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映画『クレイマー、クレイマー(原題:Kramer vs. Kramer)』 が名作であるのには理由がある。メリル・ストリープという名女優のオスカー伝説の原点となったからだ。1979年に公開されたこの作品は、映画史上最高の10年の最後を飾るものだった。この映画は、結婚生活の終焉やそれに伴う様々な出来事、そして緊迫した親権争いなどが描かれている。ダスティン・ホフマンは、仕事中毒のニューヨークの広告マン、テッド・クレイマーを演じているが、彼は仕事を一旦脇に置き、ストリープ演じる妻との間にできた息子の父親の役割を果たさなければならなくなった。彼はいつも時間に追われながら必死に生活をやりくりする。そして、彼の手首にあるものが、本当に意味深い時間を刻んでいく。
注目する理由
この映画は、基本的にアカデミー賞の主要部門を全て制覇した。作品賞、監督賞、主演男優賞(ダスティン・ホフマン)、助演女優賞(メリル・ストリープ)、そして脚色賞。 『クレイマー、クレイマー』は、“気分が良くなる”映画ではないが(むしろ“神様、お酒が飲みたい”という映画だ)、2つの理由から、極めて興味深い「時計映画」の1つとなっている。理由の1つは、この映画のプロモーションキャンペーンに関係すること、もう1つは、ある謎の時計の存在だ。
公開に向けた一連のプロモーション写真では、主役のホフマンとストリープ、そしてジャスティン・ヘンリー演じる彼らの息子が、幸せな結婚生活を送る愛すべき家族として描かれていた。これらの写真を見てもどんな映画かは分からないだろう。さらに興味深いのは、写真の中でホフマンが自身のロレックス “ペプシ”ベゼルのGMTマスターをジュビリーブレスレットで着用していることだ。これは彼が映画『マラソンマン』で着用した時計と同じものなのだ。
彼のものは、Ref.1675だった。ジュビリーブレスレットにマットダイヤル、マキシマーカー、アルミニウム製のレッドとブルーのツートンベゼルが特徴的だ。Ref.1675は、1959年から1980年までの長期にわたって生産され、ホフマンは映画の撮影現場や授賞式で着用していた。
ここで面白いことがある。この映画の中でホフマンはGMTマスターを身に着けていないのだ。ロレックスも着けていない。実は、彼が着用する時計は、何年も前から謎に包まれている。時計フォーラムに飛び込んでも(これは常に注意と護身をもって行うべきだが)、この映画やこの時計についての議論はほとんど見られない。たまたま見た人は、ブラックのクロノグラフであることが分かるだろう。インターネット上では、ポルシェデザインの時計だという意見が見られるが、実際は違う。また、古いホイヤーのRef.12ではないかとも言う人もいた(どちらでもないが、その方がほっとする)。
ちょっとした深掘りと膨大な時間、そして画面静止とスクリーンショットを駆使することにより、霧が晴れて時計が姿を現した。
メソッド・アクター(自分の経験に基づいて演技する俳優のこと)のホフマンは、フランスのル・ジュール(Le Jour)というブランドの、あまり知られていない70年代のPVDコーティングされたクロノグラフを愛用していたのだ。2つのインダイヤル、6時位置のデイト表示、そしてブレスレットのリンクを模した、いかにも70年代らしいラバーストラップが特徴だ。ホイヤーのRef.12と比べても見劣りしないのは、何を隠そう、これらはどこから見ても同じ時計だからだ。
ル・ジュールは、スイス時計の販売代理店から始まり、やがて自社の名前を冠した製品を販売するようになった。彼らの販売した2つのブランドがよく知られている。ヨーロッパではホイヤー、アメリカではイエマだ。今回の時計は、信頼に足るバルジュー 7734 クロノグラフキャリバーを搭載している。他の時計ブランドからも、同じようなブラックPVD加工やリンクを模したストラップを採用したモデルが発売されていた。前述のホイヤー、タバティップ(Tabatip)、アークトス(Arctos)、ワックマン(Wakmann)などである。正直なところ、それぞれをパッと見ただけでは、これと同じ時計を見ていると錯覚してしまうほどだ(クレイマーの時計は、ル・ジュールと同じようなワックマンである可能性もある)。
この時計を他のモデル(特にホイヤーのRef.12)と区別する一つの方法は、ダイヤル上のテキストレイアウトだ。ホイヤーと同じように、ル・ジュールのブランド名が上部に表示されているが、ホイヤーとは異なり、日付窓の上に文字が表示されている(多くの場合、クロノグラフと表示されている)。ル・ジュールのPVDクロノグラフには多くのバリエーションがあり、「14.26」と呼ばれるものがある。ル・ジュールのブランド名の下に石数が表示されているものや、クロノグラフの文字の下にそれがあるものもある。また、Jeepのロゴが刻印されているものもある(クロスプロモーションの可能性あり)。ほとんどのル・ジュール 7734 クロノグラフには、印象的な赤いクロノグラフ秒針か、マンゴーのようなカラーの秒針が付いていた。まれに、クロノグラフ秒針が白のものもあった。ホフマンの時計は、マンゴー色かホワイトのどちらかだ。
彼は映画のほとんど全てのシーンでこの時計を身に着けている。実際、彼は映画の中で7回ほど時間を確認するために見ているので、これは単なる手首の飾りではない。彼のキャラクターの本質的な一部分なのだ。
見るべきシーン
ル・ジュールの時計が主役になるシーンはいくつかあり、それらは映画の冒頭付近に出てくる(ただし、最後まで見てほしい)。
本題に入る前にネタバレをすると、映画はストリープがホフマンと息子の元を去るところから始まる。彼女が去った直後に、ジェーン・アレクサンダー演じるマーガレットという隣人がホフマンを訪ねて来る。ホフマンは、映画が始まってわずか数分(00:09:00)で、オスカーを手中に収める力強いモノローグを披露する。その間、襟のないボタンダウンの袖をまくって、黒一色のクロノグラフのストラップが先端に突き出ているのが見える(彼の手首には長すぎたようだ)。
場面は翌朝へと変わる。幼いビリー・クレイマーは、母親が出て行ったことを知らずに曇模様の壁紙の寝室で目を覚ます。彼は前夜の服を着たまま眠っている父親を見つけ、起こそうとする(00:12:16)。「今、何時?」とホフマンが尋ねる。そして息子は父親の腕を掴み、時計を目の前にもってくる。「小さい針は7、大きい針は9。ママはどこ?」と聞く。我々には、リンク模様のラバーストラップしか見えていないが、少年と父親と時計の非常に印象的なシーンだ。
映画の冒頭から時系列で見ていくと、最も見応えのあるシーン(00:13:00)にたどり着く。クレイマー家の2人の男たち(コスモとは無関係)はフレンチトーストの朝食を作るためにキッチンに行くが、そこで大混乱に陥る。ホフマンが料理と格闘し、フレンチプレスに瓶半分のコーヒーを押し込み、食事を全部焦がしてしまう中、時計のクローズアップがいくつか出てくる。
『クレイマー、クレイマー』 は今でも十分に通用する作品であり、2019年の映画『マリッジ・ストーリー(Marriage Story)』に影響を与えた作品としても広く知られている(この作品自体もアカデミー賞5部門にノミネートされ、助演女優賞を受賞した)。この40年で多くのことが変わったが、結婚、子育て、人生といった人間的な要素は不変だ。もしあなたが、誰かがコーヒーカップの中で食パンと卵を混ぜ合わせている間に映る時計の特大クローズアップを見たいなら、この映画はオススメだ。
第93回アカデミー賞は、4月25日の午後8時(米国東部時間)に放送された。 『クレイマー、クレイマー』 は、HBO Maxでストリーミング配信され、iTunesやAmazonでレンタルすることもできる。ル・ジュールについての詳細は、こちらを。
Lead image courtesy: AF archive / Alamy Stock Photo