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Essays ジョージ・ダニエルズ生誕100周年、ロジャー・W・スミスによる個人的な回想

さらに、Hodinkee限定の追加対談も掲載。

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伝説的な時計研究家であり時計師でもあるジョージ・ダニエルズ博士(大英帝国勲章3等勲士)の生誕100周年を迎えるにあたり、Hodinkeeは、ダニエルズ博士の弟子であり友人でもあったロジャー・W・スミス(大英帝国勲章4等勲士)氏によるエッセイを掲載できることを光栄に思います。スミス氏は、ダニエルズ博士の遺志を受け継ぎ、彼の時計製造技術を継承しています。ふたりの年齢差は数十年にも及びますが、その絆は英国時計製造の豊かな伝統に新たな息吹をもたらしました。本稿のあとには、ダニエルズ博士との関係について語ったスミス氏へのインタビューから一部を抜粋して紹介します。―Hodinkee


ジョージ・ダニエルズ生誕100周年、ロジャー・W・スミスによる個人的な回想

 2026年8月19日、ジョージ・ダニエルズ博士が存命であれば、100歳の誕生日を迎えていた。多くの人にとって、“100歳”は過去を振り返るのに良い機会だろう。そして、幸運にも彼を知ることができた私たちにとってもまた、それは今日においてもなお驚くほど意義深い彼の思想を深く考える良い機会である。

 生涯を通じて、ジョージが製作した時計は、わずか24本の懐中時計と2本の腕時計だった。2006年、サザビーズで開催された「Retrospective Exhibition」の初日の夜、彼と話をしたことを覚えている。彼は、展示ケースに作品が並べられる前、自身の生涯の仕事をまとめたコレクションの傍らに座っていたんだと話してくれた。そしてそのコレクションは、A4サイズの緩衝材を敷いた金属製トレー2枚に収まるほどのものだったと言っていた。

 しかしその26本の時計には、現代の機械式時計製造を根本的に変えるアイデアが詰まっていた。これほど少ない作品で、これほど大きな影響を与えた時計師は、ほとんど、あるいは皆無だろう。

Daniels Blue Tourbillon

ジョージ・ダニエルズのトゥールビヨンを搭載したユニークな腕時計、“ザ・ブルー”。Photo courtesy A Collected Man

 ジョージが最初の懐中時計を作り始めたのは1960年代後半のことだが、実際には、その構想はそれよりも前から練られていた。モータリングへの情熱を通じて、彼はヴィンテージカーだけでなく時計学にも強い関心を持つ、コレクターや歴史家、愛好家たちの素晴らしい交流の輪に加わった。ジョージはそのグループのなかで、実践を担う存在だった。他のメンバーが時計製造の歴史について語り合う一方、ジョージは実際の時計を手に取り、なぜ動くのか、なぜ動かなくなるのか、そしておそらくそれ以上に重要なこととして、どうすれば改良できるのかを説明することができた。彼の実践的な理解は、歴史家と時計学者の間にある隔たりを埋めるものだった。

Watches

 その理解の深さを最もよく示しているのが、セシル・クラットン(Cecil Clutton)とダニエルズによる著書『Watches』だろう。本書には、当時考案されていたあらゆる脱進機を網羅した50点以上の図版が収められている。ジョージが脱進機に関心を持ったのは、単にそれらが歴史的に興味深いものだったからではない。なぜ機能するのか、そしてどこに問題があるのかを理解したかったのだ。ジョージは、それぞれの設計が持つ長所と短所を理解していた。そして、この幅広い知識と理解こそが、彼を20世紀で最も卓越した時計学者へと導いたのである。

 それは、1969年に完成させた最初の懐中時計ですでに明らかだった。それまで、デテント脱進機は自力で作動を開始することができず、脱進機を動かすには、巻き上げ機構をわずかに回転させる必要があった。ジョージは脱進機の幾何学的形状を見直すことで、ひっそりとこの問題を解決し、自動始動式のデテント脱進機を生み出すと同時に、作動中に停止してしまう傾向も抑えた。

 そしてその成果は、単なる個別の改良にとどまらなかった。脱進機そのものを生涯にわたって探究していく、その始まりとなったのだ。ジョージは、機械式時計が生き残るためには、機能するために潤滑油に依存するという脱進機の最大の弱点を、根本から見直す必要があると考えるようになった。その探究は1974年、彼の最大の技術的功績ともいえる、コーアクシャル脱進機の発明へと結実した。そしてその後4半世紀にわたり、この新しい脱進機こそ、クォーツ革命によって大きな打撃を受けた時計産業を再生させるための、本当の道筋になり得るのだと、懐疑的なスイス時計業界を説得することに力を注いだ。

 私が初めてジョージを見たのは、1987年、私が学んでいた大学を彼が訪れたときだった。その日は、私にとって忘れられない1日となった。仕立てのよいブルーのピンストライプのスリーピーススーツに、磨き上げられた黒い靴を履いて現れた彼の姿は、今でも鮮明に目に焼き付いている。その威厳に満ちた佇まいは、たちまち周囲の注目を集めるほどだった。そしてその後、その印象は彼の著書『Watchmaking』を通じて、さらに深まっていった。この本は、私が最初の2本の懐中時計を完成させるまでの7年間、常に傍らに置いていた。私は一文一文、図版の一つひとつまで丹念に読み込んだ。そして1998年、ミレニアムプロジェクトに取り組むため、ついにジョージのマン島の工房を訪れたとき、まるで彼の本のなかに描かれていた世界が、三次元の現実として目の前に現れたように感じた。

Olaf Tamm

2011年のジョージ・ダニエルズ博士とロジャー・スミス。Photo by Olaf Tamm, courtesy Roger Smith

 工房そのものが、とても魅力的だった。最初の数週間、そして数カ月にわたり、ジョージはミレニアムシリーズの腕時計を製作するために使う機械や工具、そしてあらゆる工程について、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。彼の指導は驚くほど明快だった。工房の外では、気難しい人物として知られていたため、私は驚いた。だが、彼と仕事をするなかで、私はその評判の本当の意味を理解するようになった。ジョージは単に、時間を無駄にする人間を許さず、ことわざにもあるように、愚かな人間を容赦しなかった。彼は自分自身に求めるのと同じ基準を、他人にも求めていた。

Roger Smith in his workshop.

ロジャー・スミスの工房にて。Photo courtesy Roger W. Smith

 2011年に「ダニエルズ・ワークショップ・コレクション」を受け継いで以来、私は彼の時計や図面、そして時計製作の手法について研究を続けてきた。彼の仕事を深く考察すればするほど、その背後にある並外れた知性に感銘を受ける。なかでも今なお驚かされるのは、誰もが受け入れていた問題をあえて再考しようとしたことだ。彼の機械的な解決策の数々には、従来の常識を根本から解体してしまうような大胆さがあり、それは今でも私を驚かせ続けている。

Roger Smith in his workshop.

ロジャー・スミスの工房にて。Photo courtesy Roger W. Smith

 現在取り組んでいるプロジェクトのひとつに、ジョージの未完成の懐中時計を完成させることがある。最終的には時間そのものに阻まれ、完成には至らなかったものの、この時計からは、その明快な思考とデザインを通してジョージの内面を垣間見ることができる。だがこの時計には、その明快な思考とデザインを通して、ジョージという人物の内面を垣間見ることのできる興味深い魅力が詰まっている。

 その好例が、スペーストラベラー懐中時計だろう。私が初めてこの時計を見たのは、ジョージが私の大学を訪れた時だった。その後、彼の死後に売却された際には、幸運にもメンテナンスを担当する機会を得た。この時計は、デザインの手本ともいうべき作品だった。その美しさは、構造のシンプルさと明快さから生まれている。余分なものは何ひとつなく、すべての部品に明確な役割が与えられていた。

Space Traveller

ダニエルズのスペーストラベラーのムーブメント。

 この時計の際立った特徴のひとつが、ダブルホイール脱進機だ。レバーの反対側にあるガンギ車と比べて、もう一方のガンギ車の歯数を1枚少なくした構造である。この一見シンプルな変更によって輪列の計算が成立し、一方の輪列で平均太陽時を、もう一方で恒星時を表示することが可能になった。私にとって、これは脱進機に対するジョージの深い理解と、ひとつのアイデアをエレガントな機械的解決策へと落とし込む能力を完璧に示す例だ。こうした細部にこそ、ジョージの天才性が表れている。それらは一見しただけでは気づきにくいものだが、常に疑問を持ち続け、改良を重ね、より優れた解決策を追求していた彼の思考法を、雄弁に物語っている。

Olaf Tamm

2011年、亡くなる前のジョージ・ダニエルズがオケルズのビールと写っている写真。Photo by Olaf Tamm, courtesy Roger Smith

 工房の外でのジョージは、素晴らしく、そしてしばしば辛口なユーモアのセンスを持ち、スピードを楽しむことや、素朴な人生の楽しみをこよなく愛する人物だった。すべてが時計中心というわけではなかった。彼が車をこよなく愛していたことは、彼と働く喜びのひとつだった。とりわけ愛していたのが、彼のベントレーと1932年製のアルファ ロメオ 8Cだった。ある夏、私たちはそのアルファ ロメオで、彼のお気に入りの近所のパブ、アンドレアスにあるグロブナーへ何度も通った。そこで彼は、オケルズを1パイントと、いつものフィッシュ・アンド・チップスを楽しんでいた。ただし、ジョージはそれをいつも“ホエール・アンド・チップス(鯨とチップス)”と呼んでいた。パイントを手にくつろぐそんな瞬間にこそ、巨匠の背後にいるひとりの人間の、本当の温かさと人柄が垣間見えた。

 ジョージ・ダニエルズについて語れることは数多くあり、彼に贈られた栄誉もまた、数え切れないほどある。彼の時計、発明、そして卓越した時計製作技術だけを見ても、時計史における確固たる地位を築くには十分だっただろう。しかし40年以上にわたって彼の生涯の仕事を研究し、彼と交わした数々の会話を振り返るうちに、彼の最大の功績は、もっと目に見えないものだったのではないかと考えるようになった。

George Daniels Anniversary

ジョージ・ダニエルズ・アニバーサリー。Image, James K./@waitlisted

 ジョージは、自らの取り組みに人々の関心を向けさせた。

 彼は、自らの仕事について説明し、その重要性を明確に述べ、著書、講演、図面を通して、自分が選んだ道を人々に理解してもらうことに、並々ならぬ時間を費やした。機械式時計製造について伝え、教え、好奇心をかき立て、より深く考えるよう人々を促す彼の力は、時計そのものと同じくらい重要なものだった。

 ジョージ・ダニエルズが残したのは、ただ26本の傑出した時計だけではない。彼は、彼のアイデアに触発され続ける何世代にもわたる時計師、コレクター、愛好家を残したのだ。結局のところ、それこそが彼の最大の遺産となるのかもしれない。―ロジャー・スミス


ロジャー・W・スミス(大英帝国勲章4等勲士)氏との対談

 記念すべき節目を前に、私たちはZoomでロジャー・W・スミス氏に話を聞いた。時計師としてだけでなく、ひとりの人間として、そしてスミス氏にとっての指導者として、ジョージ・ダニエルズ博士がどのような人物だったのかを掘り下げた。このインタビューは簡潔さと明瞭さを保つため、一部編集している。

マーク・カウズラリッチ(MK):ジョージの著書を読んだり、彼の時計を研究したりすれば、彼の作品や時計製作に対するアプローチについては、それだけでも理解できると思います。でも、あなたほど彼という人間を深く知っていた人は、おそらく他にいないでしょう。そんな彼の世界への扉を開き、その内側に足を踏み入れたのは、どのような経験でしたか?

ロジャー・W・スミス(RWS)氏: 初めて会ったのは、私がマンチェスターの大学に通っていた17歳か18歳のころだったと思います。彼が大学に来る前日まで、私はジョージ・ダニエルズが誰なのか知りませんでした。誰かから「時計師で、年に1本しか時計を作らないんだ」と聞いたのですが、当時私は時計修理師、あるいは時計・置時計の修理師になるための訓練を受けていたので、時計を手作業で作る人がいるとはとても信じられませんでした。

 そういう意味では、かなり懐疑的だったんです。でも翌日、ジョージがカレッジにやって来て、私たちが脱進機の図面を描いていた時計製作の教室に入ってきた瞬間、「この人は本物だ」とわかりました。彼には、ものすごいオーラがあったんです。特に、彼がスペース・トラベラー懐中時計を取り出したときには。

Georges Daniels Space Traveller

2012年に撮影された、ジョージ・ダニエルズ設計のスペーストラベラー。

 そしてその晩、彼は自身の仕事について講演をしました。コーアクシャル脱進機にたどり着くまでの経緯や、最終的に25年にも及んだ、スイスの時計業界にコーアクシャル脱進機を採用してもらうための彼の長い挑戦について語ったのです。その夜のこと、そしてあの講演がどれほどの長さだったのかは覚えていませんが、とにかく私の心に強く残りました。大学に入って初めて、自分の前に新たな世界が開けたのです。自分のキャリアは、必ずしも時計の修理や修復の道を歩まなくてもいい。時計には、そうしたものとはまた別の世界があるのだと知りました。

MK: その後、あなたは彼と長い関係を築くことになりますが、最初から順調だったわけではありませんよね。最初に作った懐中時計を、彼に拒まれています。あなたの目の前に新たに広がり始めたこの世界をもっと知りたいと思ったとき、彼は気軽に近づいていけるような人に見えましたか? それとも、やはり近寄りがたい存在でしたか?

RWS: 間違いなく、彼は近寄りがたい存在でした。いや、怖かったと言ったほうがいいかもしれません。もちろん、彼そのものが怖かったというわけではありません。でも、確かに威圧感はありました。正直なところ、当時の私にはジョージとまともに話をすることすらできなかったと思います。そもそも40歳以上も年が離れていましたし、彼はまったく別の世界にいるような人でした。

 今になって、ジョージについてもっとも素晴らしいと思うことのひとつが、彼は自分自身の世界を作り上げたということです。ジョージ以前には、時計を最初から最後まで手作業で作る人はいませんでした。歴史を振り返っても、時計やクロックを作る職人たちは、部品を供給してくれるさまざまな職人や専門家に囲まれていたものです。ところがジョージは、自分の時計を最初から最後まで自分自身で作ることを決めた。そして、自分のために作り上げたその世界に、皆の目を向けさせたのです。そして、自分がやっていることには意味があるのだと、周囲に認識させたのです。

MK: では、最初は彼にほとんど怯えるほどだったあなたが、彼と会話をしてみたり、彼に近づいてみたりしてもいいと思えるようになったのは、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

RWS: ある日、仕事をしていたときのことです。私はマンチェスター郊外、イングランド北西部にあるタグ・ホイヤーのサービス部門で働いていました。その日も、何度目になるかわからない電池交換やブレスレットのサイズ調整、修理などをしていました。とにかく作業をしていたのですが、ふと「これは自分には向いていない。将来、ここにいたいわけじゃない」と思ったのです。そこで、ジョージに手紙を書いて、弟子を取ることを検討してもらえないかと尋ねようと思いつきました。そして実際に手紙を送り、私の時計師としての旅が始まりました。彼は私をマン島に招き、私が時計師になることについて抱いていた“志”―彼が返送してきた手紙のなかでは、そう表現されていました―について話をしてくれたのです。

Roger Smith

ロジャー・スミスがダニエルズの弟子として認められるきっかけとなった、スミスの懐中時計 ナンバー2。Photo courtesy Phillips.

 そのときの彼は、とても温かく、親しみをもって迎えてくれましたが、同時にとても率直な人でもありました。そして最後に、こう言ったんです。「いいか、時計師になりたいのなら、自分自身で修業しなければならない。時計師という仕事は、人生のすべてをかけて取り組むような職業だから、私が教えることはできない。情熱が必要だ。強い意志が必要だ」それが、すべての始まりでした。

 ジョージと関係を築くには、こちらからも歩み寄る必要があったと思います。自分には学ぶ意思があること、そして、熱意があることを示さなければならなかったのです。彼が教えてくれることに、きちんと耳を傾けることも必要でした。そして、そうしたやり取りは時計製作に限ったことではなく、彼が車について人と話しているときにも同じことがありました。あるとき、コレクションしているフェラーリについて話すために、ひとりの訪問者が工房にやって来たことがありました。私はそのときのジョージの表情を今でも覚えています。彼はその人に対して、完全に興味を失ってしまったんです。ジョージはフェラーリには全く関心がなかったからです。それは車の話に限らず、時計についても同じでした。ジョージと話をするなら、彼が話していることを理解できるだけの知識や理解を、こちらにも求めていました。そう、私はいつも彼が愚か者を容赦しないと言ってきましたが、本当に、どこまでもそういう人だったんです。

MK: 彼の文章を読むと、ジョージ・ダニエルズは時計製作の歴史において、最も自信に満ちた人物のひとりだったように感じます。時計師として成長することだけでなく、自分自身や自分の信念、そして自分が目指す方向に自信を持つことについて、彼からどのようなことを学びましたか?

RWS: 昔の私は、決して自信があるほうではありませんでした。年齢を重ねるにつれて、少しずつ自信がついてきたのだと思いますが、それは単に、自分の能力に対して確信が持てるようになったからでしょう。そしてジョージがいつも私に繰り返し言い聞かせていたことのひとつは、「ただ作るために時計を作っているわけではない」ということでした。時計を作るからには、そこには必ず目的がなければならない。そしてその目的とは、機械式時計というタイムキーパーをより良いものにすることです。私自身が成熟し、作ってきた時計とともに成長するにつれて、自信を持てるようになったのだと思います。しかし結局のところ、それは時計を作るという行為そのものを通して得られたものなんです。

MK: あなたは彼と過ごした時間を大切にし、かけがえのないものとしてきました。彼の生誕100周年を迎えた今、日々を振り返ってみて、時計を作ったり、何かを生み出したり、デザインしたりしているとき、どれくらいの頻度で彼のことを考えますか? それとも今では、彼の存在はある意味であなた自身の一部となっているのでしょうか?

RWS: 私たちはジョージの工房をそのまま自分たちの工房に取り込んだので、今でも彼に囲まれて仕事をしています。今でも彼のことはよく話しますし、彼の存在は、もう間違いなく私の人生の一部になっています。ですが同時に、時計製作に対する自分のビジョンも今なお強く持ち続けています。

 現在、私たちはジョージが生涯で作った数よりも多くの時計を製作しています。ジョージが生涯に自らの手で製作したのは、24本の懐中時計と2本の腕時計、わずか26本です。もちろん、それとは別にミレニアムシリーズやアニバーサリーシリーズもあります。それに対して、現在、私たちは年間20本ほどの時計を製作しています。それでも私は今でも、「原材料が建物の一方の端から入り、18カ月、あるいは2年後に完成した時計となって反対側から出ていく」という考えに強くこだわっています。私たちが「ダニエルズ・メソッド」と呼んでいるこのコンセプト、原材料を建物の一方から入れ、そこからすべてを自分たちで作り上げるという考えは、どうしても手放すことができないのです。

Co-axial

シングルホイール式のコーアクシャル脱進機の最新バージョン。

MK:もし彼が今、あなたが取り組んでいることを見たら、彼は何と言うと思いますか?

RWS: 特にコーアクシャル脱進機については、評価してくれると思います。私は2006年にその開発を引き継ぎ、それから20年が経ちました。そして最近、私たちはついに、コーアクシャルの新たな改良版を発表しました。つまり、それは20年の開発期間を経て誕生したということです。ジョージもそれを喜んでくれると思います。彼がコーアクシャル脱進機を搭載したのは、わずか8本の時計でした。その8本はそれぞれ、サイズも技術的な複雑さも異なっていたため、彼はコーアクシャルがきわめて効率の高い脱進機だとわかっていたものの、その性能を十分な実績によって証明するところまでは至りませんでした。しかし私たちは、それを成し遂げることができたと思います。今年は200本目の時計を完成させる予定です。この200本にわたる製作を通じて、コーアクシャル脱進機について、一連の設計原則を確立し、そして、その効率の高さ―本当に驚くほどの効率性を、実際に証明することができたのだと思います。

Roger Smith

RWS:デザインという点では、今でもよく思い出す出来事があります。アニバーサリープロジェクトに取り組んでいた時、ジョージが私たちの進捗状況を見に工房にやって来たことをいつも覚えています。あるとき彼が工房に来ていた際、私は完成したばかりのシリーズ2の腕時計を、誇らしげに彼に手渡しました。すると彼はそれをひと目見るなり、「まあ、これはダニエルズではないな」と言ったんです。私がその言葉から受け取ったのは、ジョージには彼自身の時計製作に対するビジョンがあり、私には私自身のビジョンがあるということでした。私は、ほかのどこにも見かけない時計を作っている。それが、私がこうして時計を作っている理由です。ジョージも同じでした。彼もまた、ほかのどこにもない時計を作っていて、それこそが彼の原動力だったのだと思います。しかし、私たちがコーアクシャル脱進機について積み重ねてきた技術的な取り組みについては、その価値を証明できたのではないかと思っています。

 ロジャー・W・スミス氏についての詳細は、こちらをご覧ください。