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なぜ時計マニアはしばしばクルマが好きなのか(逆も然り)

時計とクルマ、ふたつの嗜好のあいだにある複雑な関係を紐解き、そういう趣味にはまり込むことが、コミュニティを求める心や自己の探求とそう遠くないところにあることを明らかにする。

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熱々のオイルが肘を伝ったとき、私は“多分腕時計をしていないほうがいいだろうな”と思った。熱いオイルが細かい黒い流れとなって、たらいに流れるまでドレンプラグを緩めながら、“150mの防水性ね”とこぼした。

 「そうでなきゃ困るな」

the author wearing a seiko

筆者とセイコー 7002、そして選りすぐりのクルマたち。

 その後、リューズとリューズガードの隙間に入り込んだ届きにくい汚れを搔き出すべく、古くなった歯ブラシを使ってセイコー 7002をシンクでこすった。“おもしろいものだ”と私は思った。時計とクルマ、それは陳腐であることを超越して頻繁に想起される組み合わせである。陳腐すぎて呆れてもらってもかまわないが、私の経験では、深刻な時計マニアのほとんどはクルマに首ったけである。HODINKEEのバーチャルな(そして実際の)記事の数々がそれを証明している。クルマにまつわる記事や、コンクール会場/耐久レースのパドックでは皆こんな時計をつけていたという類のWatch Spotting記事が豊富に掲載されている。ポルシェ、フォード、ランドローバー、フェラーリ…。どんなクルマにも、時計にまつわるストーリーがある。時計とクルマというふたつの存在は、興味深い形で魂を共有しているらしい。

 もちろん、この結び付きが便利なマーケティングツールであることは周知の事実だ。適切な時計に適切なバッジをつければ、お金を満載した列車があとに続くというわけだ。しかし企業の収益が関わらないような、純粋なつながりがあることも我々は骨身にしみて分かっている。地元のスポーツカーのコースで、ヴィンテージクロノグラフのブレスレットを手首でジャラつかせずにコーヒーの入ったマグカップを掲げるなんてことはできない…一体なぜだろうか?

a rolex on the wrist of a driver

ヴィンテージポルシェ550のハンドルを握るType 7誌のテッド・グシュー(Ted Gushue)氏の腕元には1665 シードゥエラーが輝いている。

 たいていの場合、私はいちゃもんをつけることには意味がないと思っている。だがオイルまみれのセイコーを手に、ふと考え込んでしまった。クルマや時計をいじくり回したいという私の衝動は、脳幹が処理できる以上の高次の機能を伴わないのではないか。あるレベルでは、私は単に郵便屋さんを追いかける犬のようなものなのだろう。DNAのゆがんだ部分に突き動かされているに過ぎないのではないか。

 ストラップとラグのあいだをこすりながら、“いや、それは違う”と私はつぶやいた。

 皮肉屋なら、そんなのは物質主義だと言うかもしれない。手のかかる高級時計が好きな人(私のような人間)は、手のかかる高級車に自然と引かれる(これも私のことだ。御明察)ものだろう。どちらもその人の趣味嗜好を示すものであり、極端に言えば圧倒的な裕福さを示すものだ。しかし机の引き出しにeBayで買った安物のG-SHOCKを詰め込み、サーキット走行会で薄汚れたオンボロのミアータを走らせるような熱狂的なファンの存在は、それでは説明がつかない。

jay leno wearing a lange

著名なカーマニア、ジェイ・レノ(Jay Leno)氏はオードレイン・ニューポート・コンクール・デレガンスでホワイトゴールドのランゲ1・タイムゾーンを着用。

 そこでもうひとつの解釈が浮かぶ。人間と機械がともに完璧を追い求める趣味のあいだには、自然な結びつきがある。“時計マニア”と“カーマニア”は、同じ山の頂きを別の道で目指しているだけなのだ。それらの道はしばしば合流する。古く雨漏りのするBMWであれ、カーボンのレーシングバイクであれ、手巻きのクロノグラフであれ、ヴィンテージのレバー式エスプレッソマシーンであれ、我々愛好家の魂のなかには深い共用井戸のようなものがあって、愛好の源となっているに違いない。

遠く離れた土地を飛ぶブリキ缶のなかで、私は友人を見つけた。

 ただし、クルマと時計はほかのものよりも互いにとても近い関係にある。ひとつ目の理由は、共通言語があることだ。カム、コグ、ギア、スプリング、スプライン、スクリュー、ローター、ホイール、バレル、ガスケット、ラグ、オートマチック。これらはすべて、道路と手首のお供に共通する語彙だ。ふたつ目は、クルマと時計はどちらもほかのものとは違って我々の生活のなかに常に存在し、(ほとんどの場合は)思い出を共有できることだ。だがショップタオルで、くだんの古いセイコーを拭いていると、私の携帯電話が短く鳴った。おそらくRedditで私がフォローしているクルマか時計のトピックで誰かがリプライした通知だろう。そこでふと思った。

 我々がこれらの無生物を愛する本当の理由は、デジタルであれ対面であれ、人と人とのつながりにある。時計やクルマが我々の生活に活気を与えてくれることを愛しているのだ。最近、モデナからフランクフルトへのフライトで、私はチューダー ペラゴス FXD クロノ “サイクリング”エディションを腕に巻いた若い男性の隣に座った。前頭葉が興奮を抑える前に、私は思わずこう言った。“その時計いいね!” 彼はチューダーのプロサイクリングチームで技師として働いているということだった。その時計はチームの支給品で、彼はそれを誇らしげに身につけていた。我々は火のついたEVのように意気投合し、1時間のフライトのあいだずっと話を交わした。遠く離れた土地を飛ぶブリキ缶のなかで、私は友人を見つけた。

tudor fxd cycling on wrist

 これはなんという素晴らしい贈り物なのだろう。教会、酒場、夕食会など、昔からの共同体が姿を消し続け、政治が家族を分断するにつれ、生活のなかに本物のコミュニティを見出すことは難しくなる一方だ。そのため、自分自身を世界のなかで位置づけることが難しくなっている。クルマや時計のような趣味は、孤立という毒の解毒剤となり、我々の存在を肯定してくれるのだ。

 バーでヴィンテージのスピードマスターをつけこなしている男性を、あるいは2ストロークのサーブを運転している男性をご覧いただきたい。それは招待状であり、秘密の握手であり、共通の喜びであなたの熱意に応えるという約束なのだ。クルマや時計を愛する理由には泥沼にはまるような側面もある。ただそれ以上に大事なのは、それがなければ我々はコミュニティを失ってしまうということだ。時計マニアのコミュニティは我々に大切な場を提供してくれる。それは世のなかの辛酸から我々を隔離してくれる場所である。そこではNATOストラップのナイロンの織り目について悩むことは社会的障害ではなく、むしろ悟りへの道だと考えられる場所なのだ。

watches on a table

 我々の最も基本的な欲求が、呼吸すること、飲むこと、食べることだとすれば、偏見なしにありのままの自分を見てもらいたいというのは、最も人間的な欲求だ。そう考えるとクルマや時計は、人と人とのつながりを担保するという意味において、重要でないもののなかで特別な意味を持つ存在といえる。口実が何であれ、それがチクタクするものだろうと運転するものだろうと、我々の情熱には追求する価値がある。そして恐れや見栄なしに、何度でも分かち合う価値がある。我々の魂が切望するコミュニティを生み出すのは、こうした愛するものたちなのだから。もしそれでも見つからないなら、油まみれの肘がきっと道を示してくれるだろう。