昨年の夏、叔父のジェフが街にやってきて、古びたジップロックをテーブルにドンと置いた。「おまえの父さんの遺品を少し持ってきた」と彼は言った。袋の上にそっと手をかざし、「おばさんから預かっていたんだ」と。父が戦死してからの30年間、こうした袋や箱を何度も受け取ってきた。時が経つにつれ、ひび割れたラバーメイド製のコンテナは屋根裏部屋の梁に届くほど積み重なり、その古びた蓋の上には5mmほどのほこりが積もっていた。それでも父の遺品が入った箱を開けるたび、胸が高鳴った。新しい謎や思い出、そして奇妙な品々がいつもそこに詰まっていたからだ。箱のなかから剣を引き抜いたことだって、1度や2度じゃない。
けれども時計だけは、1度も出てこなかった。
平凡な物書きで、しかも筋金入りの時計好きである自分にとって、“父の古い時計”がないという事実はいつだって心に刺さっていた。あれほど魅力的で語り継がれる物語はない。もはや時計の世界における物語の礎と言ってもいい。たいていこの手の話は、インタビュー冒頭で緊張を和らげるために投げかける定番の質問から始まる。“それで、時計に興味を持ったきっかけは?”と。
するとお決まりのように“父がフィリピンで潜水士をしていてね…”と続き、使い込まれたRef.1680 サブマリーナーをテーブルの上にそっと置く。そこから物語は一気に走り出す。そういうものだ。たしかに父の時計という語りには、心が少し温かくなるようなところもあった。しかしそれ以上に感じるのは、燃える焚き木を手放しそびれたときのような、鋭く突き刺さる痛みだった。
"父さんとどんな時間を過ごしたんだい?"
(写真下段)父であるジム・キナード(Jim Kinard)は部隊随一の射撃の腕を誇る隊員であり、MP5(短機関銃)の公認インストラクターでもあった。そして息子を背中に乗せて宙返りする遊びを欠かさない父親だった。
少なくともあの瞬間まではそうだった。叔父のジェフがパンパンにふくらんだジップロックをテーブルにドサッと置いたあのときまでは。しばらくその袋をじっと見つめたあと、まるで昔からいる飼い犬を何気なく撫るように中身をなんとなく指でいじった。叔父は従兄弟たちや孫の話をしていて、叔母はいつものように温かい笑顔を見せていた。ひと口コーヒーを飲んだそのとき、さまよっていた指先がくしゃくしゃのポリエチレン越しに何かに触れて動きを止めた。どきりと胸が高鳴る。そう、袋の端にそれはあった…。金色の腕時計だ。私は急いで家に帰り、作業台の中央にランプをかざした。まるでインディ・ジョーンズが古代の遺物を古びた布のなかから慎重に取り出すように、そのジップロックから何十年分もの期待をそっと解放した。
それはそこにあった。金色に光る懐かしさの塊として、じっと佇んでいた。父の時計がついに…。そのセイコーは汚れひとつなく、息を呑むほどキレイだった。完璧なゴールドケースの表面には、端正に面取りされたエッジに沿って暗いラインが走り、落ち着いたコントラストを生んでいた。熱を帯びたランプの下、ラグの内側に傷がつかないよう細心の注意を払いながら、私は修道士のような慎ましさでバネ棒を1本ずつ外していった。ねじ込み式の裏蓋は、いちばん小さな精密ドライバーでそっとこじると、ぐっと力を逃すようにわずかに動いて外れた。新しいコイン電池を古いものと交換すると、セイコーのムーブメントが息を吹き返すように軽やかに動き始めた。
夏の終わりのあいだ、セイコーはまるで手首に吸いつくように寄り添っていた。カレンダーのページが落ち葉のように舞い散るなかでも、その時計は変わらずしっかりと手首に留まり続けた。外したのはシャワーを浴びるときと、息子を風呂に入れるときくらい。そんなときでさえ、クォーツストーンの洗面台の上にちょこんと置かれ、こちらに向かって心地よく時を刻んでいた。父が実際に身に着けていたものを自分が今こうして着けているという事実が、たまらなくうれしかった。なにしろ、剣を引きずって歩くのとはわけが違う。父を亡くしたのは私が5歳のとき。それ以来、記憶のなかに残っている父の姿はほんのわずかしかないが、この時計はそんな父をいつでも身近に感じられる存在だった。手元に残された、たしかな何か。妻とふたりで出かけた貴重な夜、妻は身なりを整えるためにレストランのテーブルから立ち上がり、私はシャツの袖をまくってセイコーを見つめていた。
私は静かに、時計に問いかけた。「父さんとどんな時間を過ごしたんだい?」
やがて冬が近づき、シアトルの空がしっとりとした灰色になったころでもその時計は何ひとつ秘密を明かしてはくれなかった。時計を手にできたことはもちろんうれしかったが、その沈黙がじわじわと私を悩ませた。ある週末の夜、ビールの栓を抜き、ぐらつくアルミ製のはしごをのぼって屋根裏へと向かった。雨が屋根を激しく打ちつける音を聞きながら私は身をかがめ、古びたラバーメイド製の箱をひとつひとつ開けていった。なかからは、何百枚もの古いコダックの写真。そこには、幼いころの喜びにあふれた誕生日、新しい自転車、たくさんの笑顔があった。父と飼い犬であり、K-9(警察犬)パートナーだったロウディの姿も。しかし、あの金色のセイコーの手がかりはどこにも見当たらなかった。その時計はたしかに父のものだったが、父の時計ではなかったのだ。まるで父の人生のなかでも、あとづけの存在だったかのように思えた。
くつろぐこと(できれば冷えた1杯を片手に)は、昔も今もキナード家の伝統的な過ごし方だ。
私はしばらく黙って座り、ビールをひと口すすりながら屋根を打つ断続的な雨音に耳を傾けていた。それからすべての箱の蓋を閉め、屋根裏の狭い隅、板張りの床と傾斜した屋根がぶつかるあたりへと箱をそっと押し戻した。長年、父の時計の物語が自分のなかでひとつの期待を育てていた。“いつか父親の時計を見つけたら、すべてがピタリと噛み合う気がする”、そんなふうに思っていた。何かを取り戻せると信じていたのだ。30年という長い年月よりも父を近くに感じられる気がして。だがそこにあったのは、結局いつもと同じ鈍い痛みだった。人はよく“痛みに慣れる”と言うけれど、そんなことはない。ただ遠くなるだけだ。“仕方ないさ(Shit happens)”、それが父の口癖のひとつだったと聞いたことがある。そしてこの言葉のおかげで、人生の多くのことを受け流すことができてきた。“まあ結局のところ、それに尽きるよな。父さん”。私はひとり、苦笑いしながらそうつぶやいた。
私は屋根裏から降りると、セイコーを机の引き出しの奥へそっとしまった。ワイシャツに袖をとおさなければならないような場面がたまにあると、その金色の時計を引っぱり出してくる。しかしそんな機会はもうほとんどない。今の私は在宅勤務をしながら、幼い息子の父親でもある。そしてたいていはその両方を同時にこなしている。もはやシャツに襟なんてついておらず、着ているのは首まわりに小さな穴が空いたTシャツで、おまけにカッテージチーズのしみがついているようなやつだ。父親であることは、そのような実用主義的な教訓をいくつも教えてくれる。私は息子の父親でありたいと願い、そしてそれを、これまで自分がやってきたどんなことよりもうまくやり遂げたいと思っている。ただそれだけなのだ。
だからたいていは、手間いらずの真っ黒なG-SHOCKで十分だ。風呂のときに外す必要もないし、カッテージチーズの汚れもさっと拭き取れる。私にとって父の日は、父の時計というものには、“時計”として以上の本質的な価値があるとは限らない、ということを思い出すのにちょうどいい日だ。それがパテックでも、ロレックスでも、タイメックスでも、“父の時計”が意味するのは、結局のところ“共有した記憶”なのだ。それを与えられるのは父親という存在だけである。
それを教えてくれたのが、あの古いセイコーだった。
(写真右)父と“ニンジ”、うちの黒いラブラドール。(写真左)この古いカシオはいまだに探し続けている。
いまでは、廊下の鏡にあの時計の金色のきらめきがふと映るたびに思い出す(たいがい、笑いながら走り回る息子を追いかけている最中だけれど)。息子と過ごせる時間がどれだけ残されているにせよ、その1秒1秒には確かな意味があるということを。
それを教えてくれたのが父だった。
息子のために願うのはただひとつ、よろこびに満ちた人生だ。そして、私に残された時間がどれほどであれ、その人生を築く責任は“今”の私にある。心に残るつながりをつくり、愛と思いやり、やさしさを伝えていくこと。それが私の役目だと思う。もしその務めをきちんと果たせたのなら、いつか私がこのセイコーを自分の手首から外し息子の手首に巻く。そのとき、それはただの“父が身に着けていた時計”ではなく、本物の“父の時計”になっているはずだ。
すべての父に、ハッピー・ファーザーズ・デイ!
Photos by Mark Kauzlarich
※編注;父の日は過ぎてしまっていますが、とても興味深い記事のため、翻訳し公開しました。
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