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Buying, Selling, & Collecting 初めてのテニスレッスンが教えてくれた時計への(過剰かもしれない)愛

週末のウィンブルドン決勝戦に世界中が注目するなか、あるテニスプロが自身の時計中毒から快復にいたるまでのエピソードを語った。

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Photos by Dana Golan

グレッグ・モーラン(Greg Moran)はコネチカット州ウィルトンにあるフォーシーズンズ・ラケットクラブのオーナー兼テニスディレクターだ。

私は10歳のとき、クレーのテニスコートに立って悪戦苦闘していた。ボールとラケットをしっかりとコンタクトさせることは初めてのレッスンではほとんどなかった。

 弁解しておくと、私はこの競技に慣れていなかっただけでなく、なかなか集中することができなかったのだ。リック(Rick、プロだ)が私にボールを供給するたびにショットに集中するよりも、彼の腕時計に反射する太陽のまぶしさに目がいっていた。当時の私は知りもしなかったが、それはブルーの文字盤にオイスターブレスレットを備えたロレックスのデイトジャストだった。

 深い日焼けにタイトな白いショートパンツ、口ひげ、そしてクールな腕時計。1970年ごろ、これがカントリークラブのテニスプロに必要なスタイルであり、リックはまさにその風貌を踏襲していた。まあ、ユニフォームのようなものだ。英語、あるいはオーストラリア語のなまりも重要だった。

 私は決してテニスの天才ではなかった。しかしその日、生まれ持った才能よりもはるかに重要なもの、つまりテニスを愛する心が芽生えた。その瞬間から私はテニスの虜になった。新しいものに熱中する子供のように夢を見ていたのだ。私の心はイギリスの緑の芝生からローラン・ギャロスの赤いクレーコートへと旅立っていた。毎夜、枕に頭を置いてしばらくすると、私はコートに引かれたラインのあいだに立っていた。

 夜中はプロの世界に入り浸り、昼はコートで自分の技術を磨いた。ロッド・レーバー(Rod Laver)のフォアハンド、ケン・ローズウォール(Ken Rosewall)のバックハンド、スタン・スミス(Stan Smith)のサーブ、アーサー・アッシュ(Arthur Ashe)のクールさを夢に描いた。彼らは私の憧れだった。

 そして、彼らは全員がロレックスを着用していた。

 そして何年も経ってからはっきりしたのは、最初のテニスレッスンが私を時計の世界に引きずり込んだということだ。

 コネチカットにある地元の宝石店で、私はケースに鼻を押し当て、同じように時計を愛する人たちと話をしたものだ。12歳のとき、リックのテニスラケットのストリングを張って稼いだお金で、初めてタイメックスを購入した。

 私の新しい時計はブルーの文字盤にステンレススティールのブレスレットを備えていた。そしてこれがシチズン、セイコー、ほかのタイメックスと、古いアディダスのシューズボックスに入っていたたくさんの時計の最初の1本になったのだ。それらは私の青春の宝物であり、オンコートでもオフコートでも大切な相棒であり、それぞれが私にクールさを教えてくれた。すべてのティーンエイジャーが目指す人生の目標だ。

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 私は高校テニスのスター選手としてつかのまの地位を獲得し、ディビジョン2に属する全米トップクラスのチームであるロリンズ・カレッジのベンチに入った。そのかたわらで、私はテニスのレッスンも続けていた。やがて私は、いつかテニスを教えることを自分の仕事にしようと思うようになった。

 自分への卒業祝いとして、私はロレックスのデイトジャスト(もちろんブルーの文字盤)とオイスターブレスレットを購入した。1981年6月、正式にこのユニフォームに袖を通した。

 レッスンのなかで、私はちょっとした“手首チェック”の達人になっていた。生徒のひとりが手首に興味を引くものをつけていると、私はアドバイスをするという名目で彼をネット際に呼びだし、それが何かを盗み見ていたのだ。

 月曜日の午前6時半からのレッスン(相手は脳外科医だ)では、生徒は黒文字盤のブライトリング ナビタイマー IIを着用していた。毎週水曜日の午前7時、コートをともにしていた芸能関係の弁護士はボールを打ち始める前にパテック フィリップのカラトラバを丁寧に外してそっとバッグに入れた。パネライ、ゼニス、ジャガー・ルクルト、A.ランゲ&ゾーネ、そしてオメガが常にネットの向こう側にいた。私は何人かの成功者にレッスンを施し、彼らの時計を私が追い求める成功の象徴と見なしていた。

 キャリアを重ねて資金もできたので、高級時計の世界に飛び込んだ。私は機械が苦手なので複雑機構の時計には興味がなかったし、週に60時間以上もテニスコートで汗をかくのでドレスウォッチも必要なかった。スポーツウォッチが私のスタイルとなり、テニスコートで着用できない時計は買わないという厳格な決まりを作った。

 ロレックスにオメガ、ブライトリングが私の愛用ブランドとなった。それらのサイズは43mmより大きくはなく、39mmより小さくもない。

 1990年までに、私は曜日ごとに違う時計を身につけることができるコレクションを揃えていた。月曜日はいつも卒業記念のデイトジャストを着用していたが、それ以外の曜日は次のような感じだ。

日曜日: 黒文字盤のオメガ シーマスター
火曜日: ブライトリング スーパーオーシャンヘリテージ
水曜日: ロレックスのGMT(ペプシカラー)
木曜日: 青文字盤のオメガ シーマスター、ロレックス サブマリーナー Ref.16610
金曜日: ブライトリング ナビタイマー
土曜日: ポーラーダイヤルのロレックス エクスプローラー

 月ごとに入れ替えることもあった。

 朝の超越瞑想の最中、私の心はマントラから、これから身につける腕時計へとしばしば引き寄せられた。私の時計たちは追い求めていた成功の一部を達成したかのように感じさせてくれたし、そう、今でも少しばかりクールな気分にさせてくれる。

 結婚し、子供も生まれ、コネチカット州で大きなテニス施設を経営するまでにキャリアを積んだ。子どもたちはふたりともテニスには興味がなかったが、息子はどうやら時計が好きなようだった。マイクの高校卒業祝いはオメガのシーマスター プロフェッショナル 300Mにした。この時計はピアース・ブロスナン(Pierce Brosnan)が『007/ゴールデンアイ(原題:GoldenEye)』でジェームズ・ボンド役を演じたときに着用していたものだ。

 人生は順調だった。しかし50代後半になると、時計との付き合いが一変した。1) 憧れて、2) 手に入れて、3) 手放す、という不穏な悪循環に陥ったのだ。

 日に日にヒートアップする時計市場において、交渉、トレード、転売にまつわる煩雑な駆け引きに精通するようになっていった。「それが提示できる限界か?」というフレーズが、私の口癖になった。そう、「私が普段購入しているほかのディーラーでは、Xドルで売ってくれる。なんとかならないか?」といった感じに。

 私は世界中のディーラーと関係を築き、矢継ぎ早に質問や要求をぶつけた。Xを探してくれないか? いくらだ? 夜間配達は可能か? 明日には必要なんだ!

 もちろん、“明日必要だった”ことなんてない。まったく必要なかった。実際、特に欲しいとも思わなかったにもかかわらず、その取り引き自体にはまってしまったのだ。

 次の取り引きばかりが頭にあり、新しい箱を開けたときのようなエンドルフィンの快感は薄れていた。何も新しいと感じず、次の時計だなと思うだけだった。

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 最近買ったものが入っている小包を開けたら、すぐにそれを再利用して、手放すものを発送した。買ったものを鑑賞する? そんなことをする暇がどこにある? 窓口が閉まる前にこの箱をFedExで送らなければ!

 中毒の絶頂期には最低でも週に2本の時計を動かし(買ったり売ったり、だ)、1日に何度もディーラーと連絡を取り合っていた。アプリ上で1時間に何度も新作情報や記事をチェックすることもあった。そして当時の私はジャン-クロード・ビバー(Jean-Claude Biver)に真剣に惚れ込んでいた。

 私がしていたことは感情の面でも意味がなく、金銭的にも非常識だったと思う。1ヵ月のあいだに同じ時計を2度売買することもよくあった! ロレックス 赤サブのRef.1680や、GMTマスター IIのRef.16710。そしてオメガのシルバー スヌーピー アワード ムーンウォッチとエド・ホワイトのスピードマスターも行ったり来たりしてした。この状態が約3年続いた。

 また思い出深い価値のある時計も手放してしまった。そのなかにはユニフォームを着て最初の正式な顧客であったドイツ人カップルから譲り受けたロレックス Ref.16710 ペプシも含まれている。旧友の遺言で託されたゴールドのロレックス デイデイト(日付表示はフランス語)もトレードした。卒業記念のデイトジャストも、もう手元にない。これは私の人生最大の後悔だ。

 いったい何が起こったというのだろう? 人生を通じてあれほど喜びをもたらしてくれたものが、いかにしてストレスに満ちた強迫観念と化し、私を麻痺させていたのか。中年の悲哀? 会社経営からくるストレスからの逃避? それとも慢性的な退屈によるものか?

 今日にいたるまで、まだよくわかっていない。ただ何かを変えなければならないとは思っていたし、どん底まで落ちる必要があった。そして2021年2月にそれは起こった。

 3度目のヴィンテージ エクスプローラーを購入したばかりの私はクルマに乗り込んだ。だがハンドルに手をかけた瞬間、風防のクリスタルに当たった光によってパニックに陥った。

 新しい時計を手に入れた興奮は追い詰められた不安に変わっていた。帰路の途中、「どうしたらこの状況から抜け出せるだろうか?」ということばかりを考えていた。価格のことでディーラーを困らせてしまっていた私は、ディーラーに電話して本当のことを言うのが恥ずかしく、次のようなメールを書いた。

ジョンへ

信じられないだろうけど、家に帰ったら妻が結婚記念日のためにヴィンテージのエクスプローラーを用意して待っていたんだ。君から納品してもらったばかりのエクスプローラーだけど、返品してもいいかな?

グレッグより

 もちろんその日は私の結婚記念日ではなかったし、妻がヴィンテージのエクスプローラーを用意して待っていたわけでもない。ジョンは快く時計を返品させてくれた。実際、彼はまだセールスの電話をかけていなかった。まるで私の心中を知っていたかのように。

 私は自分の振る舞いを誇りに思えなかった。依存症について私が知っていることはほとんどないが、腕時計を買っては腕に巻くという行為にいつのまにか依存してしまっていたことに、このとき気がついた。

 時計中毒者のための12ステッププログラムなんて存在するだろうか? 私が知っている限りはない。だから自力で抜け出す方法を考えなければならなかった。

 この取り組みを私はゆっくりと開始した。まずは3日ごとに手首をむき出しにすることを誓い、ディーラーとのやり取りを半分に減らすことから取りかかった。

 スマートフォンからは時計アプリを削除し、すべての時計フォーラムのメンバーシップを解除した。また毎月の時計に関する予算も厳しく設定した。深夜2時にお気に入りの販売店にメールを送る以外はこの計画を3カ月間守り通した結果、私の頭はクリアになり、中毒状態も収まっていった。

 しかし1度時計に夢中になってしまうと、簡単には抜け出せないものだ。

 私の60歳の誕生日を祝うため、子供たち夫妻がマディソンアベニューにあるブライトリングのブティックで私と妻を出迎えた。妻からバースデーウォッチを選んでもらうためだ。依存症からの快復後、初めてのことである。

 私はSS製のスーパーオーシャン 42を選んだ。白い文字盤。今まで所有したことのない時計だ!

 支払いを済ませるのを待っていると、セールスマンのセイエフがヴーヴ・クリコ(私たち家族が大好きなシャンパン)のボトルを持ってきてくれた。まだ朝の10時だというのに、私たちはそれを飲み干した。

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 そのとき、クールさや達成感でも、取り引きの興奮、また新たなものを手に入れたときの痺れるような感覚でもなく、まったく別の何かを感じた。愛する人たちとこの体験を分かち合うことで生まれる強烈な親近感だ。

 そのとき、あるアイデアが浮かんだ。自分のためだけに時計を買うのではなく、人とのつながりや家族との思い出を記念するために時計を買おう、と。

 このブライトリングに出合ってからというもの、私は特別な日のために時計を買うようになり、その日付を刻印してもらうようになった。これらの時計は私が時を刻むのを止めたら、愛する人のもとへ行くことになる。今のところ私が持っているのは以下のとおりだ。

– あるクリスマスに妻からもらったロレックスのサブマリーナー。これは息子に贈る予定だ。
– 娘の結婚式で身につけたロレックスのペプシGMT。これは義理の息子に贈る。
– 息子の結婚式で着用したオメガのシーマスター。息子に贈ろう。
– 孫が生まれたときに買ったロレックスのバットマン。この時計はオリーの18歳の誕生日に贈るつもりだ。

 今日、私の(ずっと小さくなった)ウォッチボックスを見るとどのピローにも思い出が詰まっていて、「そういえば……」と顔がほころぶ。

 息子と新作時計についてのメールを送り合わない日はめったにないし、義理の息子(そう、娘はウォッチガイと結婚したのだ)からTalking Watchesの新エピソードを知らせるメールを受け取らない日はない。私たちの時計談義は、息子たちとのつながりと親密さという特別な感情をもたらしてくれる。

 回復期にある誰もがそうであるように、私にも弱気になる瞬間がある。最近ある販売店からヴィンテージのチューダー サブマリーナー スノーフレークをすすめられ、私の頭のなかでこんな対話が始まった。

 オリーのバットマンを売れば買えるんだけどな……。あれはオリーの最初の誕生日に18歳になった彼にプレゼントするために買った特別なバットマンなんだ。彼はまだ2歳だよ。何も知っちゃいない。ほかのものを買ってあげることもできる……。でも、もうこんなことはしないって決めたんだ。

 いいニュースは、オリーにはまだバットマンがいるということだ。少なくとも今のところは。