。
次の目的地はボストンとグースベイ。
ブライトリングは、飛行1海里ごとに2スイスフランをユニセフのプログラムに寄付。ブライトリング DC-3 ワールドツアー ナビタイマー スペシャルエディションは、2017秋のワールドツアー終了後に発売された。価格はストラップ付きで8750ドル(当時の日本円定価は税別106万円、編注;本モデルはすでに生産終了しています)。
※提供元の記載があるものを除き、すべての写真はHODINKEEのためにジャック・フォースターが撮影