trophy slideshow-left slideshow-right chevron-right chevron-light chevron-light play play-outline external-arrow pointer hodinkee-shop hodinkee-shop share-arrow share show-more-arrow watch101-hotspot instagram nav dropdown-arrow full-article-view read-more-arrow close close email facebook h image-centric-view newletter-icon pinterest search-light search thumbnail-view twitter view-image checkmark triangle-down chevron-right-circle chevron-right-circle-white lock shop live events conversation watch plus plus-circle camera comments download x heart comment default-watch-avatar overflow check-circle right-white right-black comment-bubble instagram speech-bubble shopping-bag

Found ホイヤー ウィナーズオータヴィアが残した、日本グランプリ自動車レースへの足跡

1963年、第1回日本グランプリ自動車レースのGTカー部門で優勝した横山達に贈られたとされるホイヤー オータヴィア。時計の来歴を手がかりに、日本のモータースポーツ黎明期と、そこに関わった人々の足跡をたどる。

ADVERTISEMENT

HODINKEE Japanでは2026年10月30日(金)から11月5日(木)まで、Car & Watch Week 2026としてクルマやそれに関する時計に焦点を当てた特集を公開している。このウィークのために用意した新規取材記事をサイト上で毎日配信していく予定だ。すでに公開されたコンテンツについてはこちらから確認して欲しい。

裏蓋に「1st JAPAN GRAND PRIX G.T.カー 第1位」と刻印されたホイヤーのオータヴィアがある。

 日本語を交えたこの刻印が意味するのは、「1963年5月3日と4日に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリ自動車レース、GTカー部門での優勝」のことであり、このオータヴィアが主催者からの副賞として優勝ドライバーに授与された特別な時計であることの証だ。

 クルマ(Automobile)と飛行機(Aviation)を組み合わせた造語に由来するオータヴィア。1933年にホイヤーがダッシュボードタイマーとして初めて開発したものだが、同社にとって伝統的なその名が1962年にリストウォッチクロノグラフとして復活すると、この腕時計はスポーツカー・エンスージアストに愛用されることになった。

2022年、タグ・ホイヤーは60周年を迎えるオータヴィアを祝してふたつのクロノグラフとGMTモデルから成る、3つの新作を発表した(画像は、オータヴィア 60周年アニバーサリー フライバック クロノグラフ)。ただし、これらは早々に生産終了が発表され、オータヴィア コレクション自体も現在は生産終了となっているため、現行コレクションにオータヴィアの名を見ることはできない。Photograph by Tiffany Wade

 オータヴィアはスポーティなアクセサリーであると同時に、クロノグラフ機能を使ってレースの経過時間を計測できる実用的な道具でもあった。高速道路に設置されたマイルストーン(距離を示す道標)を目印にすれば、簡単にクルマの平均速度を知ることができるという機能面でも大きな価値を備えていた。

 その発売間もないモータースポーツファン垂涎のオータヴィアが、1963年春に開催された日本グランプリ自動車レースの副賞に選ばれた背景には、主催者の見識の高さがあったのだろう。レースでの優勝はドライバーにとって、この上ない栄誉かつ喜びであることは間違いないが、当時の日本では簡単に入手できなかったであろう、モータースポーツ界の逸品が副賞として贈られたことに感慨もひとしおだったのではないだろうか。

 第1回日本グランプリ自動車レースの優勝者に贈られたこの“ウィナーズオータヴィア”を得たのは、同レースに参加した当時30歳の横山 達選手の横山 達(よこやま たつ)選手だったと思われる。断定ができないのは、現存する腕時計以外に同氏が贈呈を受け、所有していたことを裏付ける明確な証拠がないという以外にもうひとつ理由がある。その点については後述する。


第1回日本グランプリ自動車レースとGTカー

 第1回日本グランプリ自動車レースは、日本で初めて開催された、国際規格に準じるレースイベントで、欧州から招かれたドライバーたちが持ち込んだマシンによって争われた“国際スポーツカーレース”を中核に据えていた。

 さらにサポートレース(編注;メインイベント以外に行われるレース)として、日本人アマチュアドライバーや国産車の参加を促すため、日本や外国製の乗用車を中心としたツーリングカー部門が6クラス、輸入車を中心としたスポーツカー部門が3クラスと、木目細かいクラス分けが用意されていた。これらにメインイベントとなる海外招待選手による国際スポーツカー部門(Aクラス。同クラスは1日目と2日目で2レースが行われた)を加えた合計10クラス、全11レースが実施された。

 当日のクラス分けは下記に示したが、サポートレースのなかでは、Bクラスは街中ではめったに見かけない、見るからに速そうなスポーツカーが競い合うカテゴリーだった。それらは、当時、国際自動車連盟(FIA=Fédération Internationale de l'Automobile)のモータースポーツ部会が定めたクラス分け規定における「グループ3 グランドツーリング(GT)クラス」に分類された車両であった。GTクラスと認められるには、自動車製造会社が連続した12カ月間内に同一モデルを最低100台製造したうえで、審査に合格しなければならなかったが、ジャガーEタイプは1963年1月29日に公認を終えたGTクラスであった。

 裏蓋の「G.T.カー」という刻印は、GTカーによるレースでの成績を示すものと考えられる。ここからは推測だが、観客にとって分かりやすい表現として、大会プログラムにおいてはGTカーではなく、メインレースと合わせて“スポーツカー”レースと表記したのであろう。

クラス分け一覧(大会プログラムによる)

部門 クラス名 排気量・対象

 会場となった鈴鹿サーキットは、本田技研工業の本田宗一郎社長(当時)が欧州視察で実感した、“クルマの開発にはレースが不可欠であり、また健全なモータースポーツの発展には国際規格に準じたサーキットを建設することが必要”との確固たる考えにより、本田技研工業の事業として建設した戦後の日本では初となる常設ロードコースであった。

1963年5月3日、鈴鹿サーキット(三重県)で開催された日本初のグランプリ・レースには、2日間で20万人以上が集まった。日本でこれほど多くの観客を集めたレースイベントはそれまで存在しなかった。Photo by Keystone / Hulton
Archive / Getty Images

 1962年11月、二輪車の第1回全日本選手権ロードレースが鈴鹿サーキット初のレースイベントとなり、翌1963年5月3日と4日の日本グランプリが、四輪レースとしては初開催となった。その開催が事前に公表されると、クルマに関心を抱く人々はレースを身近なものと受け止め、観戦はもちろん、自らもサポートレースへの出場を視野に入れるようになった。まだ自家用車を持てる人は希有だったが、クルマを所有していれば、どこかに参加できるクラスがあったのだ。

  数あるサポートレースのなかで、最も高い速度が期待されたのが、20周(120.08km)で繰り広げられたB-IIIクラスだった。エントリーリストに名を連ねたのは8台の外国車で、そのうち5台を当時最新のスポーツカー、ジャガーEタイプが占めた。

 ジャガーのうちの1台は、英国から“国際スポーツカーレース”参加のためにロータス23を携えて来日した、ジェントルマンドライバーのアーサー・オーエンが掛け持ちで出場させたEタイプだった。オーエンのEタイプには高出力のレース仕様のエンジンが搭載されていたと言われ、また彼自身がレース走行に慣れていたことも相まって、スタートから独走するひとり舞台となった。“国際スポーツカーレース”がメインのオーエンはB-IIIクラスには賞典外参加であり、一種の模範走行(足慣らし)ともいえたが、横山 達は彼にしぶとく食らいつき、オーエンに次ぐ2番手でゴールして同クラスの勝者となった。

第1回日本グランプリ自動車レースのB-IIIクラス(GTカー)で、ジャガーEタイプに乗り優勝した横山 達。ロールオーバーバー以外は市販車のままのようだ。Photo courtesy SAN-EI


オータヴィアとモータースポーツ
By Kyosuke Sato

1962年当時のオータヴィアには、12時間表示の回転ベゼルと30分積算ダイヤルを備えた2レジスターのRef.3646H、そして60分目盛りの回転ベゼルと30分/12時間のふたつの積算ダイヤルを持つ3レジスターのRef.2446Mがあった。“ウィナーズオータヴィア”に選ばれたのは、後者のRef.2446Mだ。本稿に掲載したウィナーズオータヴィアは、アンティークウォッチ専門店「ケアーズ」の協力を得て撮影したものである。

 明確な排気量による定義があったわけではないが、1960年代におけるGT(グランドツーリングまたはグランツーリスモ)カーは、欧州において国境を越えるような長距離を高速かつ快適に移動できる高性能スポーツカーと一般に考えられていた。2000cc以上の大排気量エンジンを持つ例が多く、車体形状も前席を優先し、耐候性に優れるクーペタイプが主流であった。そして第1回日本グランプリ自動車レースにおいて、排気量2501cc以上の大排気量車が参戦したB-IIIクラスは、スポーツカー部門のなかでもGTカーと一部の資料では表記されていた。このことが、ウィナーズオータヴィアの裏蓋に刻印された「G.T.カー」がB-IIIクラスを指すと推測する根拠のひとつだが、このB-IIIクラスで優勝を果たした人物こそ、横山 達(よこやま たつ)選手だった。

 ただし、前述のとおり、1960年代当時のFIAが定める規定によれば、1963年大会のB-IからB-IIIまでの3クラスもGTカーに分類されるため、B-Iクラス(1300cc以下)で優勝した井口のぼる選手(DKW)、B-II(1301〜2500cc)クラスの優勝者である田原源一郎選手(ダットサン・フェアレディ)にもウィナーズオータヴィアが贈られた可能性は否定できない。事実、本稿で掲載するものと同一個体ではないと思われる状態のウィナーズオータヴィアが過去のSNS投稿で見られることも、その可能性を示唆する。真偽については、さらなるリサーチが必要だ。

 前述のとおり、もともとオータヴィアは、ホイヤーを代表する製品のひとつであったダッシュボードタイマーの名を受け継ぎ、回転ベゼルを備えたリストウォッチクロノグラフとして誕生した。ブラックダイヤルにホワイトの積算計を配した視認性の高い表示と、経過時間の把握に役立つ回転ベゼルを備え、レースの世界で使われてきたホイヤーの計時の思想を、ドライバー自身が身に着けられる形にした。1962年にジャック・ホイヤーがレーシングクロノグラフとして発表したオータヴィアは、ホイヤーの腕時計とモータースポーツとの密接な関係の始まりとなり、以降、彼はそのキャリアを通じてこの関係を育んでいった。

 1963年のレースの優勝者に、ホイヤーのオータヴィアが副賞として贈られたことは、当時の流れによくなじむ。レースの勝者に、時間を計測するために生まれた時計を贈る。──それは、ホイヤーの歴史においても、当時の日本のモータースポーツ振興の観点から見ても、きわめて自然であろう。


横山 達とは?

表彰台の中央に立つのが、ジャガーEタイプを駆ってB-IIIクラスを制した横山 達選手。2位はメルセデス・ベンツ300SEに乗るW.E.バーレット(写真左)、3位はジャガーEタイプを駆った田中松雄(写真右)だった。Photo courtesy SAN-EI

 横山 達は童話作家の父のもと、1933年1月15日に目黒区で誕生した。幼い頃からメカニズムに引かれ、やがてモーターサイクルに熱中するようになると、当時の日本製二輪車では最高峰に君臨する陸王を駆って、モーターサイクルレースへの出場を目指した。だが、1960年に陸王モーターサイクルの倒産によってレースへの夢を断たれると、単身、米国1周のドライブ旅を選んだ。

 帰国後、二輪から四輪に趣味の対象を移すと、第1回日本グランプリ自動車レースの開催が告知された1962年に、輸入が開始されたばかりのジャガーEタイプ・オープンモデル(OTS:Open Two Seater)を購入している。横山はそれ以前にもジャガーを愛用していたと言われており、日本でのジャガー総代理店だった新東洋企業からいち早く購入したと考えられる。同社は1961年にEタイプの輸入を開始し、初年度にはオープン17台、クーペ4台、1962年には各仕様を3台ずつ輸入している。おそらくこのなかの1台が横山の手に渡ったのではないか。

 自動車専門誌『CARグラフィック』では、創刊第2号に当たる1962年5月号で、この新東洋企業から借り出したEタイプOTSに試乗し、おそらく日本初となるロードテスト記事を掲載してファンを驚かせていた。

 Eタイプの一般公開は、1963年11月開催の第5回東京オートショー(晴海、国際見本市会場)が初であり、オープンモデルは445万円で展示された。これほどの高価格スポーツカーを日本で入手したのは、海外の専門誌でその高性能ぶりを知ったハイエンドのエンスージアストたちであった。英国製スポーツカーの代名詞とも言える高い知名度を誇ったMGB(1800cc)が159万円、日本では唯一のスポーツカーであった日産自動車製ダットサン・フェアレディ1500が85万円、大学卒の初任給がおよそ1万6000円という時代だ。いかに高価なクルマだったかがうかがえる。

 横山と同じB-IIIクラスに出場したEタイプのドライバーは、いわゆるジェントルマンドライバーたちであり、さらに日本グランプリ自動車レースに出場した日本メーカーのドライバーのほとんどがアマチュアからの抜擢であった。1962年の鈴鹿サーキット開場とともに歩みはじめた、日本におけるモータースポーツの黎明期を支えたのは、四輪より先に国際化に向けて突き進んでいたワークスチーム所属の二輪ライダーからの転身組や、横山らジェントルマンドライバーたちであった。

 横山はその後、プロドライバーへの道を選んだ。プリンス自動車ファクトリーチームのリーダーに抜擢され、第2回日本グランプリ自動車レースでは、プリンス・グロリアのほか、愛用のEタイプでも出場し、それぞれ5位と2位で入賞を果たした。同社が日産自動車と合併すると、神奈川県横須賀市の日産追浜工場内に本拠を置くワークスチーム(通称:追浜ワークス)のドライバーに迎えられ、“ニッサン七人の侍”と評される強者集団の一角を成し、のちにレース活動のマネジメント役を担った。退社後はニッサン系のメンテナンスショップであるスクーデリアニッサンを主宰して、顧客のレース活動を支えた。その経歴は、まさに日本のモータースポーツの発展の歴史と重なる。

1966年の第3回日本グランプリ自動車レースで、横山はプリンスR380に乗って4位に入賞した。同氏はダークグリーンのマシンカラーを好んだ。Photo courtesy Nissan

1967年に開催された第4回日本グランプリ自動車レースのツーリングカーレースに、横山はスカイライン2000GTで参戦し、優勝を果たした。Photo courtesy Nissan

写真は、1968年の日本グランプリ自動車レースで、ニッサンR380で4位に入賞したときのもの。このときのボディカラーは赤だった。Photo courtesy Nissan

1967年10月8日、横山はニッサンR380-AIIのステアリングを握ってFIA(国際自動車連盟)公認の速度記録会に挑んだ。Photo courtesy Nissan

高速周回路のバンクを疾走する横山のR380-AII。合計7種のFIA公認国際記録を樹立した。Photo courtesy Nissan

 横山 達の輝かしい経歴を振り返りながら、長年の使用による傷や風合いをまとったオータヴィアを改めて眺めると、もしこの腕時計が横山の手に渡っていたなら、彼のレース人生とともに時を刻んできたのかもしれないと思えてくる。その来歴にはなお解き明かすべき謎が残されているが、このウィナーズオータヴィアが日本のモータースポーツ黎明期を物語る、重要かつ興味深い腕時計であることに変わりはない。


Extra/レーシングメイト モンツァと式場壮吉

Photographs by Masaharu Wada

 日本グランプリ自動車レースの開催以降、その後の日本のモータースポーツ文化には、ホイヤーの存在とその影響力を見いだすことができる。それを象徴する時計のひとつが“レーシングメイト モンツァ”だ。

 1960年代、レーシングメイトの名は熱心なクルマ好きにとって重要なアイコンであった。モータースポーツと直結したツウ好みのアクセサリーやパーツを自社開発し、緑色の四つ葉のクローバーのエンブレムとともに羨望の的となった。1960年代のレーシングメイトを展開していたのは、シキバエンタープライズという会社であった。1969年には倒産してしまうが、このレーシングメイトを立ち上げたのが日本グランプリ自動車レースにも参戦し、第1回大会ではトヨタのコロナに乗ってC-Vクラスで優勝も果たした式場壮吉である。

Photographs by Masaharu Wada

Photographs by Masaharu Wada

 1978年からイージーライダース(2020年7月に廃業・閉店)が展開したレーシングメイトと式場壮吉との関係は確認できなかったが、元レーシングメイトのスタッフが興したと言われるイージーライダースは、かつてのブランドの名のもとに輸入雑貨を中心に展開。腕時計もラインナップし、ブライトリングやポルシェデザイン、ホイヤーなどを扱った。なかでもホイヤーでは、ダイヤルに“RACING MATE”のロゴを描いたレーシングメイト モンツァを販売。価格は当時5万8000円で、同社が扱ったホイヤー製品のなかでは比較的手の届きやすい設定だった。この特別なモンツァは、日本のカーアクセサリー・アパレルブランドが海外の高級時計ブランドと提携した、記念碑的なダブルネームモデルとして評価されている。

特に表記のない文章は、Words by Kazuhiko Ito(Mobi-curators Labo.)、特に表記のない画像は、Photographs by Kyosuke Sato