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Photos by Alex Pesantes
Watch of the Weekでは、HODINKEEのスタッフや友人から、時計にまつわる個人的なエピソードをインタビューしている。今日の記事の著者は、アトランタを拠点に活動するHODINKEEの時計職人、チャールズ・エムズリー(Charles Emslie)氏だ。彼の学校での時計にまつわるエピソードをご紹介する。
私が時計学校に入ったのは、21歳になってすぐのことだった。自宅のあるコロラド州からアメリカ大陸を半周したところで、まったく未知の世界での生活していた。兄の下で見習い宝石職人として働いていた私は、家族も驚くような道を歩むことになった。なんせ、時計学校へ行く前に持っていた時計は、高校時代に取引でもらったスカーゲンだけだったからだ。
私は、ペンシルベニア州のリティッツ・ウォッチ・テクニカム(Lititz Watch Technicum)に通った。選択肢のなかで最も集中的で難しい時計学校のひとつだ。2年間、朝早くから夜遅くまで毎日新たなレッスンがあり、前日までに身につけた技術をさらに発展させ続けた。2009年8月、私は学校を卒業した。しかし私は、時計のすべてを知っているようで、まだどこか十分ではないと感じていた。
2年間のコースで取り組んだ主要なプロジェクトのひとつが、いわゆる“スクールウォッチ”と呼ばれる自分たちの時計の製作だ。私のクラスでは、大振りで由緒あるユニタスの6497と、小振りだが侮れない、プゾーの7001のふたつのムーブメントからどちらかを選択することになっていた。私は6497を自身のバディにすることにした。サイズが大きいので、より簡単に取り組むことができると思ったからだ。
ベースとなるムーブメントは、エボーシュの状態で渡され、3つのブリッジを使用した金メッキ仕上げだ。ひとつのブリッジは香箱と2番車、もうひとつは3番車、4番車、ガンギ車、そして最後はテンプのためのものだ。私たちに与えられた課題は、1年がかりの大仕事であった。まったく新しいブリッジレイアウトを設計し(講師の承認が必要)、手持ちの工具と設備で製作し、その過程で新しい巻き真を製作することである。それが最低限。もし、その学生に能力があると判断されれば、追加の設計と製作を行うことも可能であった。
検討の結果、スリークォータープレート方式を採用した、ひとつのブリッジの下に駆動輪列全体を配置し、バランス用のブリッジを別に設けるというシンプルな設計にこだわった。巻き上げツメは、ひと目でそれとわかる6497をベースにしたものから、私の名前の由来である曾祖父が所有していた1920年代のE.ハワード社の懐中時計にインスパイアされたものに変更した。
1年の猶予を、私はあっという間に使い果たしてしまった。熱処理で壊れたり、角穴車と形状が合わなかったりして、何度もツメを作り直さなければならなかったこと。ブリッジの振動の問題で仕上げに何度も通ったこと。巻き真は焼き入れの際に曲がったため、作り直さなければならなかったこと。ネジの平面研磨は、指が疲れるほど時間がかかる作業であったこと。このように、失敗しては修正しという繰り返しが、この時計のストーリーを作っていった。
マイクロメカニックの分野は、私の、時計教育において最もチャレンジングで楽しい分野のひとつであった。私たちは、ムーブメントのブリッジの最終的な設計を行うために、極めて基本的なCADシステム以上のコンピュータを使用しなかった。すべての作業は、手動旋盤やヤスリ、彫刻刀、そして、説明するのさえも楽しい“ウォブル・スティック”と呼ばれるセンタリング方法を使って行われた。
時計が完成すると、その評価が行われた。出来栄えと最終製品の計時が確認されるのだ。
この時計が完璧でないことは間違いない。ラグの裏側に傷があるが、これはムーブメントをケースに装着する際に私が犯したミスによるものだ。ブリッジの表面仕上げに見られる軽い傷は、私の完璧でないピンセット操作によるもの。ネジの平面研磨は、望ましい“ブラックポリッシュ”のレベルには達していない。ツメやガンギ車のシボは、金属の色合いに若干のばらつきがある。地板のペルラージュは、一定ではあるものの、完全な間隔ではない。クリック感は、私の計測と少しずれていた。そして、巻き真にはまだ少しぐらつきがある。かろうじて計時は、完璧ではないものの、規定の偏差の範囲に収まっていた。
ありがたいことに、このような失敗や不足があったにもかかわらず、時計と私は合格をもらった。
私のクラスでは、2年次にスクールウォッチにメッキを施すチャンスがあり、私はそのチャンスに飛びついた。私は、地板とパレットブリッジを金メッキにし、それ以外はダークルテニウムで彩った。このコントラストは、テンプとスリークォーターブリッジのオープンスペースに見事にマッチしている。私の意見は偏っているかもしれないことは認めよう。
年月が経ち、キャリアを積んでいくなかで、学生時代の失敗である最初の時計を改善するチャンスはいくらでもあった。しかし、私はその選択をしなかった。私はこの時計を、卒業時の状態に近い形で維持している。もちろん、たまに整備はしているが(学生時代のオーバーホールは、プロとして数年働いたものに比べれば、一般的にいいものではないからだ)。それ以外は、軽い擦り傷があちこちにあるくらいで、ほとんど昔のままの姿をしている。
卒業以来、身につけたのはほんのひと握りで、珍しい気分の時か、人に見せたくなった時だけだ。普段はブライトリングのエアロスペースやクロノ カリストを身につけているが、会社ではいつもスクールウォッチのことを聞かれる。
この時計は、それが何であるかということだけでなく、それを手に入れるために私が必要としたものにも意味がある。 各パーツにはストーリーがあり、そのなかには私だけが知っているものも隠れている。経験からの教訓は、それを経験しなければならない人にしか意味がない。それぞれのパーツを完璧に仕上げるために費やした努力は、時計づくりの難しさを理解し、尊敬の念を抱かせるものであったと誇りを持って言える。
私はこれからもスクールウォッチを身につけ、ほかの人たちと共有したい。ほとんど無知の状態から、ほんの少し成長することができた教育や私の経験を、具体的に思い出させてくれるものだからだ。
自分の歩んできた道のりを振り返ることができるというのは、なんだか前向きな気持ちになれる。
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