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1970年5月、ジョン・バーギーは当時36歳。ペンシルベニア州ランカスターにあるハミルトンウォッチの研究開発部門責任者を務めていた。彼は、ジョニー・カーソンのトゥナイト・ショーにゲストとして出演し、ハミルトンの新しい時計と紹介することになっていた。この時計はただの新製品というわけでなく、全く新しいタイプの時計であった。
それは、パルサー・タイム・コンピュータと名付けられた、世界初のデジタルウォッチである。カーソンを含め、それまで誰もこんな時計を見たことはなかった。針も文字盤もなく、その代わりに何も表示されていない長方形の赤いディスプレイが付いている。ハミルトン曰く、これは合成ルビーで作られた「タイムスクリーン」と呼ばれる画面で、金色のクッションケースにはめ込まれていた。時間を表示させるには側面のボタンを押せばよく、時間と分を示す3つか4つの赤い数字が1秒ほど点灯し、すぐに消える。ボタンを長押しすれば、秒を示す数字がスクリーンに現れ、またすぐに消えるようになっている。
カーソンはこの時計を気に入らなかったようで、「これじゃミッキーマウスの腕時計にも勝てないよ」と言うと、腕を振り上げてこのゴールドの時計をぽいと投げた。バーギーの恐れていた事態だ。
最終的にはカーソンの評価は正しかった。デジタルウォッチはミッキーの腕時計にも、他のアナログ時計にも代わることはなかった。1977年の終わりまでにハミルトンはパルサーの生産をやめただけでなく、パルサーという名前さえも売却してしまった。
さらに、パルサーで使われていたバッテリー駆動の明かりで時間を表示させるLED(発光ダイオード)というテクノロジーも、まもなくLCD(液晶ディスプレイ)に取って代わられた。LCDを使うと時間を常時表示できるため、現在ではデジタルウォッチのスタンダードな技術となっている。
しかし、1970年代初期の時点ではカーソンのようにパルサーを酷評する人間は少数派だった。ハミルトンのパルサーは一大旋風を巻き起こし、クォーツ革命における旗手となった。もちろん、世界初の電子クォーツ式腕時計をめぐる開発競争を制したのはセイコーである。セイコーはバーギーがトゥナイト・ショーに登場する5ヵ月前にアストロンを発売していた。しかし、セイコーのアストロンは伝統的な針や文字盤、インデックスを使用したクォーツ式アナログ時計であったし、商業的に成功を収めることはなかった。
それに対して、ハミルトンのパルサーはヒット商品だったし、期間としては短いながらも当時一番有名な時計でもあった。パルサーはその名声に値する特徴も備えていた。
*スペースエイジ風のデザインとソリッドなつくり(物理的に動作するパーツを排除した)は革命的だった。
*腕時計の新ジャンルを切り拓き、アメリカの電子機器メーカーが次々と腕時計事業に参入するきっかけとなった。
*オメガなどのスイスメーカーに模倣された。オメガはパルサーからモジュールを買い取り、それをマネた自社製のLEDウォッチを作っていた。
*アメリカを時計業界の中心へと再び返り咲かせるトレンドの中心として、アメリカのビジネス業界とメディアから讃えられていた。
忘れ去られた栄華の失脚
しかしながら、歴史はパルサー、そして黎明期のアメリカ時計業界になだれ込んで行った電子機器メーカーに微笑むことはなかった。彼らはクォーツ革命においても最も急進的な存在だった。彼らが根絶しようとしたのは機械式の時計だけではない。クォーツ式か機械式かに関わらず、あらゆるアナログ時計を排除しようとした。自分たちがデジタルウォッチだけの未来を切り拓いているのだと確信していたのだ。1970年代後半、当時のマイクロ・ディスプレイ・システムズ社のCEO、トム・ヒルティンは私にこう言った。「今の時代、学校の時計もすべてデジタルだ。子供たちはデジタル時計しか知らない。次の世紀になる頃には、すべての時計がデジタルに変わっているだろう」
今日、アメリカのLEDウォッチメーカーは忘れ去られている。「アメリカのデジタルウォッチという現象は時計づくりの歴史の中でも、とてもユニークなものだった」。腕時計の専門家であるリュシアン・トゥルーブは、2013年の電子時計についての大著『Electrifying the Wristwatch” (Schiffer Publishing Ltd.)』の中でこう語っている。「短命に終わったアメリカ腕時計業界の『冒険』を覚えている人はほとんどいない。彼らの製品は腕時計という概念の幅を広げたし、一度は成功が約束されたものだと思われていた。しかし、結局は一時的なブームに終わってしまった。今では誰も思い出したくない過去となってしまったのだ」
ハミルトンのパルサー・タイム・コンピュータは
世界初のデジタルウォッチで、
クォーツ革命における旗手となった。
トゥルーブが書いたことは残念ながら正しい。世界初のデジタル時計はアメリカで作られた。パルサーはその点だけでも、人々の記憶に残るべきだ。アメリカでのLEDウォッチの探求は1972年から1981年まで続いた。それは腕時計の歴史に刻み込まれるべき、大冒険だったといえる。
これから語るのは、クォーツウォッチ革命の失われた歴史である。
パルサー・フィーバー: 1972-73年
ジョニー・カーソンが投げ捨てた腕時計はプロトタイプだった。プロトタイプの台数には諸説あるが3つか4つあるといわれており、この時のものはそのうちの1つ。ハミルトンが急造したものだった。実のところ、ハミルトンにはこの時計を生産する準備が整っていなかった。それでも発表しなければいけないと感じていたのだ。
ハミルトンが急いでいたのには二つの理由がある。一つ目はセイコーとスイスウォッチ勢が既に新しい電子クォーツ式のアナログウォッチを発表していたため、ハミルトンもクォーツウォッチ市場のプレイヤーであると人々に認識してもらう必要だあったこと。ちなみに、スイス勢がこれを発表したのは1970年4月のバーゼルフェアでのことだった。二つ目は1970年代、ハミルトンは深刻な経営危機に陥っていたこと。経済の停滞や軍需品の需要の落ち込み、そして腕時計事業の競争激化のせいで、この年のハミルトンの売り上げは7400万ドルから2400万ドルも失ってしまっていた。経営陣は先進的な時計を発表することで、この悪いニュースをかき消すことができればという期待を抱いていたのだ。
ハミルトンの「宇宙の旅」腕時計
ハミルトンはパルサー以前にも、近未来的なモチーフの腕時計を作ったことがあった。パルサー発表の3年前、ハリウッドの映画監督であるスタンレー・キューブリックとSFライターのアーサー・クラークが、ペンシルベニア州ランカスターのハミルトンウォッチを訪れた。彼らは制作中のSF映画に関して助力を求めにきたのだった。ハミルトンには「2001年宇宙の旅」という映画のための腕時計とテーブルクロックの製作を依頼していた。この映画は次世代のスタイルをモチーフにしたものだった。
ハミルトンは求めに応じ、「宇宙の旅」のためのテーブルクロックを2つと腕時計をいくつか製作した。すべてハミルトンの名前とロゴ入りだ。
この経験はパルサー・タイム・コンピュータのデザインに直接的な影響を与えた。皮肉にも、パルサーが面影を受け継いだのは腕時計でなく、テーブルクロックの方だった。映画用の腕時計は伝統的な丸い文字盤に針と数字がつけられたもので、曲線的な大型の長方形ケースに入れられていた。文字盤の下には小さな円形の窓が3つあり、それぞれグリニッジ標準時、日付、月が表示されていた。
一方、テーブルクロックは継ぎ目のないタマゴ型のケースに入っており、UFOを彷彿とさせる形だった。楕円形の表面に5つの小さなスクリーンが付いており、そこから数字をライトで表示させる。全体としてまさにスペースエイジといった演出がなされており、パルサーの発想の元になった。
完成した映画は不朽の名作となった。映画の中では常にあの腕時計が宇宙飛行士の手首の上で存在感を放っていた。一方、テーブルクロックの方は編集室の床の上に置き去りにされたまま、映画の中に出てくることはなかった。
その期待は現実のものとなった。ハミルトンが行なったパルサーのマーケティングは大成功だった。1970年5月、ハミルトンは新聞の全面広告でこの腕時計の開発を発表し、さらにニューヨークのフォーシーズンズにある高級レストランにて記者会見を開いた。バーギーはトゥナイト・ショーだけでなく、ヒュー・ダウンズのトゥデイ・ショーにも出演した。メディアでの大々的な宣伝によって、この腕時計は一大ブームを巻き起こした。トゥルーブは著書の中で、これを「地球規模のセンセーション」だったと形容している。「エチオピアの皇帝やヨルダンの王、イランのシャー、ロジャー・ムーア、サミー・デイヴィスなどの著名人もすぐに注文を出した」と本には書かれている。
ハミルトンはパルサーをスペースエイジデザインの金字塔に仕立て上げた。
時計づくりという観点からも、パルサーは新しいクォーツ式アナログ腕時計より革命的なものだった。あまりにも革命的であるため、ハミルトンは記者会見でこれを腕時計と呼ばず、「腕時計型コンピュータ」だと呼んだ。パルサーはソリッドなつくりの腕時計型コンピュータで、時間を告げるプログラムが入っているのだ。動くパーツも文字盤も、針もギアもスプリングもない。巻き上げの必要もなく、壊れず、劣化もしない。定期的なメンテナンスもクリーニングも必要ない。ボタンを押すだけで、コンピュータのスクリーンに数字で時刻が表示されるのだ」。トランジスタと集積回路、クォーツクリスタル、バッテリーで動く完全にエレクトロニックな時計というコンセプトは大衆の心をつかんだ。
パルサーの「宇宙の旅」のスタイルも同様だ。パルサーのデザインは1968年の大ヒット作、「2001年宇宙の旅」に出てくる時計に着想をえて、作られたものだ。1967年に映画監督のスタンレー・キューブリックと脚本家のアーサー・クラークがランカスターのハミルトンを訪れた。その目的は21世紀を舞台にした映画のための小道具の製作を依頼することだった(上記のサイドバーを参照)。
ハミルトンはマーケティングでこの腕時計と宇宙をゆるく結びつけた。当時は月面着陸という人類史上最も偉大なヘッドラインが紙面を飾ってから、わずか10ヵ月後のことだった。ハミルトンの宣伝ではパルサーが音を立てないことを強調していた。機械式の腕時計やクォーツ式のアナログ腕時計のようにチクタク鳴らない。ハミルトン曰く、パルサーは「宇宙の静けさ」を放っていた。
宇宙との結びつきとして一番分かりやすいのがその名前だ。バーギーは天文学雑誌でパルサー(脈動変光星)についての記事を読んだ後、この名前を思いついた。バーギーはとても正確に同じ間隔で放射線を発するパルサーと、エネルギーを瞬間的に使ってとても正確に時間を伝えるこの腕時計との間につながりを見い出した。
待望の時計
ハミルトンが一般市場でパルサーを販売し始めるまでには2年もかかった。1972年4月、ウォール・ストリート・ジャーナルの全面広告にて、この腕時計型コンピュータの発売が発表された。広告にはこんなキャッチコピーがつけられていた。「全く新しい方法で時間を確認。お求め安い2100ドルにて」。トゥルーブは言う。「これはゴールドのロレックスよりも150ドル高い値段でした」
人々はこの時計を待望していたようだ。発売に先んじ、400個のパルサーが生産された。これらの時計はティファニーやニーマン・マーカスなどの限られた高級店でのみ取り扱われ、3日と経たずに売り切れとなった。パルサーブームの到来である。
ティファニーに残っていた
最後のパルサーを買った客は、
店から出るまでの間に他の人から2回も
それを買い取りたいとの申し出を受けたそうだ。
オリジナルのゴールドウォッチに続き、ハミルトンは間もなく金張りモデルを1275ドルで、スティールケースのモデルを275ドルで発売した。それでも需要に応えることはできなかった。ハミルトンの歴史をまとめた本『Time For America: Hamilton Watch 1892-1992(Sutter House, 1992)』の著者であるドン・サウエルスは、パルサーブームを次のような話振り返っている。「1972年のクリスマスの少し前、ニューヨークのティファニーに残っていた最後のパルサーを買った客がいた。その客は店を出る前に他の人から2回もそれを買い取りたいとの申し出を受けたそうだ。また、ユタ州のウォレス・ベネット上院議員は上院メンバーの誰よりも先にパルサーを手に入れようとしたが、委員会の会議でマイク・マンスフィールド上院議員が既に手に入れたことを知ってがっかりしたという逸話もある。さらにニクソン大統領の娘の一人が、ティファニーで父のクリスマスプレゼントにとパルサーを買っていったという噂もあった」。ちなみにこの噂は本当だった。
「イランのシャーも愛用していた」サウエルスは続けてこう書いている。「彼は新しいモデルが登場するたび、すべてに予約注文を入れていた」。エチオピア皇帝であるハイレ・セラシエはパルサーに感激し、優良企業認定書をハミルトンに送った。サミー・デイヴィスは自分のパルサーが盗まれてしまい、意気消沈したという。「ラスベガスのサンダーバード・ジュエラーズという宝石店がハミルトンに電話をかけ、急ぎの注文を出した。」デイヴィス氏は新しいパルサーを「すぐに」欲しがっていたのだ。
1972年の後半、ハミルトンはパルサー事業を整理し、タイム・コンピューターという子会社を作って自社の時計部門と切り離した。子会社の社長を務めるのはバーギーだ。サウエルスはこう書いている。1973年の初め、「バーギーは注文が殺到しており、生産が追いつかないと報告している。生産量は週1000ユニットに引き上げられたが、それでも4月中ずっと売り切れ状態だった…。パルサーはぶっちぎりのベストセラーだった。年末を迎えるまでに、ハミルトンは月に1万ユニット生産するようになったが、小売店の人々はそれでも『もっと納品してくれ』と懇願していた」
電子機器メーカーの参入: 1974-75年
パルサーが巻き起こした半導体時計の成功は当然、アメリカの電子機器メーカーの関心を引いた。彼らにとって、パルサーと競合できるような値段で腕時計を作るのは容易いことだった。そこから起きた出来事は、1985年のハーバードビジネススクールのグローバル腕時計市場に関する論文の中でも紹介されている。「1974年、消費者のデジタルウォッチへの需要が高まりつつあった。同年、ナショナル・セミコンダクターはLEDウォッチを125ドルで売り出すと発表した。これはそれまでの価格の約半額だった。それからまもなく、ライトロニクスやテキサス・インスツルメンツ、フェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメントなどの集積回路メーカーが次々と自社製のLEDウォッチの販売を開始していった。それぞれの会社は完全自動化された製造工場にて、大量生産していた」
このような動きはすぐに大きな流れへと拡大し、コモドール、インテルのマイクロン、ヒューレット・パッカード、ヒューズ・エアクラフトなどのアメリカの大手半導体メーカーをも巻き込んでいった。トゥルーブの見積もりによると、30社にものぼるアメリカのメーカーが自社製のLEDウォッチやLCDウォッチを生産していたようだ。さらに他にも50社以上のアメリカ企業が他者から部品を買ってデジタルウォッチを生産していたそうだ。詳しくは下記のサイドバーをご覧いただきたい。つまり、デジタルウォッチビジネスには参入障壁が存在しなかったのだ。「時計づくりの経験が全くない企業ばかりだった」。トゥルーブはこう書いている。「この種の製品に時計づくりのノウハウは必要なかったのだ。時間を設定するためのボタン以外、機械的に動くパーツはなかったのだから」
新規参入企業のほぼすべてがLEDを採用していた。1973年に登場したLCDディスプレイには読みづらいという問題があった。当時のLCDは使用開始後の数ヵ月で曇ってきてしまうものだった。市場への大量参入を受け、LEDウォッチの価格は下がり、需要は上がっていった。その結果、LEDブームが起こることとなった。1974年の時点での価格帯は、100ドルからパルサーの275ドルまでの値幅があった。バーギーは価格がもっと下がることを予想していたようだ。その年、彼は1978年までに価格が20ドルにまで下がるだろうと予想していた。一方で、パルサーはデジタルウォッチの王者としての地位を保ち続けた。
1974年10月、パルサーの影響力を裏付けるようなある出来事が起きた。ジェラルド・フォード大統領はパルサーの大ファンで、彼が副大統領時代、パルサーの所有者だったフィリップ・ブーヒェン上級顧問からこの時計を贈呈されたという。「ワシントンポストの写真ではフォード大統領の腕のパルサーが目をひいた」。1997年にアメリカのタイムズ紙上で、ノーマ・ブキャナンが書いたジョン・バーギーの紹介記事にはこう書かれている。「この写真は下院の司法委員会での司法裁判にて、大統領がニクソン大統領の恩赦についての証言を行なっている場面だ。この年のクリスマスシーズン、宝石店ではこの写真がウィンドウに飾られた」
1974年、パルサーの売り上げは二倍の1700万ドルにまで跳ね上がり、利益は二倍以上に上がった。この年、パルサーとハミルトンの親会社であるHMWインダストリーズはLEDウォッチにすべてを賭ける決断をした。従来の時腕計製造部門であるハミルトンウォッチをスイスのSSIHに売却したのだ。SSIHは現在のスウォッチグループの前身であり、今日、ハミルトンはスウォッチグループ傘下の19の腕時計ブランドのうちの一つとして残っている。
LEDブーム: 1975年
1975年の時点で、アメリカで一番ホットな腕時計はLEDウォッチだった。腕時計企業が新モデルを発表するたびに価格は下がっていった。ついには値段が100ドルにまで落ちて、消費者の購買意欲はますます刺激されていった。
今となっては、あの頃のアメリカ腕時計市場の活気を想像するのは難しい。セイコーは世界一の腕時計企業になるための足がかりとして、アメリカ市場に積極的に進出していた。これは1978年に現実のものとなるが、当時そのセイコーの快進撃を食い止めていたのがLEDウォッチだった。セイコーはLEDウォッチを作らなかった。セイコーの研究開発部門は技術的な観点からLEDを不安定な技術とみなし、LCD技術に重きを置いていた。LEDウォッチを避けるという選択肢は結果的に正解だった。しかし、あの時点では常軌を逸した判断とされて、セイコーのアメリカ事業部にパニックを起こした。セイコーがアメリカに持つ15の代理店の内の一つで、タルサにあるノーヴェル・マーカムのジャック・ノーヴェルは後日、私に当時の状況をこう伝えてくれた。「LEDウォッチが一世を風靡したとき、代理店たちはLEDウォッチを作ってくれと懇願してきたのです。モリヤ(セイコーU.S.の伝説的なボスとして知られるヒデアキ・モリヤ)にはこう言ったのです。『やらなきゃダメだ。市場が求めているのだから』と。でも彼の返事は『いいえ、これはパスします』というもので、実際にLEDウォッチを作ることはありませんでした」
ある宝石店はパテック フィリップの
セールスマン、ハンク・エデルマンにこう言った。
「LEDウォッチを作らないというのなら、
リストラの準備はもうできたね」
「1974年から1975年の間、LEDウォッチのせいで私の売上は落ちてしまいました」。セイコーのプライベートブランド部門の責任者であるミルトン・パターマンは言う。彼の当時の仕事は百貨店に腕時計を売ることだった。セイコーに入社したばかりで、いつクビになるかとビクビクしていたという。LEDブームは次第に収まり、百貨店は彼にクォーツ式のアナログ時計を注文するようになった。
LEDウォッチブームの影響を受けたのは中堅ブランドだけではなかった。ハンク・エルダーマンは当時、パテック フィリップでセールスマンをしていた。彼は今、パテックのアメリカの完全子会社であるヘンリー・スターン・ウォッチ・エージェンシーの会長を務めている。彼はLEDウォッチを求める顧客の声や、パテックとしてはLEDウォッチを作る予定はないと伝えたときの顧客の落胆ぶりを鮮明に覚えている。「顧客の半数は私に『LEDウォッチを作らないというのなら、リストラの準備はもうできたね』と話ました」
タイメックスもLEDウォッチを作らなかった。その代わり、85ドルのLCDウォッチを1974年に発売した。この時計は大失敗に終わった。キャサリーン・マクダーモットはその著作『Timex: A Company and its Community: 1854-1998』にて、タイメックスの副社長であったフレッド・ネルソンが顧客に言ったこんな言葉を紹介している。1975年は「時計業界の歴史の中でも最も競争が激しい年だった」
1975年のクリスマスの時期、ジェラルド・フォードが再びパルサーをニュースの話題に上げることになった。大統領はクリスマスに何が欲しいかとホワイトハウス付きの記者に聞かれ、ゴールドの計算機が付いた新しいパルサーが欲しいと答えたのだ。妻であるベティー・フォードは記者から夫の願いとパルサーの値段が3950ドルであることを耳にしたが、彼女は丁寧にその願いを退けた。
1975年10月、ビジネスウィークに掲載された
カバーストーリーのヘッドラインは、
「デジタルウォッチ:
時計づくりを再びアメリカに」だった。
1975年のパルサーの利益はうなぎのぼりで、15万台の腕時計を販売し、売り上げが2500万ドルと47%もアップした。プッシュボタン式腕時計のブームは次のことからもうかがえる。ヒューズ・エアクラフトはLEDモジュールを従来の腕時計メーカーと電子式腕時計メーカーの両方に提供していた。彼らがこの市場に参入したのは1973年のことだが、1975年の終わりには月に10万個ものLEDモジュールを生産していた。カリフォルニア州ニューポートビーチの時計工場では500人もの従業員が働くようになっていた。
ビジネスウィークはこのときの熱気をうまく捉え、1975年10月27日のカバーストーリーでこんなヘッドラインを出している。「デジタルウォッチ:時計づくりを再びアメリカに」
ビジネスウィークによると、当時のアメリカでは77社ものデジタルウォッチブランドが存在していた。そのほとんどがアメリカ産のLEDウォッチブランドだった。アメリカはクォーツ革命で世界をリードしていたのだ。テキサス・インスツルメンツはスイスのエボーシュSA(現、ETA)にLCDモジュールを提供していた。トゥルーブのリポートによると、オメガはオメガ・タイム・コンピュータに使用するため、1972年から1974年にかけてパルサーから3万個のLEDモジュールを購入した。
さらにはパルサーを腕に着けた自由の女神が描かれた風刺画まで登場した。アメリカに時計づくりが戻ってきたのだ。少なくとも、当時はそう見えた。
終焉 1976-77年
問題の兆しが最初に見られたのは1976年の初めだった。デジタル時計市場の行く先は1月にラスベガスで行われたコンシューマー・エレクトロニクス・ショーで垣間見ることができた。「このショーがシアーズやモントゴメリーワード、JCペニーなどの一般向け小売業者で埋め尽くされたのはこれが初めてだった」。ブキャナンはバーギーの紹介記事にてこう書いている。「デジタルウォッチは上流向けから大衆向け商品への変化という不可逆的な流れに逆らえなかった。立派なステータスシンボルだったものが、特徴のないありふれた商品へと変わってしまった。また、この時点ではまだLEDが優っていたものの、LCD腕時計も競争力を増してきていた」
終わりは突然やってきた。LEDブームは1975年に起こり、1976年には過剰供給となり、1977年に終焉を迎えた。
あの頃の思い出:1970年代のアメリカのデジタルウォッチメーカー
スイス人作家のルシアン・トゥルーブがギュンター・ラムとピーター・ヴェンツィヒと共著した著書、「Electrifying the Wristwatch」には、1970年代に主にLEDウォッチを製造した数々のアメリカ企業をまとめた貴重なリストが載せられている。
この本にはLEDまたはLCDモジュールを生産していた23社のアメリカ企業のリストがまとめられている。特定の世代の方なら、これらの名前がピンとくるかもしれない。時計メーカーとしてでなくとも、コンピュータや計算機、カミソリのメーカーとしてなら知っているかもしれない。このリストには次の企業が載せられている。アメリカン・マイクロシステムズ、ボウマー、コモドール、フェアチャイルド・セミコンダクター、フロンティア、ヒューレット・パッカード、ヒューズ・エアクラフト、インテグレイテッド・ディスプレイ・システムズ、マイクロマ(インテルの部門)、モトローラ、ナショナル・セミコンダクター、ネス・タイム、オプテル、パルサー、ラーガン・セミコンダクターズ、シリコニクス、サンクラックス、テキサス・インスツルメンツ、タイメックス、ウーラノス。
さらにLEDやLCDを他社から買って、自社製のデジタルウォッチを生産していた36社のアメリカ企業のリストも載せられている。リストには次の企業がある。アドバンス、アルコル、アーミトロン、アーネックス、ベンラス、ブローバ、クロネックス、コリンズ、コンコルド、コロネックス、クロトン・タイム、データタイム、デュラタイム、エルジン、ジレット、ヘルブロス、イノベーティブ・タイム、ジュピター・タイム、マジェスティ、マルセル、マーキュリー・タイム、マイクロソニック・デジタル、クアンタム、サターン、サヴァント、センサー、スピーデル、スタンフォード・サイエンティフィック、タイムバンド、ユニトロン、ウォルサム、ウォーター・ウォッチ、ウェストクロックス、ウィンダート、ウィットナー。
トゥルーブはこのリストが「完全でないことは確か」だと書いている。
元凶となるのはテキサス・インスツルメンツ(TI)だった。TIは腕時計事業での大きな野望を抱いていた。デジタルウォッチの登場によって、タイメックスの“大衆向け腕時計の王者”という地位を奪うチャンスが出てきたのだ。1970年代、タイメックスの腕時計のほとんどはまだピンレバーウォッチだったが、過激な値下げによって競合相手を排除することによって、世界でもトップの売上を誇る腕時計企業となっていた。テキサス・インスツルメンツの戦略はタイメックスを真似たものだった。
1976年、驚くべきことにTIはLEDウォッチの価格を19.95ドルにまで下げた。バーギーが悲観的に予想した年の2年も前に、LEDウォッチの価格が20ドルを割ったのだ。翌年、TIは再びLEDウォッチを値下げし、9.95ドルにまで値段を落とした。これほどの低価格で販売できたのは、規模の経済が働いてデジタルモジュールのコストを大幅に下げることができたからである。「1973年から1980年の間に、デジタルモジュール一式の値段は300ドルをはるかに超えるところから、3ドル以下にまで落ちてしまった」。トゥルーブの本にはそう書かれている。
TIの値下げはLEDウォッチブームの終わりを告げる鐘となった。アメリカのLEDウォッチメーカーであったボウマーとネス・タイムの2社は1976年に倒産した。この後も、こういった例が続出していく。一番インパクトが大きかったのはパルサーだ。1976年、パルサーの売り上げは14%落ち、2160万ドルとなった。パルサーの値段が249ドルを割ることはなかったものの、1977年の前半には売り上げが1350万ドルから590万ドルも落ちてしまった。高級LEDウォッチの市場は消滅してしまったのだ。この年、世界中で売れたデジタルウォッチの数は4200万個だったが、パルサーの売上はその内の1万個だけだった。業績改善のメドが立たないまま、HMWは1977年7月にあの画期的だったデジタルウォッチ事業から手を引くことになり、フィラデルフィアの時計宝石ディストリビューターであるラプソディ社に名称を売却した。
ヒューズやその他の多くのメーカーも1978年にデジタルウォッチ市場から撤退することになった。ビジネスウィークは1978年6月5日、腕時計についての新しいカバーストーリーの中でこの現象をこう説明した。「デジタルウォッチ分野はLEDウォッチで起きた悲劇により、1977年初めに崩壊してしまった。消費者の選好がLCDに移り、LEDメーカーは金のかかる在庫を抱えてしまうことになったのだ」
LCDがデジタルウォッチ市場を引き継ぐこととなったが、今度はLCDの価格も大幅に低下していった。1978年、コモドールは15種類のLCDウォッチを発売した。価格は7.95ドルから19.95までのものがあった。これらの腕時計は百貨店やスーパーマーケット、ドラッグストア、電気屋などでブリスターパックに入れた状態で売られていた。
1980年の時点で腕時計事業をまだ継続していたアメリカの電子機器企業はテキサス・インスツルメンツだけだった。しかし、彼らも1981年にはさじを投げ、腕時計部門の従業員2800人を解雇することとなった。
後日談
実は、LCDのデジタルウォッチでそのまま大きな成功を収め続けたアメリカの企業が1社だけある。皮肉にもそれは従来型の腕時計メーカーであるタイメックスだ。1984年に発表されたタイメックスのトライアスロンウォッチと、1985年のアイアンマンウォッチは大ヒットとなった。
1978年、ラプソディ社はパルサーの名を使う権利をセイコーに売却した。1979年、セイコーはパルサーをクォーツのアナログ時計として再発売し、セイコーの時計より低い価格帯で売り出した。パルサーは今でもセイコーの姉妹ブランドである。
アメリカの電子機器企業は腕時計事業で火傷を負った後、より利益の見込みがあるコンピュータやビデオゲーム、スマートフォンなどに目を移すことになったが、最近になってまた腕時計に回帰しつつある。
終わりに。ジョン・バーギーはHMWからリタイアした後も、ランカスターに残った。彼は素晴らしいパルサーウォッチのコレクションを所有していた。しかし彼は時々、違う時計を着けて街に出かけたくなることがあるという。その理由を訊ねると彼はこう言った。「パルサーに何が起きたんだって、みんなが私に聞くんです。だから私はこの時計を指さしてこういうんです。『これのせいだよ! 3.79ドルで買えて、しかもちゃんと動くんだ』と」