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ニューヨークの名所、サイドウォーク・クロック物語(動画解説付き)

1947年、ニューヨーク・フォト・リーグの写真家イーダ・ワイマンはマンハッタン南端部の歩道に埋め込まれたあるクロックの象徴的な写真を撮影した。彼女はこの写真が1世紀を経てどれほど大きな意味を持つことになるのか想像もしていなかった。

本稿は2013年1月に執筆された本国版の翻訳です。

ロウアー・マンハッタン、かつて世界貿易センターが建っていた場所から数ブロック離れた歩道には、なんとクロックが埋め込まれています。シンプルなそのクロックには、スペード状の短針と長針が整然と表示され、ローマ数字とレイルウェイトラックがダイヤルを囲んでいます。メイデン・レーンとブロードウェイの交差点にある舗道の切れ目で、傷と汚れで曇った風防の下からその姿を覗くことができます。このクロックは、マンハッタンの足元で1世紀以上も時を刻み続けています。

 1896年、マンハッタンの宝石商、ウィリアム・バースマン(William Barthman)は、自らの名を冠した宝石店の外の歩道に客寄せとしてクロックを設置することにしました。彼がもともと考案したのは、3窓式のジャンピングアワークロックで、当時としては革新的なバックアップ用のバッテリーを備えた機械式時計だったのです。日が暮れると、内側に隠された電球で照らされました。このクロックは、バースマンが従業員のフランク・ホム(Frank Homm)とともに2年以上の歳月を費やして設計したもので、完成したクロックは1899年秋に設置され、たちまち人々の注目の的となりました。

おそらく、計時装置のなかで最も斬新なものは、ウィリアム・バースマンの店の前に飾られているサイドウォーク・クロックであろう…歩道の開口部の前で時分の数字がパノラマのように回転している。

– テクニカル・ワールド誌、1906年9月

 アナログ時計が席巻していた当時、バースマンのクロックは世紀の変わり目のニューヨークの風景のなかで異質な存在でした。何せ、そのわずか10年前にニューヨークの夜景を照らしていたのはガス灯であり、市営のアーク灯システムがまだまだ最新鋭の設備とみなされていたほどでした。クロックは日没後のマンハッタン南端部を照らす唯一のオブジェのひとつだったのです。1906年9月、テクニカル・ワールド誌は“おそらく、計時装置のなかで最も斬新なものは、ウィリアム・バースマンの店の前に飾られている歩道のクロックであろう。歩道の開口部の前で時分の数字がパノラマのように回転している”と報じました。このクロックは40年以上運用されましたが、問題がなかったわけではありませんでした。

1899年にクロックが設置された際、当時のイラストに描かれた初代バースマン・クロック。

 クロックを設置するアイデアはバースマンが発端となったものの、フランク・ホムがクロックの製作と保守の実務を担いました。彼はほぼ毎日クロックの調整を担当し、ちょっとした修理も頻繁に行っていました。しかし、1932年7月にニューヨーカー誌は、1917年にホムが亡くなって以降、この“数字めくり”式クロックの精度を維持するためにバースマンが孤軍奮闘していたことを紹介しています。“独創的なホムが亡くなるまで、クロックは完璧に時を刻んでいた。しかし、ホム以外は誰もその仕組みを理解できなかったようだ。彼が亡くなったあとは頻繁に誤作動や故障を起こすようになり、時にはバースマンが外に出て段ボールで恥を隠さなければならないこともあった”。下からは地下鉄トンネルから伝わる振動、上からは足音による絶え間ない妨害、さらに天候による経年劣化に晒されるクロックは、正確に時を刻むためには常に整備が必要だったのです。

1944年に刷新されたバースマン・クロック。

 ホムが亡くなり、新しいクロックに入れ替えることが最善の解決策だという結論に至りました。1940年頃、バースマンはホムのジャンピングアワークロックを、より伝統的なラウンド型クロックに変更しました。最初に設置されてから何度か変更が加えられ、大きな真鍮製のベゼルの追加なども行われましたが、これが現在でもダウンタウンの角にあるクロックになります。そして、写真家イーダ・ワイマン(Ida Wyman)が1947年に撮影した写真作品『サイドウォーク・クロック(Sidewalk Clock)』で不朽の名声を得たのも、このバースマンのクロックでした。


イーダ・ワイマンとサイドウォーク・クロック(1947年)

 イーダ・ワイマンが写真家になったのは偶然に近いものでした。ニューヨークで育った彼女は当初、看護師の道を歩むつもりだったのです。しかし彼女は成績優秀で高校を飛び級で卒業し、看護学校入学前の休暇中に写真に夢中になりました。高校のカメラ同好会ですでに撮影の基礎を学んでいた彼女は、自分のカメラを買うために貯金を始めました。しかしようやくカメラを手にすると、今度はフィルムの配給が滞るようになりこの欠乏が彼女の撮影スタイルを大いに形作ったのです。「何かを撮るときはほとんど1ショットでした。フィルムを無駄にするわけにはいかなかったから。多くてもせいぜい2、3ショットね」。彼女はそう回想します。この慎重で抑制された写真へのアプローチは、膨大な量の記録が可能なメモリーカードと長時間バッテリーを享受する僕たちにとってまったく異質なものです。

イーダ・ワイマン、2012年

 最近では珍しいことですが、かつては誰もが常にカメラを持っていたわけではありませんでした。1940年代にニューヨークを歩いていたワイマンはカメラを持ち歩くことが“小型犬や子供を連れて歩くようなもの”だったと回想します。カメラは人々に安心感を与え、同時に好奇心を掻き立てる存在だったのです。彼女が簡単に人々に近づき話しかけるきっかけとなり、そのプロセスこそが彼女の作品にとって非常に重要でした。ワイマンはニューヨークの街を歩き回ることに多くの時間を割き、『サイドウォーク・クロック』を撮る前にバースマンのクロックを何度も見かけていました。

サイドウォーク・クロック(1947年)

 ある日、マンハッタン南端部を散歩していた彼女は歩道に埋め込まれたクロックに目を引かれました。「素敵なクロックだったわ」と、彼女は懐かしそうに思い出します。「当時は風防も傷だらけではなかったのよ」。ニューヨークには(歩道にはなかったものの)多くの街頭時計があったため、公共の場で時刻を見ること自体は珍しいことではありませんでした。実際、「当時、腕時計を持っていた知り合いはほとんどいなかったわ」とワイマンは振り返ります。「父は結婚祝いにもらった懐中時計を持っていてチェーン付きで裏にイニシャルが入っていたの。時計を贈られるということは大人としての通過儀礼でもあった。あなたはもう子どもではないとね」。しかしこの特別なクロックの上を歩く人々の何かがワイマンを引きつけたのです。

 通勤途中の若い女性が通りかかった瞬間、ワイマンはシャッターを切りました。その女性のハイヒールとストッキングを履いた脚が、フレームの上半分を鮮明に映し出しています。写真の上端はもう一方の脚と影が占め、歩道に対角線状に並んだガラスのディスクの先に、周囲の舗道にひび割れを放つ、わずかに焦点のボケたクロックへと視線が導かれます。脚の躍動感と、静止した時計のダイナミズムのコントラストは、見る者を魅了します。

ほとんど判読できないほど傷だらけになった風防。

 僕がワイマンの写真に出合ったのは、2012年にニューヨークのユダヤ博物館で開催された“The Radical Camera: New York's Photo League, 1936-1951”展でした。この展覧会でサイドウォーク・クロックの文化的意義について尋ねられたユダヤ博物館の学芸員メイソン・クライン(Mason Klein)氏は、この写真を“ドキュメンタリー写真そのもののメタファー(象徴)”と呼びました。しかし彼は同時にこれを初期のフェミニスト写真、つまり第2次世界大戦の結果、ビジネスと公的生活の両面において女性の役割がますます重要になり、その役割が今後数十年にわたって拡大し続けることの象徴としても捉えています。

私はいつだってひたむきなドキュメンタリー写真家だったわ。この作品(サイドウォーク・クロック)は私にとって決してシンボルではなく、むしろ好奇心だったの。

– イーダ・ワイマン、写真家(『SIDEWALK CLOCK』、1947年)

 特にワイマン自身の経歴を考えれば、この解釈を受け入れるのは難しくありません。キャリアの初期、彼女はACMEニューズサービス社で働いた最初の女性でした。「私は彼らにとって初めての女性の郵便仕分係だったのよ」と、彼女は自嘲気味に笑いながら言います。とはいえ彼女はこの写真を撮るのにフェミニスト的な動機はなかったと主張します。「私はいつだってひたむきなドキュメンタリー写真家だったわ。この写真は私にとってシンボルではなく、むしろ好奇心だったの」

 そしてワイマンがその後、20世紀の写真発展において最も影響力のある組織のひとつであるニューヨーク・フォト・リーグのメンバーとして活躍したことは特筆すべき点です。メンバーはニューヨークに拠点を置く者が多く、ソル・リブゾーン(Sol Libsohn)や共同創設者のシド・グロスマン(Sid Grossman)、ジェローム・リーブリング(Jerome Liebling)、ジャック・マニング(Jack Manning)、アーロン・シスキンド(Aaron Siskind)、その他数十人のビッグネームが名を連ねていました。フォト・リーグはアマチュアとプロの写真家を結びつけ、写真に関する最初のわかりやすい講座を提供し、写真家がカメラを使って20世紀初頭の都市生活の現実を切り取ることを奨励しました。


バースマン所蔵の“サイドウォーク・クロック”アーカイブ

アーカイブブックに目を通すウィリアム・バースマンの総支配人、リチャード・グラナトゥール(Richard Granatoor)氏。

 バースマンのクロックに興味を持ったのは決してワイマンだけではありません。「このクロックについて書かれた詩や物語があるんですよ」と、ウィリアム・バースマン・ジュエラーの現在のゼネラル・マネージャー、リチャード・グラナトゥール氏は語ります。幸運なことに、この宝石店は19世紀最後の数カ月にクロックが設置されたときにさかのぼる新聞の切り抜き、広告、写真など、人々の魅惑を伝える素晴らしいアーカイブを保管しているのです。

バースマンが所蔵する“サイドウォーク・クロック”のアーカイブブック

このクロックについて書かれた詩や物語があるんですよ…それはロウアー・マンハッタンの数少ない名所のひとつなんです。

– リチャード・グラナトゥール - ウィリアム・バースマン・ジュエラーズ、ジェネラル・マネージャー

 1941年の地下鉄の広告には“私の街の変わったところ。ブロードウェイとメイデン・レーンにある宝石店の前の歩道にあるクロックは、毎日雑踏に踏みつけられているのに正確な時間を刻んでいる”とあります。1948年9月、ニューヨーク・タイムズ紙は“時は金なり。金融街の歩道がこの教訓を思い知らせる”というキャプションを添えた時計の写真を掲載しました。このクロックの解釈は何十年にもわたり何度も繰り返されています。

 ウィリアム・バースマンの時計は大きな話題となり、彼が海外を旅行した際にも尋ねられるほどでした。1932年7月16日付のニューヨーカー誌の記事によれば、“この時計はかなり評判になっているようだ。1928年、F.ウィリアム(バースマン)がカイロのホテルでチェックインを済ませたところ、受付係はすぐに店の外の歩道にクロックを埋め込んだバースマンの関係者ですかと尋ねたそうだ”。とあります。バースマンのクロックは都市伝説として世界中を駆け巡ったのですね。

ダイソンクロック - イギリス版バースマン

 当然のことながら、世界各地の宝石商もゴッサム・シティ(編注:ニューヨークの別称)の名所を模倣することにしました。イギリスのウィンザーにある宝飾店ダイソン&サンズは、バースマンと手紙のやり取りをしてまでそのクロックの模倣品を披露したのです。ダイソン社からバースマン社に送られた記録には偶然か意図的か、若い女性がダイソン社のクロックで自分の腕時計の時刻合わせをしている写真が残されており、その下半分はワイマンのサイドウォーク・クロックの構図に不自然なほど似ています。

バースマンの時計は当の宝石店が数軒先に移転したにもかかわらず、メイデン・レーンとブロードウェイの角にまだある。


クロックの未来

 ワイマンがバースマンのクロックをフィルムに収めてから時計業界は大きく変わりました。「何年も前のある日、私はニューヨークを歩いていて、ある紳士に時間を尋ねたの。彼が携帯電話を取り出したとき私は衝撃を受けたわ。携帯電話で時間を知るなんて思いもよらなかったから。最近はみんなそうなんでしょうけど」と、彼女は小さく笑いました。確かにクォーツ危機など、数え切れないほどの腕時計の“死”と“復活”が繰り返されてきました。時間の計測方法や使い方も大きく変わったのですね。

 「当時は何もしないことは時間の無駄とは見なされなかったのね」と、先ほどの話について詳しく聞いたときにワイマンは僕に語りました。彼女は少し切なそうにこの考え方がほとんど廃れてしまったことを嘆きました。よくも悪くも人生を秒刻みで計画し、予定どおりに進んでいるかどうか確認することは現代の私たちの多くにとって日常茶飯事となっています。

 HODINKEEでも以前から言われていることですが、機械式時計の魅力のひとつは時計の原動力が着用する人自身であることです。その機能はその人が時計をどのように身につけるかに影響され、時を刻み続けるためには文字どおりあなたの動きが必要なのです。そしてこれこそがバースマンの時計がニューヨークという街と築いてきた関係なのです。

 世界恐慌の暗黒時代、偶然にもホムが亡くなった直後、クロックは来る日も来る日も故障し不規則な動きをしていました。しかし第2次世界大戦に備え、時計は装いを新たにし再び規則正しく動き始めました。最近では、2001年9月11日の煙と逃げ惑う雑踏のなかでもクロックは時を刻み続けました。そしてハリケーン・サンディでマンハッタン南部が停電したとき、サイドウォーク・クロックも止まりました。しかしほんの数日後に停電が復旧し、期待どおりにクロックは息を吹き返したのです。

 バースマン・ジュエラーズはブロードウェイの数軒先に移転し、新しい店の前に置くためにレプリカのクロックを作らせました。しかし間もなくこの時計は足元ではなく、店の正面ドアの上に設置されることになりました。ニューヨーク市役所にクロックを表通りに埋め込む許可を求めたところ、当局の答えは簡単明瞭でした。それはニューヨークのサイドウォーク・クロックはひとつで十分だという回答でした。

 イーダ・ワイマンについての詳細は、彼女の公式ウェブサイトをご覧ください。ウィリアム・バースマン・ジュエラーズは現在もマンハッタン区内のブロードウェイ176番地にあります。