アキュトロンは時計であると同時に技術でもある。1960年に最初のアキュトロン音叉時計が初めて一般に発表されたときには、革命的としか言いようがなかった。クォーツ時計の登場はまだ10年も先のことで、アキュトロンは最初の電気時計ではなかったが (1957年に鳴り物入りでデビューしたハミルトン エレクトリック500がその栄誉にあずかる) 広範囲で成功を収めた初の時計になった。ハミルトンにとって残念なことに、エレクトリック500は生産が急がれ、初期に重大な問題が発覚し、これが致命傷となった。
アキュトロンの音叉式機構は前例のない精度を実現し、驚異的な技術として評価された。アキュトロンの揺るぎない優位性と正確さは、消費者の間だけでなく、天文学界や史上最速機のコックピットを含む航空宇宙の世界でも広く知られるようになった。次の話は、一般にはあまり知られず、アキュトロン愛好家の間ではよく知られていることだが、冷戦時代の秘密工作に根ざした逸話といえる。A-12と呼ばれる航空機がCIAの "黒いジェット機 "計画の一環として初めて飛行した時、それは世界で最も先進的なものであり、そのパイロットのためにCIAは、当時世界で最先端の時計を選んだのだった。
A-12スパイ機、そしてプロジェクトOXCART
飛行機に詳しい人ならば、おそらくこれを見てすぐ気づくはずだ ― 空軍用に作られた飛行機、有名なSR-71ブラックバードと非常に近いものだと思うかもしれない。しかし、これはSR-71ではなく、ロッキードA-12だ。非常に似ているが別の機体で、SR-71の直前の機種である。ブラックバード同様に、A12はロッキードの有名なスカンクワークス部門によって作られた。そこでは米軍や米情報機関のための機密航空機開発プログラムを、当時も今も扱っている。
スカンクワークスは第二次世界大戦中に設立され、当初は初期のジェット戦闘機の開発を目的としていたが、その後数十年の間にSR-71やA-12に加えて、それぞれの世代で世界で最も先進的な航空機を生産してきた。最もよく知られているのは、HAVE BLUEと名付けられたプロジェクトで、世界初のステルス戦闘機、F-117 ナイトホークを生み出した。スカンクワークス(有名な漫画『リル・アブナー』に登場する密造酒工場からその名を取った)は、非常に速く、かなりステルス性の高い機体を設計してきたが、A12はその両方を兼ね備えていた。A-12、SR-71計画は、別の機密航空機プロジェクトの欠点克服のため必要とされた。それはU-2の愛称で知られる高度飛行写真偵察機で、CIAや空軍が運用し、"ドラゴンレディ "の愛称で親しまれていた。
U-2はソ連上空での任務のために設計され、ソ連の地対空ミサイルでは到達できないような高度を飛行するように設計されていた。ドラゴンレディは、現代の民間旅客機の2倍以上である7万フィート(約21km)を超える高度に達することができた。しかし、1956年に最初の任務を遂行したときに、遅かれ早かれソ連のレーダーとミサイル技術がU-2に追いつくことは明らかだった。1960年、フランシス・ゲイリー・パワーズが操縦したU-2が、ソ連の地対空ミサイルSAMに撃墜され、外交危機が勃発し、米国のソ連偵察飛行の時代は終わりを告げた。
しかし、その頃にはA-12の開発は順調に進んでいた。コンベアとロッキードの両社から提案書が提出され、ロッキードが開発契約を獲得した。プロジェクトのコードネームは、秘密計画のワードリストから無作為に選ばれた「OXCART」(オックスカート)と名付けられていた。しかし、A-12の開発が進むにつれ、スカンクワークスの関係者は、このような画期的な機体にそんな無粋な名前を使うことを好まず、ロッキード社では「シグナス(白鳥座)」という名前が採用された。しかし、現在ではこの名前はほとんど知られておらず、一般的には単にA-12として記憶されるようになった。
A-12は、その後継機のSR-71と同じく、飛行能力が非常に高かった。それは文字通りライフル弾よりも速く、音速の3倍以上、時速2000マイル(時速3218km)以上の速度で飛行することができた。アメリカ大陸を70分で横断することができ、最大高度は約9万フィート(約27km)まで到達可能。マッハ3以上の能力をもつ最初の航空機であるだけでなく、初めての運用可能なステルス機でもあった。A-12のいわゆるレーダー断面積(レーダーから見てどれだけ大きく見えるか)を減らすことについて大掛かりな研究が行われ、機体の全体的な形状を最適化し、特別なレーダー吸収塗料を使用するなどの特殊技術を開発して、敵地での発見と追跡を可能な限り困難なものにした。
設計者であるクラレンス・ケリー・ジョンソンの言葉を借りれば、A-12に関しては燃料も含めて「全てを発明しなければならなかった」。A-12の燃料はJP-7と呼ばれるもので、OXCARTのためだけに開発された。そのための仕様書には、なかなか詩的な表現が使われている。
曰く、 その匂いは "不快感や刺激を与えてはならない" 、 室温での外観は "水のように白く清潔で明るく" なければならない、と。 JP-7は従来のジェット燃料の約3倍のコストによってA-12の飛行を高価なものにしていたが、冷却というもう一つの重要な役割があったため、この処方は不可欠であった。
A-12のチタン製の表面は、最高速度や飛行高度で800℃に達することがあるうえ、JP-7は燃料タンクのライナーを腐食させてしまうため、機体の外殻そのものを燃料タンクとして使用することになった。そのため、燃料は表面からの熱を吸収し、その温度で不用意に発火しないように調合しなければならなかった。ある隊長が火のついたタバコを、JP-7の空き容器に放り込んでも無事だったという話もある。エンジンやアフターバーナーの点火には、空気中で自然発火して高温で燃焼するトリエチルボランを使用した。機体は、16回のエンジン噴射にちょうど足りる燃料を積んでいた。A-12のパイロットは高度な操縦技術が要求される。高速で正しい飛行角度(攻撃角度)から少しでも逸脱すると、機体が「制御された飛行から離脱」して壊滅的な結果を招く可能性があったのだ。
A-12の外殻にはチタンが使用されており、この金属だけで作られた最初の航空機となった。それ以前はチタンは特定の部品にしか使用されておらず、ロッキードへの供給元は、プロジェクト「OXCART」のために十分な量を入手することができなかった。そのためCIAは、当時チタンの最大の生産国であったソビエト連邦から秘密裏に材料を調達するために、海外に複数のペーパーカンパニーを設立した(アンソニー・バーデインがかつてロシアについて書いたことを言い換えれば、諜報活動には皮肉がつきものである)。機体の表皮を構成するプレートは、最高速度で熱膨張するためにわずかな隙間を空けなければならず、その結果、A-12は離陸前に滑走路にジェット燃料を垂らしてしまうことがあった。CIAがパイロット・ウォッチとしてアキュトロン アストロノートに注目したのは、弾丸を超えるスピードの飛行が生み出す強烈な熱のためであった。
ブローバ アキュトロン アストロノート
アキュトロンは、当時、他の腕時計とは違っていた 。前述したように、アキュトロンに先んじて、リップ社とエルジン社から電池式の腕時計の試作が、早くも1952年に一般に公開されている(小売りはされていない)。しかしこれらは従来のテンプとヒゲゼンマイを使用し、それらを稼働させるためにゼンマイではなく、電池と電磁駆動回路を使用していた。電池駆動の時計はある程度目新しさがあったが、それが従来のテンプに頼っていたというだけでなく、初期の製品モデルは非常に信頼性が低く高価でもあったため、普及するには至らなかった。しかし、おそらく最も致命的だったのは、機械式時計と同じ速度で振動する従来型のテンプとヒゲゼンマイでは、そもそも標準的な機械式時計よりも常に優れた精度を得ることができないという事実だった。アキュトロンはそれらを全て変えたのだ。
アキュトロンにはテンプやヒゲゼンマイがない。その代わりに、トランジスタ制御回路によって駆動される音叉振動子を使用している。アキュトロンの音叉(アキュトロン214ムーブメントの場合)は360Hzで振動し、ボタン電池を使う。音叉の片方の肢には、ほとんど目に見えないルビーを先端にあしらった微細な爪が付いている。音叉が振動すると爪が前後に動き、これが360個の歯を持つインデックスホイールを駆動させる。特に、肉眼では見えないほど細かい歯を持つインデックスホイールは、当時の小型化技術とマイクロエンジニアリングの驚異だった。そのメカニズムには他のエンジニアリング製品と同様、長所と短所があるが、高振動のおかげでアキュトロンの腕時計、時計、計時機構は、日差1秒以内という前例のない信頼性を提供することができた。また、主ゼンマイなしで電力で動くという点で、航空宇宙分野での使用に非常に適したものとなった。
おそらく、最も知られたアキュトロンのユーザーは、X-15ロケット飛行機プログラムのパイロット達だった。これらの超音速機は、B-52ストラトフォートレスの翼の下から非常に高い高度で飛び立ち、最高時速4500マイル(時速7242km)で飛行した。多くのX-15パイロットは、宇宙の片隅に到達したと考えられるほどの高度を飛行したため、宇宙飛行士並みの技術が求められた。
アキュトロンはもともとコンシューマー向けの製品として設計されていたが、音叉機構の構造と、重要な部品が低慣性であることから、高いG負荷に耐えられるだけでなく、高温下でも不正確になったり故障したりすることがなかった。このため、有人宇宙飛行のコックピット計器盤タイマーとしてアキュトロンのムーブメントが採用され(ジェミニ計画とアポロ計画で使用された)、A-12のコックピットでの使用にも非常に適したものとなった。
A-12パイロットが直面した基本的な問題は、元A-12パイロットで退役した空軍中佐のフランク・マレー氏がブローバへ宛てた手紙の中で簡潔に記されている。
アキュトロン アストロノートは、技術的にはブローバの他のコンシューマー向けモデルとほとんど同じだったが、この時計は元々、X-15やA-12プログラムで何度も繰り返された高G加速や高温の環境に耐えられるように設計されたものではなかったことは注目に値する。さらに、アキュトロンは、有人宇宙飛行のコックピット計器、人工衛星の搭載時計、さらには軍事用途など、さまざまな役割を担っており、ナイキ地対空ミサイルプログラム(ソ連の爆撃機に対する防御として、ナイキミサイルはアメリカ大陸に配備されていた)では、航空機を追跡するためのタイマーとして使用された。
アキュトロン アストロノートと同時代の他のアキュトロンモデルとの主な違いは、24時間針と24時間ベゼルを搭載していたことだ。214ムーブメントを搭載した他のアキュトロンと同様に、アストロノートにも従来のリューズはなく、裏蓋の電池扉横に埋め込まれた凹型のキーでセットする。アキュトロンのムーブメントは、使用中は驚くほど頑丈だが、作業台の上では非常にデリケートであり(これは、クォーツでさえも同じことが言える)、電池交換や修理には特別な道具と技術を要する。ピンセットでわずかに目測を誤っただけで、デリケートなインデックスホイールの歯やレバーとツメを用いた機構などを破壊するのは非常に簡単なことなのだ。
A-12プログラムの終局
A-12は長く使用される運命にはなかった。CIAの権限で運行されていた単座機であり、ソ連への秘密飛行という本来の任務には使用されなかった。その代わりに沖縄への飛行が行われ、「ブラックシールド計画」の一環としては、北ベトナムを中心にラオスや北朝鮮へも29回の出撃を行った。 その中には、1968年に北朝鮮海軍によって拿捕されたアメリカ海軍プエブロ号(プエブロ号事件で知られる)の位置を特定した任務も含まれている。フランク・マレー中佐はこれらの任務のうち4回を飛行し、「Article 131」というコードネームでA-12がネバダ州グルームレイクの極秘基地からアリゾナ州パームデールの貯蔵庫まで飛行したときには、それがA-12の最後の飛行となった。A-12の任務は、パイロットと偵察官のための2つの座席をもつSR-71に引き継がれ、空軍によって1998年まで、そしてNASAによって1999年まで活用された。皮肉なことに、SR-71とA-12にとって代わられるはずだったU-2「ドラゴンレディ」は現在も使用されており、監視衛星とは比べ物にならない柔軟性と汎用性を示している。
A-12と同様に、アキュトロンも最終的にはより実用的な技術にとって代わられた。最初は1969〜70年に初めて登場した低価格のクォーツ時計に、その後はユビキタスや携帯電話に使われる原子時計制御の時刻信号に。しかし、どちらもある種の技術革新の頂点を極めた素晴らしい例であり、少なくともA-12はCIAによって忘れ去られたわけではなかった。2007年、CIA本部の前に、残存していたA-12の機体の一つが運ばれた。CIAの記事によると、「A-12は5台のワイドトラックに乗ってCIA本部に到着し、3万9000ポンドの機体を3本の支柱をもつ台に乗せて10日間で組み立てるために、2台の巨大なクレーンを必要とした。支柱は機体を8万5000~9万フィート(約25km〜27km)の飛行姿勢に保持し、機首を8°上げ、機体を左に9°傾斜させた状態に固定した」。
A-12とその姉妹機であるSR-71ブラックバードは、今日に至るまで破られることのない速度記録を打ち立てており、1950年代後半の設計を基に作られているにも関わらず、これまでで、おそらく今後も最も速いジェット機であり続けるだろう。同様に、機械としてのアキュトロンは、機械式計時がどこまで可能かを示す実に独創的な例であり、時計製造の進化の中で刺激的でエキゾチックな、そしてロマンティックな時代の魅力的な例であり続けている。
マレー中佐のキャリアについてもっと知りたいなら、彼がメンバーである roadrunnersInternationale.com (A-12、YF-12と、それに関係する人々のコミュニティのためのウェブサイト)へ。コールサインが "Dutch 20 "であったこの人物の経歴や、A-12プログラムに関する彼の多くの記事は、ここで読むことができる。