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Inside The Manufacture 創業1年でマニュファクチュールを目指す、中国の新進気鋭ブランドFam al Hutの工房へ

中国の独立系ブランド、Fam al Hut(ファム・アル・ハット)。その受賞作を支える太倉市(たいそうし)の工房で見たのは、完成品を作るためではなく、時計を改良し続けるための製造環境だった。


創業間もないブランドが、GPHGを受賞した時計のムーブメントを、受賞後に約98%も見直す。通常ならば、その事実は不安材料として受け止められてもおかしくありません。

 しかし中国・江蘇省太倉市にあるFam al Hutの工房を訪れたとき、僕はそれがむしろ、このブランドの現在地をもっともよく表す事実だと感じました。

 大きな工業用エレベーターで2階へ上がると、一本の長い廊下が目の前に現れます。向かって右手、ガラス張りの壁の向こうには、設計者たちが図面を囲んで議論する部屋。一方、左手には数台のCNC加工機や工作機械が並ぶ製造スペースが広がっていました。さらに奥には、試作室、仕上げ部門、時計師が組み立てを行うクリーンルーム、品質管理室、ストックルーム、そしてフェムト秒レーザーを備えた専用ルームまであります。

 ケースやサファイアクリスタルなどを代表に、すべての部品をここで製造しているわけではありません。それでもムーブメントの設計、試作、加工、組み立て、検証、改良までを、自分たちの意思で進められる体制を築いている。その規模と密度は、創業間もない独立系ブランドの工房として想像していたものを大きく超えていました。

 Fam al Hutは2024年に設立され、翌2025年にはデビュー作であるMARK 1 Möbius(メビウス)でジュネーブ時計グランプリ(GPHG)のAudacity賞を受賞しました。中国発の新しい独立系ブランドによる受賞は、世界の時計業界に少なからぬ驚きをもって迎えられたはずです。

 ただ、受賞は完成の証明ではありません。むしろFam al Hutにとって、それは本格的な時計づくりの始まりでした。受賞作さえ改良の対象とし、より良いものを作るために設計を見直し続ける。そのために必要だったのが、この工房だったのです。


GPHGを受賞した『Möbius』とは

工房の話をする前に、まずFam al Hutを一躍世界へ知らしめた時計、MARK 1 Möbiusについて触れておきたいと思います。ケースサイズは42.2mm×24.3mm。ラグを持たないカプセル型のケースは、写真だけを見るともっと大きく、あるいはもっと装着感に癖がありそうに見えるかもしれません。しかし実際に手に取ると、その印象は変わります。手首へ載せた瞬間、思わず「小さい」と口にしてしまうほど、コンパクトに感じられるのです。

 もっとも厚い部分は約17mmありますが、ケース側面には大きくえぐったようなコンケーブ形状が採用されています。単に厚みを隠すのではなく、光と影によって軽快に見せるための造形です。共同創業者でデザインを担うXinyan Dai(シンエン・ダイ)氏は、「小さい時計は美しい」と語ります。だからこそ彼らは、複雑機構を搭載しながらも、まず腕時計としてのコンパクトさを追求しました。

 文字盤の下半分には、時と分を示すふたつのレトログラード表示。上半分には、自社製の二軸トゥールビヨンが配されています。一般的な文字盤というより、立体的なムーブメントそのものを見せる構成です。左右の針は終点へ達すると瞬時に戻り、再び時を刻み始める。二軸トゥールビヨンもまた、60秒と90秒というふたつの周期で回転を繰り返します。

 “Möbius”という名称は、始まりも終わりもないひとつながりの面を持つ、メビウスの輪に由来します。表示と機構を通じて、循環する時間の概念を表現したかったのだと、共同創業者のLukas Young(ルーカス・ヤング)氏は話してくれました。

 未来的なケースとオープンワークの構造は、現代的な造形を強く印象づけます。一方で、ブリッジには丁寧な面取りが施され、ムーブメントの細部には伝統的な高級時計製造の美意識も感じられます。前衛性とクラシックな技法を、どちらかに寄せることなく同居させようとしている点に、この時計の面白さがあります。

 ただし、Fam al Hutがこの時計を「デザインから生まれた時計」と捉えているわけではありません。彼らが掲げるのは、エンジニアリング・ファーストという考え方です。「私たちはまずエンジニアリングから始めます。機構として成立することを確認してから、初めて美しくする方法を考えます」とDai氏は説明します。

 機構を成立させたうえで、その構造をどう美しく見せるかを考える。Fam al Hutにとってデザインは、機械構造と対立するものではなく、その魅力を引き出すためのプロセスなのです。

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中国から、世界に通用するハイウォッチメイキングを

Lukas氏は時計師でもエンジニアでもなく、もともとは熱心な時計コレクターでした。転機となったのは、スイスで働いていた頃に訪れたバーゼルワールドです。2013年、初めてエキシビションを訪れた同氏は、巨大ブランドが集まるメインホールではなく、小さな独立系ブランドが集まるフロアへ足を運びました。そこで出会ったのが、スイスの独立時計師Daniel Nebel(ダニエル・ネーベル)氏です。地下の小さな工房で自ら部品を製作し、自ら時計を組み上げる。その姿が、彼に強い印象を残しました。

バーゼルワールド2013

 帰国後、彼はDaniel Nebelをはじめとするスイスやドイツの独立系ブランドを中国市場へ紹介し、独立時計製造という文化そのものをコレクターへ伝えてきました。その活動を続けるなかで、ひとつの疑問が生まれます。ケース、文字盤、ムーブメントなど、世界中の時計ブランドを支える製造基盤が中国にはすでに存在している。それにもかかわらず、世界へ誇れる中国発のハイウォッチメイキングブランドは、まだ少ない。

 「それなら、自分たちで作ればいい」

 世界有数の製造基盤を持つ中国から、世界に通用するハイウォッチメイキングブランドを生み出したい。その構想が、Fam al Hutの出発点でした。

共同創業者のひとりで主にデザインを手掛けるXinyan Dai氏。

 Lukas氏のコレクターとしての審美眼と、デザインを生業としてきたDai氏の造形感覚。そのふたつが交わることで、Fam al Hutは生まれました。彼らが目指したのは、ただ奇抜な時計ではありません。未来的でありながら、伝統的な時計製造への敬意を持ち、腕時計として快適であること。その3つを成立させることでした。

Lukas氏が撮影した、「闘うドラゴン」の名でも知られる輝線星雲NGC 6188。以前の仕事では南半球に長期滞在する機会が多く、趣味のカメラで星空を撮影していたという。そうした経験も、星に由来するFam al Hutというブランド名のインスピレーションにつながった。

 ブランド名のFam al Hutは、南の夜空に輝く一等星、フォーマルハウトの語源に由来します。巨大ブランドがひしめく時計業界のなかで、小さな工房から自分たちだけの哲学を信じて時計を作る。Lukas氏はその姿に、暗い夜空で力強く輝く星を重ね合わせたといいます。


インサイド・ザ・マニュファクチュール

工房がある太倉市は、上海からほど近い工業都市です。建物の周囲に、いわゆる高級時計ブランドを思わせる華やかさはありません。しかし大きなエレベーターを降り、2階の工房へ足を踏み入れると、その印象はすぐに覆されます。この地域は年間を通して湿度が高く、精密機械や部品への影響を避けるため、設備の大半を2階へ集約しているといいます。

 廊下の向かって右手には、設計者たちのエリアがあります。手前には打ち合わせや休憩ができるオープンスペースがあり、その奥にはDai氏のデスク、さらにムーブメント設計者たちの席が並びます。反対側には加工と試作の現場があるため、現場で見つかった課題はすぐに設計者へ伝えられます。

 取材中も、設計者のデスクへスタッフが集まり、図面を囲んで議論する場面を何度も目にしました。試作で問題が見つかれば設計へ戻り、図面を修正し、再び加工と組み立てを行う。設計と製造の物理的な距離の近さは、そのまま開発の速さにつながっていました。

 製造スペースにはCNC加工機をはじめ、各種の工作機械が整然と並んでいます。隣接する試作室には昔ながらの旋盤もあり、まず試作品を製作して検証し、問題がなければCNC加工へ進むフローになっているそうです。

息抜きのために中国らしく卓球台も置かれていた。

 興味深いのは、現時点で十分な設備があるにもかかわらず、将来の増設を見据えた空きスペースが残されていたことです。工房は完成した施設ではなく、今後の開発と生産に合わせて変化していく前提で設計されているように見えました。

 仕上げ部門では、6名のスタッフがケースやムーブメントの仕上げを担当しています。責任者は、海外のハイジュエリーメゾンで約7年間、ジュエリーの仕上げに携わってきた人物です。時計製造の経験ではなく、「磨く」という技術を評価して迎え入れたといいます。作業台にはツゲの棒など昔ながらの工具も並び、機械加工だけでは完結しない、人の手による仕上げの重要性もここにはありました。

左が仕上げ前の部品で、右がブラックポリッシュが施された後。

 時計師たちが組み立てを行うクリーンルームへは、小さな前室を通り、エアシャワーで衣服に付着した埃を落としてから入室します。ここには4人の時計師が在籍していますが、取材当日に作業していたのは1人。

 設計エリアで交わされていた活発な議論や、製造スペースに響く工作機械の音もここにはありません。工房のなかでも、この部屋だけは時間の流れが少し違うように感じるほど静かな空間でした。

 もっとも厳重に管理されていたのは、フェムト秒レーザー加工機を備えた専用ルームでした。入口には顔認証システムが設けられ、許可されたスタッフしか入ることができません。フェムト秒レーザーとは、1000兆分の1秒という極めて短い時間幅のレーザー光を照射することで、微細な加工を行う装置です。熱が周囲へ広がる前に材料を除去できるため、一般的なレーザー加工では難しい微細な形状を、高い精度で加工できることが特徴です。こうした高度な加工を可能にするだけに、設備そのものも非常に高価です。

 Lukas氏は、その場で実際にこの機械を使って製作した部品も見せてくれました。手に載せても肉眼では形状を確認するのが難しいほど小さく、なかには人間の髪の毛よりも細い歯車まであります。その形状は、顕微鏡を通してパソコンの画面に映し出して、ようやく細部を確認できるほどでした。

調整中のフェムト秒レーザー加工機。

画面左に写っているのは人の髪の毛。それよりも遥かに細い加工がフェムト秒レーザーによって実現されている。

 本機のように、コンパクトなケースに二軸トゥールビヨンとレトログラード機構を収めるには、単に部品を小さくすればよいわけではありません。微細な部品を高い精度で加工し、安定して組み立てられることが必要です。フェムト秒レーザーへの投資は、MARK 1 Möbiusの独創的な構造を支えるためのものでもあります。

 完成した部品やムーブメントは、品質管理室でひとつひとつ検査されます。その先のストックルームには、湿度から部品を守るための大きな保管庫もありました。CNC加工機やレーザーといった目を引く設備だけではなく、こうした地道な管理まで含めて、時計製造の環境を整えようとしているのです。


受賞作でさえ、完成形ではない

 工房を見学したあと、Lukas氏へ率直に尋ねました。なぜ、創業間もないブランドが、ここまで設備と人材へ投資する必要があったのか。返ってきた答えは、意外なものでした。「実は、最初から工場を持つつもりはありませんでした」

 ブランド立ち上げ当初、彼らは多くの新興ブランドと同じように、部品やムーブメントの製造を外部へ委託していたそうです。しかし、そこで次々と課題に直面します。価格の引き上げ、生産の優先順位、品質に問題が見つかった際の改善のスピード。自分たちが納得する時計を作ろうとしても、叶わないことが多かったそう。「自分たちが納得する時計を作ろうとしても、それをコントロールできなかったのです」

 それならば、自分たちで作る。その決断が、現在の工房へつながっています。

 Lukas氏によれば、工房の立ち上げには数百万ドル規模の投資が行われました。設備を購入するだけなら、お金で解決できます。しかし、より難しかったのは人材を集めることだったといいます。現在、工房には約20名のスタッフが在籍し、その多くは上海大学とスウォッチ グループが共同で設立したWOSTEP系の時計学校で学んだ人材です。

 工房を訪れてもっとも印象に残ったのも、設計者、加工担当者、時計師たちが、それぞれの役割に分かれながらも密接に連携していたことでした。設計し、試作し、検証し、改良する。そのサイクルを、自分たちの手で回すことができる。

 その必要性をもっとも端的に示すのが、MARK 1 Möbiusの改良です。「実は、いま作っているMARK 1は、GPHGを受賞したものとはほとんど別物なんです」。Lukas氏は少し笑いながら、そう話しました。

新設計のムーブメントを搭載するMARK 1 Möbius。

 受賞後、彼らはムーブメントの約98%の部品を見直したといいます。外見は大きく変わりません。しかし内部では、レトログラード機構の動き、二軸トゥールビヨンの安定性、耐久性、組み立て性を検証し、ひとつひとつ改善を重ねてきました。

 GPHG受賞は、ブランドにとって大きな成果です。それでもFam al Hutは、その時計を完成形として固定しませんでした。より良い時計になるのであれば、設計を見直し、部品を作り直し、再び組み立てる。その選択ができる環境こそ、彼らが自前の工房を持った理由なのだと思います。

 工房の設計者の席へ人が集まり、図面を囲んでいた理由。試作室と加工現場を何度も行き来していた理由。CNC加工機やフェムト秒レーザーへ投資した理由。それらはすべて、完成品を作るためだけではありません。時計を完成に近づけ続ける環境のためなのでした。

上が従来設計、下が新設計のムーブメント。

 もちろん、工房を見学しただけで、Fam al Hutの品質や継続性がすでに証明された、と言うつもりはありません。本当の評価は、MARK 1 Möbiusがコレクターの腕元へ届き、年月を経てから下されるべきものです。

 取材の最後、僕はLukas氏へ日本の時計ファンへひとつだけ伝えるとしたら何か、と尋ねました。彼は少し考えたあと、こう答えました。

 “Be yourself.”
 「自分らしくあれ」

 巨大ブランドの歴史をなぞるのでもなく、誰かの成功を模倣するのでもない。自分たちが本当に作りたい時計を、自分たちの哲学で形にする。バーゼルワールドで独立時計師と出会った日から、フォーマルハウトの名をブランドに選んだ理由も、早い段階で工房への大きな投資を決断した理由も、その言葉につながっているように思います。

 ただ、Fam al Hutの挑戦はまだ始まったばかりです。まず僕が見届けたいのは、ムーブメントの約98%を見直したMARK 1 Möbiusが完成し、確かな品質を伴ってコレクターの腕元へ届けられること。それが、この工房で見てきたものを時計として証明する最初の大きな一歩になるはずです。

 そして、それを成し遂げた先に、Fam al Hutはどんな時計を生み出すのか。 いま僕が気になっているのは、そのふたつです。

Fam al Hutについての詳細は、ブランド公式サイトへ。