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Cars 栄光と悲劇を背負った幻の傑作。メルセデス・ベンツ 300 SLR ウーレンハウト・クーペの数奇な運命

わずか2台のみ製作された幻のプロトタイプ「メルセデス・ベンツ 300 SLR ウーレンハウト・クーペ」。天才エンジニアの情熱、レース界での圧倒的な栄光、そして突然の幕引き。近年打ち立てた「クルマ史上最高額」というオークション記録も、この1台が辿った数奇な歴史の副産物にすぎない。モータースポーツ史に燦然と輝く、孤高の傑作に迫る。

HODINKEE Japanでは2026年10月30日(金)から11月5日(木)まで、Car & Watch Week 2026としてクルマやそれに関する時計に焦点を当てた特集を公開している。このウィークのために用意した新規取材記事をサイト上で毎日配信していく予定だ。すでに公開されたコンテンツについてはこちらから確認して欲しい。

現在、オークションで落札された史上最高額の腕時計は、Only Watch 2019に出品されたパテック フィリップ グランドマスター・チャイムと言われている。3100万スイスフラン、当時のレートで約34億円の値がついた(ちなみに、懐中時計を含めるとさらに高値がついたものもある)。それまでの1位であった2017年のポール・ニューマン・デイトナ(約20億円)から大きく更新されたこの記録は、現在まで破られていない。

 だが、クルマの世界ではさらに目を見張るような価格がつくこともある。2022年5月5日、ドイツはシュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ・ミュージアムが極秘裏に閉鎖され、RMサザビーズによる特別なオークションが催された。招かれたのはメルセデス・ベンツと企業的価値を共有する、世界トップクラスの自動車およびアートの国際的なコレクターたちのみだった。

 出品されたのは、1950年代当時たった2台のみが製作された絶対的に希少なプロトタイプ「300 SLR ウーレンハウト・クーペ」だ。2013年にグッドウッドを走行した以外に「メルセデスが絶対に手放すことはない」と信じられていた門外不出の究極のモデルが初めて競売にかけられ、1億3500万ユーロ(当時の為替レートで約186億3000万円)で個人コレクターの手に渡ったのだ。次点が2023年11月に落札された1962年式のフェラーリ 330 LM / 250 GTOの5170万5000ドル(約78億円)であり、文字通りダブルスコアで引き離す史上最高額である。

 モネやピカソの名画にも匹敵するこの天文学的価格は、単なるスペックや希少性だけで説明できるものではない。一介のレーシングプロトタイプが、なぜこれほどまでに神格化されたのか。その価値の真の源泉を知るには、この車が背負う「栄光と悲劇の歴史」、そしてひとりの天才エンジニアの数奇な運命を紐解く必要がある。 


生みの親、ルドルフ・ウーレンハウトが導いたベンツ社の黄金期

ルドルフ・ウーレンハウト(Rudolf Uhlenhaut)。1906年ロンドン生まれ。ミュンヘン大学で工学を修め、1931年にダイムラー・ベンツ社へ入社。プロレーサーに比肩する卓越した操縦技術を武器に、300 SLやW196など数多の伝説的マシンの開発を主導した。

300 SLR ウーレンハウト・クーペは、いかにして生み出されたか? もちろん、かくも洗練されたスポーツレーシングカーが開発された背景には、車名にその名をとどめるエンジニアことルドルフ・ウーレンハウトに触れないわけにはいかない。彼はドイツ銀行のロンドン支店長だった父と英国人の母親とのあいだに生まれ、ドイツと英国のハーフとして8歳までロンドンで過ごした。ブリュッセル次いでブレーメンに一家は移り住んだのち、若きルドルフはスキー熱が高じてミュンヘン大学で工学を修める。その後、1931年に当時のダイムラー・ベンツ社にエンジニアとして入社した。

 モータースポーツ黎明期のこの時代、現代のような規格と運営による“フォーミュラ・ワン”は存在していなかった。欧州各地で「グラン・プリ」が開催され、自動車メーカーが競い合うなかでメルセデス・ベンツはアウトウニオンの後塵を拝していた。ウーレンハウトはレーシングドライバーに比肩する高速ドライビングのスキルを備え、車両の仕様やセッティングを煮詰めていくことに長けていた。彼が開発に関わった1937年シーズンのW125、次いで1938年のW154は大成功を収めたが、第2次世界大戦が勃発し、メルセデス・ベンツのモータースポーツ活動は1950年代まで停止を余儀なくされた。

1938年のドニントン グランプリでW154に搭乗するヘルマン・ラング。Photo by National Motor Museum/Heritage Images via Getty Images

W125。1937年のロンドン グランプリの様子。Photo by Hulton Archive/Getty Images

 1950年に成立したフォーミュラ1世界選手権では当初、アルファロメオが圧倒的な強さを発揮していた。当時のメルセデス・ベンツは戦前に開発したW154でアルゼンチンなどのグランプリに試験的に参戦し、その戦闘力を計っていたが、欧州で太刀打ちするのは難しいと判断し、1952年にスポーツカー・レースから復帰する計画を立てた。かくして乗用車部門の開発トップに復職していたウーレンハウトに再び白羽の矢が立ち、「300シュポルト・ライヒト」つまり“300 SL”の開発が始まった。のちのガルウイングの市販スポーツカー(W198)とは異なる300 SLであり、「W194」を指す。まだ物資や調達が難しかった時代、それはメルセデス・ベンツの当時のハイエンドだった300 リムジンの3ℓ・直列6気筒エンジンを流用しつつ、新しいシャシーを開発することと同義であった。

 すでにW125、W154で鋼管楕円チューブラーフレーム構造の経験を積んでいたウーレンハウトは、長年温めていたアイデアを実行した。それは同じくチューブラーパイプを接合して強度を確保しながらも、対角線や三角構造を多用することで部材の量を減らすことだった。上に跳ね上がるガルウイング・ドアは、サイドシル(クルマの左右、ドアの下側にある構造パーツ)が高く開口部の小さいフレーム構造ゆえに必然のディテールだった。リムジン用で背の高いエンジンは175馬力までチューンされたのみならず、斜め50度に傾けて搭載されることで、低いボンネットによる空力に有利なプロポーションが得られた。4速トランスミッションはほぼキャリーオーバーのため、パワートレイン総重量はリムジンとほぼ変わらず相対的に重たかったが、フレームとボディを含めたW194の総重量はリムジンの1780kgに対し、1100kgの軽さに抑えられた。

1952年式300 SL(W194)。現存するSLのなかで、最も古い個体となる。

 かくして300 SLことW194は1952年ミッレミリアでの2位を手始めに、ル・マン24時間でワンツーフィニッシュ、ニュルブルクリンクでトップ3を独占、メキシコはカレラ・パナメリカーナを再び1位2位で制するなど、圧倒的な強さを見せた。アメリカのインポーターであるマックス・ホフマンはW194のロードゴーイング・バージョン、つまり公道走行可能な市販車の開発を要請し、ウーレンハウトはより本格的なレーシングカーの開発へと舵を切る。前者がW198の型式番号が付けられた市販バージョンの300 SLに、後者は1954年に満を持してシングルシーターとして登場するW196に繋がる流れとなった。そしてW196は、W194の鋼管チューブラーフレーム構造をほぼ踏襲していた。

1952年、ニュルブルクリンク1000kmレースにて、メルセデス・ベンツ300SLを駆るヘルマン・ラング。Photo by National Motor Museum/Heritage Images/Getty Images


栄光の絶頂と突然の幕引き。世に出ることのなかったマシンはいかにして伝説となったか

モータースポーツの頂点に登り詰めるべく、完成度の高いシャシーにふさわしい新エンジンの開発が始められた。W196は1954年からのフォーミュラ1のレギュレーションに合わせ、自然吸気2.5ℓの排気量で直列8気筒という新設計のエンジン、M196を搭載。しかもW196はアルミニウムやマグネシウムの軽量合金をボディパネルに用い、シングルシーターと、より空力的なストリームラインのボディワークを、レースごとに使い分けた。後者のフロントノーズ形状に、のちのウーレンハウト・クーペの萌芽が見られる。M196の出力は当初は260馬力、後に295馬力にまで達し、マセラティやランチア、フェラーリといったライバルを上回って、1954年と1955年のフォーミュラ1選手権でエントリーした12戦中9勝という圧倒的な強さを発揮した。

300 SLR、のちのウーレンハウト・クーペ。

 1955年にW196はスポーツカー世界選手権にも進出。2座のシートとヘッドライト2灯を新たに備えた仕様に、「300 SLR」の名が与えられた。つまりW196のスポーツレーシング仕様が、「300 SLR(W196S)」だったということだ。300 SLRのM196エンジンは排気量が元の2.5ℓから3ℓに拡大され、パワーも約300馬力に引き上げられていた。それはシングルシーターの約700㎏から約200kg増した重量を十分に補うものだった。300 SLRは1955年ミッレミリアでスターリング・モス/デニス・ジェンキンソン組のドライブにより、約1600kmを10時間7分48秒で走破するという絶対的な最速記録を打ち立てた。

1955年のミッレ・ミリア。スターリング・モス、デニス・ジェンキンソンのふたりは、圧倒的な記録を残して優勝した。Photo by Klemantaski Collection/Getty Images

 この年、フェラーリ375とジャガーDタイプ、そしてマセラティ300Sに対し優位に立っていたメルセデス・ベンツ300 SLRだが、6月のル・マン24時間では一転、大惨事の当事者となった。メインスタンド前のストレートで、ピットイン車両を避けた前走車に、ピエール・ルヴェー駆る300 SLRが追突して土手の上に舞い上がって大破、その破片が観客80数名を巻き込むという、モータースポーツ史上最悪の事故が起きたのだ。メルセデス・ベンツは夜半にかけてほかの車両を止め、このレースから退いた。9月に英国で再開されたスポーツカー世界選手権には復帰し、残りシーズンで2勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンとなったが、フォーミュラ1も含めこのシーズンをもって長らくメルセデス・ベンツはワークスのモータースポーツ活動から身を引くこととなる。

ピエール・ルヴェーが運転する200 SLRが制御を失い、密集していた観衆のなかへ突入。ルヴェーは死亡し、多くの人々が負傷した。Photo by Fox Photos/Getty Images

 ルドルフ・ウーレンハウトが、のちに「300 SLRウーレンハウト・クーペ」と呼ばれるロードゴーイング・バージョンを製作したのは、この1955年の夏といわれる。おそらく休暇シーズンを前に、メルセデス・ベンツ首脳陣はモータースポーツ撤退の決定を下し、ウーレンハウトに伝わっていたはずだ。数年をかけて彼が指揮したW196のプロジェクトは、最高の栄誉に浴した一方で、速くなり過ぎて他の競合相手など周囲とのリスクが増大した当時のモータースポーツの現実をもあぶり出し、道半ばで中断を余儀なくされた。

息子とウーレンハウト・クーペに搭乗するルドルフ。

 果たして彼はどのような気分で、手塩にかけたレーシングスポーツカーを「自らの社用車にする」というアイデアに供したのか。翌年の1956年シーズンに向けて、300 SLRのクーペボディ化はすでに計画されていたといわれる。無論、レース車両のスペアパーツとしてノーズやルーフなどアルミやマグネシウム合金のパネルを、職人が叩いて繋ぐといった作業は、1950年代の自動車メーカーの環境なら日常の延長だっただろう。F1の頂点にも立った最高峰のテクノロジーが数々投入されながら、たった2台しか生み出されなかったW196のロードゴーイング・バージョンこと300 SLRウーレンハウト・クーペ。おそらくそれは、ぽっかりと空いた隙間を埋める慰みでも、会社への当てつけでもなく、夏の休暇を前に“純粋な遊び”としてカリスマ的エンジニアが、突如として浮いてしまった手段と目的を、自由なアイデアで解き放った結果ではなかったか。その後、この車を自らの手で日常的に走らせていたウーレンハウトは、シュトゥットガルトとミュンヘン間のアウトバーン8号線、約220kmの距離を、1時間ほどでこなしていたという。


未来へと受け継がれる186億円の真価

なお、その年にダイムラーAGからメルセデス・ベンツ・グループAGへと改名した同社の公式資料において、300 SLR ウーレンハウト・クーペについて確認できるのは、1955年の夏に2台が完成されたことだ。2台にはそれぞれ異なる内装色、赤と青が与えられていたが、RMサザビーズでの競売車両は前者であり、後者は今もシュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ・ミュージアムに展示されている。

シュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ・ミュージアム。Photo by Bernd Weißbrod/picture alliance via Getty Images

Photo by Gokhan Balci/Anadolu via Getty Images

 この競売にかけられた300 SLR ウーレンハウト・クーペを通じて得られた莫大な資金を、メルセデス・ベンツは現在beVisioneers(ビー・ヴィジオネアーズ)というフェローシップ・プログラムにあてている。これは非営利団体によって運営され、環境やサステナビリティ分野において革新的なアイデアをプロジェクト化しようとする若い人々を支援することを目的とする。フェローはオンラインと対面を組み合わせた学習・支援プログラムに2年間参加することを通じて、プロジェクト資金やコーチングを受けながら、リーダーシップや起業、具体的なサステナビリティ・プロジェクトの実行と拡大を集中的に学ぶ。加えて彼らの学びや計画の進捗には世界各地のメンターが伴走し、そのなかにはメルセデス・ベンツの社員も含まれるという。

プログラムにより支援されている若者たちと、メルセデス・ベンツグループAG取締役会メンバー。

 いわば第三者割当増資や社債といった純粋に金融工学的な手法ではなく、自らの過去に照らし合わせながら未来を構築するための種を撒き、育てていくための礎となった点に、この車の額面以上の価値がある。ミッレミリアでの永遠に破られることのない記録から、自動車史上最悪の惨劇、そして天才エンジニアの私的な足跡まで。モータースポーツの栄光と挫折を内包するこの車は、プロトタイプとはいえ自動車という工業製品である。しかし時代を超えて人々の関心や特別な感情を呼び起こし、次の時代にも受け継がれるべき存在であり続けている点において、300 SLR ウーレンハウト・クーペは傑出した「アート・オブ・オートモービル」と言えるのである。