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HODINKEE Japanでは2026年10月30日(金)から11月5日(木)まで、Car & Watch Week 2026としてクルマとそれに関する時計に焦点を当てた特集を公開している。このウィークのために用意した新規取材記事をサイト上で毎日配信していく予定だ。すでに公開されたコンテンツについてはこちらから確認してほしい。
「レースはクルマを育て、ショールームにもなる…」
ポルシェは、第2次世界大戦後の1948年夏、フォルクスワーゲン(VW)のコンポーネンツを使って、356のプロトタイプ第1号車を完成させた。そのときのポルシェ社は、戦時中に疎開したオーストリアのグミュントの“仮住まい社屋”にあり、不自由な活動を余儀なくされていた。当主のフェルディナント・ポルシェ博士はといえば、戦争に荷担したとの嫌疑をかけられ、フランスで獄中の身にあった。博士が解放されるのは1948年8月1日のことであった。
ポルシェ 356は、希代の自動車設計者として名をはせたフェルディナント・ポルシェ博士(1875年9月生まれ)を父に持つ、フェリー・ポルシェが発案したプロジェクトであった。フェリーはエンジニアとしての教育を受けてはいないが、父の構想を参考にし、父の側近であったエルヴィン・コメンダらの有能な技術スタッフの協力を得て、プロジェクトは具現化された。フェルディナント・ポルシェ博士は、ダイムラーベンツやシュタイア(オーストリア)などの自動車メーカーを渡り歩きながら、数多くの優秀なクルマを設計することで経歴を積み、1931年に独立。ドイツのシュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行う事務所(Dr.Ing. h.c. F. Porsche GmbH, Konstruktionen und Beratungen für Motoren und Fahrzeugbau)を開設した。したがってポルシェ社は2023年で創業92年になる。
ポルシェのスポーツカーの歴史は1948年、この356 No.1から始まった。フランスでの軟禁から解放されたフェルディナント・ポルシェ博士は、息子のフェリーから356のプロトタイプを見せられ、おおいに満足したという。右からポルシェ博士、フェリー・ポルシェ、ポルシェ博士の右腕を務めたエルヴィン・コメンダ技師。
ポルシェ社はクライアントからの依頼を受けて車両や部品の開発を行うことはあったものの、自らの名を冠したクルマは、第2次大戦後に試作した356が初めてだ。“356”の名は、事務所が開設されてから続く一連の番号、つまり社内コードネームに由来した。発足から間もない1933年に、時のドイツ政府の依頼で、国民車としてポルシェ事務所が開発に着手した車両がVWであった。同社の開発当時、ポルシェ博士はその主要コンポーネンツを活用して軽量なスポーツカーを派生させる考えをひそかに抱いており、この構想が356によって現実のものとなる。
試作された356の1号車は、エンジンをミッドシップに搭載したアルミ製のスパイダーボディを備えていた。生産を見据えた2号車では、ボディ素材はアルミのままながらクーペタイプとなり、エンジン搭載位置もVW同様にリアエンドに変更されていた。このプロトタイプ2号車は、ほぼそのまま“ポルシェ 356”のモデル名で生産に移された。1948年の末からグミュントの仮工場で小規模な生産が始まると、49年には約50台が送り出された。50年には、疎開先のグミュントからシュトゥットガルト郊外のツッフェンハウゼンに戻り、本格的な生産が始まると、産声を上げたばかりの新興自動車メーカーであるポルシェ社は、直ちにレース活動に着手した。
ル・マンでの成功
ポルシェは、自社が参戦すべき重要なレースのひとつとして、ル・マン24時間レース(フランス)を選んだ。1923年にはじまった同レースの開催意図は、一般公道を閉鎖した特設コースを24時間連続走行させることでメカニズムを鍛え、ユーザーに信頼されるクルマ開発に役立つことだった。ガソリン自動車が誕生したのは19世紀後半だが、1920年代に入っても、高速で昼夜連続走行させることは未知の領域であった。いわば高速耐久テストの場が24時間レースであったのだ。そうした背景ではじまったル・マンでは、近代になってもその精神が守られ、参加車の間口は広くされていた。すなわち排気量の大小や、純レースカー、市販車などの車両カテゴリー別など、細かく分けられたクラスが設けられ、総合優勝以外にも各クラス優勝、熱効率指数賞や性能指数賞など、多岐にわたる賞典が用意されていたのである。
1951年のル・マン24時間レース初参戦車にして、クラス優勝を果たしたポルシェ 356SL。
1951年6月、ポルシェはル・マンに初挑戦を果たした。マシンはグミュント時代に製作した市販型356をベースにレース仕様として仕立てた356SL(スポーツ・ライヒト:レース用軽量仕様の意)であり、VWをベースにした空冷水平対向1086ccエンジンの出力を向上させたうえで、大型化した燃料タンクを積み込み、リアホイールを覆うスパッツなどの空力対策と軽量化を施していた以外は、ほぼ市販車のままであった。狙ったのは、751〜1100cc以下の“S1.1”クラスである。
1台きりの出走であったが、210周(平均118.360km/h)して、“S1.1”クラスでの優勝を果たし、総合でも20位と健闘した。さらに翌年には51年のクラス優勝車が同じクルーの手で総合11位と“S1.1”クラス優勝を果たし、これ以降、ポルシェはル・マンでのクラス優勝の常連となっていった。356SLの健闘ぶりを明らかにするため、1951年のほかのル・マン出場車を見ると、最大排気量車は、アメリカからの挑戦であった5.5リッターV8エンジン搭載のカニングハムC-2(S8.0クラス)、最小は空冷水平2気筒611ccのパナール・ディナ(フランス)であり、当然ながら直線路の速度差は大きかった。優勝は3.4リッター直6エンジンのジャガーXK-120Cであり、267周を走ったから、1.1リッターの356SLの210周は敢闘した結果といえるだろう。
これらル・マンの結果からもわかるとおり、初期のポルシェは長距離レースに重きを置き、1100〜1500cc程度と小排気量ながら、高い信頼性を武器に、“時計のように正確に…”と表現されたように淡々と周回を重ね、大排気量の自滅を睨みながら総合順位でも上位に食い込み、クラス優勝の常連となるという展開がしばしば見られた。フェリー・ポルシェはこのル・マンでの勝利に対して、「連続2度のクラス優勝は新興スポーツカーメーカーのポルシェにとって大きな宣伝効果がある。ル・マンは世界で最も有名なスポーツカーレースであり、この上ないショールームになる…」との考えを明らかにしていたという。無名に等しいポルシェがレースによって存在感を知らしめ、そこでの経験を車両開発に生かしていく。スポーツカーメーカーとして理想的な形態であった。
純コンペティションカー、550RSが輝いた“カレラ”
ポルシェ社内で1953年シーズンのレース活動計画が検討され、356の高性能化に加えて、レース専用車のタイプ550RSの開発が決まった。エンジンは52年のル・マン終了後に開発に着手したタイプ547と呼ばれる水平対向4気筒DOHC、1.5リッター型で、新開発のラダー型フレームのミッドシップに搭載。軽量なアルミ製2座オープンボディが架装された。
1954年、最後の開催となったラ・カレラ・パナメリカーナ・メヒコでの550RSスパイダーの活躍を伝えるポスター。
1953年春には最初の2台が完成。小規模なレースでその力の確認を終えると、同年のル・マンに駒を進めた。ル・マンの長い直線部での高速走行を考慮して空力的に有利である特製のクーペ型で臨み、出場した2台が総合15位と16位に入り、クラス優勝と2位を成し遂げた。こうしたワークス活動を経て、550RSスパイダーは1953年後半に量産モデルとして発売された。レース参加を望むユーザーにとって、高い性能と信頼性を両立した550RSスパイダーを入手すれば、クラス優勝はもちろん、総合順位でも上位獲得が期待できることから70台以上が生産され、レースカーとしては多作となり、その発展型へと進化していった。
欧州のさまざまなレースで活躍を見せる一方、ポルシェのワークスチームはメキシコを南北に横断する全長3400Kmにも達する過酷な長距離レース、ラ・カレラ・パナメリカーナ・メヒコへと目を向けた。
1954年には、ハンス・ヘルマンがドライブする550RSスパイダーが、従来の記録を4時間も短縮するタイムでクラス優勝、総合で3位と4位に滑り込み、アメリカ市場でのポルシェの販売促進に寄与することになった。この勝利以降、ポルシェは356の高性能モデルに“カレラ”(スペイン語でレースの意)の名を冠するようになる。1950年に初開催されたカレラだが、あまりに危険であることから、54年に終止符が打たれた。
904 カレラ GTS
ポルシェが世界中のGTレース参戦ドライバー向けに、550RSで新登場した高性能なDOHCエンジンを搭載した356 カレラを供給し、ユーザーたちが幾多の勝利を重ねたことで、短期間のうちにポルシェの知名度は世界的なものとなった。そうなれば、ポルシェが他車の後塵を拝することは許されない。ところが、356 カレラが属するGTクラスでは、アルファロメオやアバルトらが急速に台頭し、ポルシェの力不足が明らかになっていった。その打開作として、1963年にポルシェはまったく新しいマシン、904 カレラ GTSを発表した。世界中のレースを統括するFIA(国際自動車連盟)は、GTレース参戦車の規定を「連続する12カ月間に100台以上の生産」と義務づけていた。
1965年のモンテカルロ・ラリーで総合2位に入った904 カレラ GTS。表彰式を終えたクルーとともに。
904 カレラ GTSは、550RSから採用したミッドシップレイアウトを採用し、使い慣れた水平対向4気筒DOHC、2リッターエンジンを最高出力180psに向上して使用。シャシーは生産性と強靱さを合わせ持つことから、鋼管溶接構造の550RSとは異なり、ポルシェとして初の試みとなる鋼板製梯子型フレーム構造を採用した。904 GTSは100台以上を生産することから、公道での使用も設計段階で考慮された。曲面で構成された356や550RSとは趣の異なる、直線的でスリークなクーペボディは、フェルディナント・ポルシェの孫であるフェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ、愛称“ブッツィー”が手がけたもの。素材はポルシェにとっては初となるFRPであった。
ブッツィー・ポルシェは、1963年にデビューした911のスタイリングを手がけたが、72年にポルシェ社を離れ、シュトゥットガルトでポルシェ・デザイン・スタジオを設立。工業デザイナーとして歩みはじめた。同年にポルシェデザインの名を冠し、ポルシェユーザーに訴求するサングラスやバッグなど、さまざまなアクセサリーラインナップを発表。そのなかには911の計器盤をイメージしたクロノグラフも含まれていた。カレラの名を冠した904 GTSがデビューした1963年には、当時のホイヤーも“カレラ”の名を冠したモデルを発表するなど、ポルシェによる“カレラ”での活躍はほかにも波及することになった。
904 カレラ GTSは1964年5月のタルガ・フローリオで、2リッターながら総合優勝と2位、7位を獲得。ル・マン24時間レースでは総合7位とクラス優勝を果たす。
904 GTSのデビューレースは、1964年2月の北米。2月初旬のリバーサイド(カリフォルニア)で、2台が出場したものの入賞には至らなかったが、2月15日のデイトナ250マイルレースでは総合で5位と9位に入っている(4位はポルシェ718 RS61)。3月のセブリング12時間レースでは、いち早く904 GTSを入手した富豪でジェントルマン・ドライバーのブリッグス・カニングハムの手で、プロトタイプクラスでの優勝と総合9位という好成績を収めた。904にとって初の総合優勝となったのは、3月にベルギーで開催されたクーペ・ドゥ・ベルジークでのこと。5月のタルガ・フローリオ(イタリア)では、2リッターながら総合優勝と2位、7位を獲得。ル・マン24時間レースでは総合7位とクラス優勝を果たしたほか、ランス12時間レース(フランス)でもクラス優勝に輝くなど、顕著な活躍を見せた。サーキットレースだけでなく雪に覆われた1965年のモンテカルロ・ラリーでは総合2位に入り、904 GTSの万能性を示した。
904 GTS以降、ポルシェは906(カレラ6)や910(カレラ10)を製作して市販。こうしてポルシェは2リッター級スポーツプロトタイプでクラス優勝の常連となった。
アメリカ市場とデイトナ
ポルシェと北米市場の関係は、356の本格生産から間もない1950年秋、アメリカ東部で輸入スポーツカーの販売を手掛けるマックス・ホフマンの目に留まったことが発端であった。世界一の経済大国であったアメリカは、ポルシェにとって最重要マーケットへと急成長し、北米のジェントルマン・ドライバーにとっても、356や550RSは勝利のための武器となった。ポルシェに引かれたひとりに伸び盛りの若き俳優、ジェームズ・ディーンがいた。彼は356によってレースの魅力に引き込まれ、発売されたばかりの550RSスパイダーを入手するほどだった。
1955年9月、ハリウッドのヴァインストリートで撮影された写真。写るのは俳優のジェームズ・ディーン。彼は写真の550 スパイダーのほか、 356 スピードスターにも乗っていた。54年にレースを始めた彼は、550 スパイダーを所有してわずか9日目、サリナスのレースに向かうべくポルシェを運転中に事故を起こし、命を落とした。
北米での販売が本格化すると、セブリングやデイトナで開催されるメジャーレースへの参加が増えていった。フロリダ半島に位置するデイトナビーチは1936年にストックカーレースが初開催されるという、東海岸におけるモータースポーツの重要地域であり、59年には、スピードウェイ・アリーナ型の常設サーキットとして、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイが開場した。デイトナはさまざまなレースに対応できるコースレイアウトが特徴であり、夜間照明の設置、コースが見渡せる観客席など、レースを“見せるため”の工夫が凝らされていた。メインステージであるバンクを備える超高速の“おむすび型”トライオーバルコースは、アメリカ最大の人気を誇るストックカーレースの舞台となり、オーバルとインフィールド内に設けられたシケインと2カ所のヘアピンコーナーを併用するロードコースはスポーツカーレースに使用された。
デイトナにおけるポルシェの足跡を追うと、コースがオープンして間もない1959年4月5日に開催された、USAC-FIAスポーツカーレース6時間/1000kmの勝者として記録が残っている。1962年には、デイトナ・コンチネンタルと名付けられた3時間スポーツカーレースがはじまり、64年には2000kmに、さらに66年からは24時間に延長され、現在に至る。24時間に延長されたことで注目を浴びた1966年には、打倒フェラーリを掲げたフォードが1位から3位を独占。同年、デイトナ、セブリング、ル・マンで完敗したフェラーリは、67年にデイトナ24時間レースのフィニッシュラインで1、2、3位並んでの“劇的なパレードフィニッシュ”を飾った。以降、このスタイルでのゴールは“デイトナフィニッシュ”と呼ばれるようになった。
1968年のデイトナ24時間レースでポルシェ 907が3台並んで“デイトナフィニッシュ”を決めた瞬間。
ポルシェは翌68年に、前年のフェラーリ同様に3台並んでの“デイトナフィニッシュ”を再現してみせた。当時のポルシェのマシンは、2.2リッターの空冷水平対向8気筒を搭載した907であり、ライバルに比して排気量が小さいポルシェが総合優勝を果たしたことは偉業と受け捉えられ、907以降、ポルシェは総合優勝争いの一画を占める存在として認識されるようになる。そしてポルシェは1968年のFIA規定大幅変更を機に、総合優勝の最有力候補に立つことになった。新規定でのタイトル戦は、排気量3リッター以下のグループ6スポーツプロトタイプと、5リッター以下のグループ4スポーツカーの2本立てになったからだ。それまで7リッターのフォードや4リッターのフェラーリなどの大排気量車に対して、2リッター級ゆえに不利な戦いを強いられてきたポルシェにとって、総合優勝への道が開ける変更であった。
排気量規定が大きいグループ4のほうが有利と捉えられがちだが、グループ4の認定を受けるためには25台以上の生産義務が課せられるため、多大な出費を伴うことが足枷となった。莫大な投資を回収するためにはプライベートチームに大半を販売する必要があるが、そのためには、買い得な“勝てるマシン”であることが必須条件であった。その点、生産台数義務のないグループ6なら比較的参入は容易であった。グループ4規定の規定変更を受けて、ワークス・フォードはスポーツカーレースからの撤退を、フェラーリ・ワークスもスポーツカーレースでの一時活動休止を選んだ。
そこで、ポルシェは3リッターの空冷水平対向8気筒エンジンを新開発し、前モデルの907をベースとして908を開発した。1968年シーズン途中にクーペモデルとしてレースデビューし、翌69年にはスパイダーボディが加わり、ポルシェは908によって念願だったメイクスチャンピオン(車両製造者選手権)初制覇の原動力となった。しかしながら、68年のル・マン24時間レースではイギリスのJWオートモーティブ・エンジニアリングがエントリーした、旧態化感が否めないグループ4マシンのフォードGT40との一騎打ちとなり、ゴールライン間際までもつれた結果、908は僅差で2位に甘んじる結果になった。なお、当時のJWオートモーティブ・エンジニアリングは、イギリスの名将、ジョン・ワイアが率いる名門チームであった。
1970年のル・マン24時間レースで初の総合優勝を決めたポルシェ 917K No.23。クルマのそばにはドライバーのハンス・ヘルマン(左の白いヘルメット)とリチャード・アットウッド(グレーのヘルメット)も。
908を投入してもル・マンでの総合優勝を逃したポルシェは、その切り札として、多大な出費は覚悟のうえでグループ4マシン、917の開発に着手する。一方で、1963年に356の後継型として、完全な新開発である2リッター空冷水平対向6気筒、最高出力130psを誇るエンジンを搭載した911を発売していることを忘れてはならない。この911は欧州と北米で大ヒットし、同年の生産台数は会社はじまって以来の記録となる1万1000台を超えた。356が19年間(911と併売後、65年に終了)かかって7万7361台を生産したことを考慮すれば、いかに911に多くの注文が押し寄せたかがわかるだろう。1966年からは911のラインナップを急速に拡大して、年産1万4000台を突破し、需要に応えるためツッフェンハウゼン工場を拡張して新たな工場を開設した。こうした生産増強には大きな投資が必要であるとともに、設計陣は911の派生モデル開発に忙殺されるなかで、917計画のスタートを余儀なくされた。917の開発目標は1969年早春のシーズン開幕に置かれたが、その時期のポルシェにとっては、身の丈に合わない大英断であったといえよう。
1970年のル・マン 24時間レースの戦績を伝えるポスター。1、2位をポルシェ 917が飾り、3位にも908が入った。各クラス賞もポルシェが独占した。
908での総合優勝を逃すという不がいない状況を打破すべく、1970年シーズンのポルシェはワークスとしてのレース活動はおこなわずに、マシンの熟成開発に専念する。実際のサーキットでのレース活動とマネジメントは、ピエヒ家と姻戚関係にあるオーストリアのポルシェ・ザルツブルグのほか、前述した“勝利請負人の”JWオートモーティブ・エンジニアリングに委ねられた。JWチームのマシンは、アメリカの石油メジャー、ガルフのコーポレートカラーであるライトブルーにオレンジを配するカラーに塗られた。巻頭に掲げた写真は1970年ル・マンの序盤を走る2台のガルフ・ポルシェ 917Kである。もちろんこれに917を入手したユーザーチームが加わった。
新体制の結果は、1970年の国際メイクス選手権の開幕戦であるデイトナ24時間レースでの、JWオートモーティブによる1-2フィニッシュという好成績で現れた。その後の917は、ハラマ(南アフリカ)、ソルダー(ベルギー)、スラックストン(イギリス)、ブランスハッチ(イギリス)、モンザ(イタリア)、ハラマ(南アフリカ)、スペインと圧倒的強さで勝ち進み、ル・マン24時間レースを迎えた。
1970年のル・マンはスタートから雨が降り続くという最悪のコンディションに見舞われ、結果から言えば、出走51台中完走したのはわずか7台(完走率13.7%はル・マン史上最低)にすぎなかった。劣悪な環境下であったが、ポルシェ・ザルツブルクから出場したハンス・ヘルマンとリチャード・アトウッド組の917Kが、1951年の初参戦以来、ポルシェにとって宿願となっていたル・マン総合優勝を果たす。2位にも917LHが続き、3位もポルシェ 908/2LH(クラス優勝)が入るという圧倒的な勝利であった。さらに付け加えれば完走と認められた7台中5台をポルシェ車が占め、賞典外で出走した908スパイダーも6位相当の周回数で24時間を走りきった。このクルマはスティーブ・マックイーンが企画主演した映画『栄光のル・マン』の撮影用カメラカーで、完走してレースの臨場感を撮影することが使命であった。
1971年のル・マン 24時間レースの戦績を伝えるポスター。こちらも1、2位をポルシェ 917Kが飾り、上位をポルシェが占める。
翌1971年は開幕から順当に勝ち星を積み重ねてデイトナとル・マンの両24時間レースを制し、チャンピオンシップでは70年を超えて917は無敵の存在となった。結果的に917が強すぎたこと(ライバルの追走を許さない)、レースを高速化しすぎた(ル・マンの6kmに達するユーノディエールのストレートでは約400km/hにも達した)ことから、FIAは競技規則の変更を決断。917は欧州のスポーツカーレースから去っていった。917は、1972年から北米大陸で大きな人気を博していたCan-Am(Canadian-American Challenge Cup)シリーズに舞台を移し、ターボチャージャーを装着して挑戦。前述したように、917計画の強引ともいえる推進者は、ポルシェ博士の孫であるフェルディナント・ピエヒであり、彼の存在なくしては917の成功はなかったであろう。917の登場から間もなくして、フェラーリも重い腰を上げてグループ4スポーツカーレースのために、5リッターV12エンジン搭載の512Sを開発し、1970年シーズンから917と相まみえることになるが、70年、71年シーズンともフェラーリは、ポルシェの敵になるほどの完成度を手にすることはなかった。
1972年初頭、ピエヒの叔父でありポルシェ社の社長の座にあったフェリー・ポルシェは、会社が発展するためには、父による創業時から続く同族経営体制からの脱却が必要と考え、株式を公開し、自らはポルシェAG監査役会会長に就任することで身を引いた。この決定によってポルシェ家とピエヒ家の人々が会社を去り、前述したようにブッツィー・ポルシェは、独立してポルシェデザイン社を設立した。ポルシェを去ったピエヒはアウディ社に移り、クワトロ計画を発案・推進し、VW社の社長の座に昇りつめることになる。こうした917誕生の経緯から、会社設立からの伝統的なポルシェ家を中心とした体制によって完成された最後のレーシングポルシェが917であり、それが正しく最強のグループ4スポーツカーであったことから、917に畏敬の念を抱くファンは少なくないのである。
75年前にスポーツカーの生産を開始したポルシェ。北米ではデイトナ、欧州ではル・マンの両24時間レースを制覇したが、それぞれの勝利数を列挙すれば偉業が浮かび上がる。デイトナでの勝利数は1968年の907での初勝利以降、現在までに18勝に達する。1970年と71年に917で勝ってからも77年から83年まで7連勝し、85年から87年までは3連勝という見事な勝ちっぷり。ル・マンでは1970年に917で念願の初勝利を果たしたあとも勝利を重ね、通算19勝(最近では2015〜17年に3連勝)に達し、クラス優勝は108回を数える。100年にわたるル・マン史のなかで最多勝がポルシェなのである。連勝に連勝を重ねる917を多くの人間が目の当たりにすることでポルシェの市場は急拡大。伝統あるル・マンでのクラス優勝を経て、総合優勝の常連となり高いステイタスを確固たるものとしたポルシェ。それはレースによって支えられたものだったのだ。
Words:Kazuhiro Ito/Mobi-curators Labo. Photos courtesy:Dr.Ing.h.c.F.Porsche AG
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