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今週から仕事を再開しよう。あるいは、ちぐはぐなパジャマ姿で数週間を過ごし、調子のよい日は映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ(Marty Supreme)』を観に出かけ、最悪な日は食べられそうなものなら何でもむさぼり食うような生活を経て、なんとか認知の整合性を取り戻そうと試みているところだ。
プロダクト重視の脳をなんとかねじ伏せたあと、私は少しリラックスした。そしてより包括的な視点を持つことにしたのだ。新作時計のリリースについての、いわば生活のためのジャーナリズムから1歩退き、そもそも私をこの世界に引き込んだもの、すなわちカチカチと時を刻む小さな物理的オブジェクトが持つ情緒的で知的なエネルギーに思いを馳せた。それは時にゴールドであり、時に宝石があしらわれ、時にプラスチックであったりもするが、どれも否定しようがなくハンサムな存在だ。
この風変わりな趣味に出合ったことは、自分でも気づかなかったかゆいところに手が届いたような感覚だった。時計は、人間の努力が凝縮されたコンパクトな象徴として存在した。それは文化的な対話においてはアートやファッションの影に隠れがちだが、それ自体が文化の表現としてきわめて重要な存在なのである。
グレッグ・ユナ(Greg Yuna)氏とのTalking Watches。
シャルロット・シェネ(Charlotte Chesnais)氏と、ウォッチ・イン・ザ・ワイルド(Watches in The Wild)のパリ編。
すでにご存じかもしれないが、私は時計とより広い文化的潮流の接点を見いだすことに喜びを感じる。私がオーデマ ピゲのロイヤル オーク オフショアについてしつこく語るのは、それが完璧な美学を体現しているからではない。正直に言えば、あれは当時の時代の写し鏡である。そうではなく、それが作られた時代の空気感、つまりやんちゃな90年代と、その10年間の文化的な特徴を鮮やかに凝縮しているからだ。大きく、厚かましく、オーバーサイズ。90年代は極端な時代だった。
時計と文化のこのような関係は、今に始まったことではない。1960年代後半のスウィンギング・ロンドン期におけるカルティエは、激変する世界の影響を少なからず受けていた。性の解放、LSD、カウンターカルチャーが広く普及し、デザインもそれに呼応したのだ。今日では、ラフな服装やアスレジャーといったアメリカ的なコンセプトが世界を席巻し、それに伴いスポーツウォッチへの嗜好はほぼ必然的なものとなった。それらは“洗練された”快適さと利便性があり、私の目には、本質的にハイエンドなアクティブウェアとそう遠くないものに映る。
左: 1996年のロイヤル オーク オフショア Ref.79290、および1993年の“ビースト” Ref.25721。右: 1994年のイタリア向けロイヤル オーク オフショアの広告。
ゴールドバーガー(Goldberger)氏が所有する、驚くほどクールなカルティエ ロンドン マキシ オーバル ユニークピース。ホワイトゴールド製のケースにグレーダイヤルを備えたモデル。
時計をより伝統的な意味でのエンジニアリングと、職人技の驚異として愛でることを好む方もいるだろう。ハイエンドな領域では、実際にそのとおりであることも多い。時計への情熱は個人的な旅だが、私たちが追い求めているワクワク感は普遍的なものだ。“時計愛のために”という、あまりに一般的でありながら奇妙に具体的な決まり文句の枠を超えて、私たちにあの温かく、浮き立つような感覚をもたらすこの趣味の正体は何なのだろう。特定の時計と触れ合うことが、なぜゼンマイが螺旋状に解けていくような小さな興奮の震えへと変わるのだろうか? ショーケースのなかにある時計を手に取ったり身に着けたり、眺めたりしているうちに、今という瞬間に溶け込んでしまうほど没頭してしまうのはなぜだろうか? なぜ私たちは皆、ウォッチメイキングに陶酔するのか。
私が(時計製造で)陶酔した瞬間はいくつか思い当たるが、なかでも際立っているのは、2023年1月にジュウ渓谷にあるジャガー・ルクルトのマニュファクチュールを訪れた時の記憶だ。今でも鮮明に思い出す。広大な敷地、棚にずらりと並んだアトモスの時計、レベルソのケースに対峙し、たった1本の毛で作られた筆を握るミニアチュール エナメル職人たちの姿。数世紀の歴史を持つジャガー・ルクルトは、ジュウ渓谷のグランドメゾンであり、長きにわたり業界の静かなエンジンとして舞台裏で機能してきた。ル・サンティエにあるひとつの屋根の下で、東南アジアの蝶から抽出されルビーのパレットをレバーに固定するために使われる繊細な天然樹脂から、酸化した針の修復に至るまで、すべてを目の当たりにすることで、その重要性は即座に理解できた。それは私のキャリアのなかで最も意味のある訪問のひとつであり、のちに訪れたルイ・ヴィトンのラ・ファブリク・デュ・タンへの旅と並ぶ経験だった。その様子はHodinkee Magazine Vol.15で読むことができる。
アール・デコ時代の有名な画家、タマラ・ド・レンピッカ(Tamara de Lempicka)にちなんだ意匠をレベルソのケースに施したエナメル細工。
新型ルイ・ヴィトン モントレーに施されたエナメル細工のクローズアップ。
特に落ち込んだり、業界に漂う絶望の暗雲に飲み込まれそうになったりした時、私は舞台裏で静かに存在するウォッチメイキングの一部に思いを馳せる。マニュファクチュールで観察に費やした数時間、業界のベテランとのオフレコでの対話、プレスリリースに載ることのない漸進的な問題解決のプロセス。これほど騒がしいエコーチェンバーのなかで本物の輝きが放たれている事実に、私は安らぎと楽観を見出す。輝きというものは、往々にして有能さという仮面を被って現れるものだ。ラム・ダス(Ram Dass)の精神世界のような話をするつもりはないが、私たちにはもう少し静寂が必要なのかもしれない。業界のアウトプットをもう少し高く評価し、痛烈なコメントを少し減らす。静寂は心地よいものである。
Z世代のネット文化の言葉を借りるなら、私の2025年はルックスマクシング(looksmaxxing)の年だった(検索する際はご注意を)。私が抽象的な意味で行っていたルックスマクシングはジム通いのようなものではなく、よりエディトリアルな、主にHodinkee Magazineに関連するものだった。そのため、もう少しお付き合いいただきたい。(AI)スロップとの戦いが続くなか、私は機械に抗うように急ピッチで作業を進めた。アート、テキスト、そして日本のわびさびを体現する創造的な試みを取り入れたいと願ったからだ。わびさびとは不完全さのなかに美を見出し、角が削ぎ落とされていないものに喜びを感じる美学である。
Hodinkee Magazineの最新号を、とても誇りに思っている。こちらから手に入れて欲しい。
私たちは幸運にも複数の媒体を通じて、私がバーチャルな絵画的空間と考えているもののなかで、ビジュアルを創り出し、アイデアを明文化し、時代の精神における瞬間を記録することができる。そして、それは単にインターネット上の画像を意味するのではない。写真とは、その本質において合成された現実だ。私たちがHodinkee Magazineで創り出すイメージは、一種の現代のヴァニタス(はかなさ)として機能する。歴史的に、17世紀のオランダの巨匠によるヴァニタス画は日常的な品々を用いて時間、美、そして無常について考察した。現代のヴァニタスも同じことを行うが、ただ時として、その対象となる品々の顔ぶれが異なるだけである。
それを、現実世界におけるありふれた家庭用品の配置と、バーチャルな絵画的空間における配置といった二分法であると考えてみて欲しい。静物写真のイメージは三次元の構図に基づいたまま、私たちが実験を行うためのチャンスだ。皆さんの注意を引きつけ、興味を持続させるために構築されたものであり、これらの画像は、修辞的な力を備えている。“モノ”の配置(私たちの場合は、時計と写真内のそれぞれの小道具)は、単なる美的な表現ではない。それらは伝達行為であり、雑誌のなかの画像は、常に考え抜かれている。もしそれらをじっくり観察すれば、そこにはあるアイデアを伝えようと願うクリエイティブ チームによって具現化された思考プロセスが見えてくるはずだ。それは時に繊細で、また時に大胆に示されている。
もしこれに興味が湧いたなら、1970年代のアンダーグラウンド雑誌の先駆者でありアーティストでもあるレナード・コーレン(Leonard Koren)氏の著書『Arranging Things』を読むことをおすすめする。
Vol.14より“ノームコア(Normcore)”。Image: Corey Olson
Vol.14より“彫刻的な時計(Sculptural Watches)”。Images: Andres Jana
私が、雑誌の背景にあるクリエイティブな制作過程を詳述するのは、私たちが時計についていかに多層的に考えているかをお見せしたいからだ。クリエイティブな仕事が論理から始まることはまれで、それは感情と直感に基づいて動く。今日、時計はさまざまなメディアプラットフォームを通じて普及しているが、その情報はしばしば拡散されている。対照的に雑誌は、1冊のなかですべての記事の配置が慎重に検討され、完結した空間だ。それは良質なコンテンツである。膨大なコンテンツでありながら、ページ数は限られており、(願わくば)鋭い視点を持っている。何よりもこの雑誌は、ライター、エディター、フォトグラファー、被写体、スタイリスト、セットデザイナーといった人間の手仕事への敬意と最新の注意を払って作られている。それは、本質的に人間の共同作業による結晶なのだ。
では、これらすべてが2026年のHODINKEE、そして広く時計界に対して私が抱く展望をどのように形作るのだろうか? 時計に対する“より広い意味”を求める飽くなき探求心を、いかにして来たるべき年に向けた具体的な形へと変えるのか。それはもちろん、次の雑誌を作ることによってだ。Hodinkee Magazineは、視覚的にも文化的にも前進し続けながら、コアな読者に奉仕し続ける。時計は、ほかの魅力的な品々と並べることでより深く理解されることがあり、そこではポップカルチャーの規範のなかに意味を持って参加することができるのだ。その取材範囲は、学術的な根拠に根ざしたままで、より包括的なものへと拡大することができる。
Vol.14より“ランゲ・ルーメンの口述記録(An Oral History of Lange Lumens)”。Images: Sergiy Barchuk
目標は、何世紀にもわたるスイスのウォッチメイキングの天才的な才能(常に鋭く進化し続けるもの)と、デザインと文化的背景を前進させたいという願いを融合させることだ。私はこの二重性のなかにこそ、ウォッチメイキングが単に存続するだけでなく、繁栄していく姿を見出している。
2026年、私たちはデスクに戻り、TikTokでの望まないセルフケア指導マニュアルの雪崩や、最高の人生を送るためのソーシャルメディアに掲載された言葉の洪水のなかで、心を落ち着かせる方法を探している。そして私も、1月の憂鬱を晴らす意味を探している。私は常にドロシー・パーカー(Dorothy Parker)のような機知に富んだジョークを懐に忍ばせておきたいと思っているが、今年はより柔らかいアプローチを取るつもりだ。
この業界には、思考の多様性が切実に必要とされている。私たちはひとつの文章から百万とおりの異なる解釈をすることができる。新しい才能、新しいアイデア、新しい世界観をサポートしよう。情報を共有することがこれほど簡単な社会に生きていることを、私たちはなんと幸運に思うべきだろうか。
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