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最初に沈没船に潜ったのは私が20歳の時だ。私はまだダイバーではなかったが、それまでで最も大胆な冒険だった。その船は全長260フィート(約79m)の貨物船フランシスコ・モラザン(Francisco Morazan)号であり、ミシガン湖の無人島であるサウスマニトウ島から約300ヤード(約274m)ほど沖合に半ば沈んでいた。そこに行くには本土からフェリーに乗り、島を数マイル歩き、急な斜面を下って浜辺に降りて泳がなければならなかった。当時の私は泳ぎに自信がなく、水は氷のように冷たかった。友人のクリスと私は難破船までパドルで漕ぎ出した。錆びついた船の残骸が頭上にそびえ立ち、1960年に嵐で座礁して非業の最期を遂げた証拠にねじれた鋼鉄が見えた。私たちは破傷風やその他の危険を顧みず、ぎこちなくもギザギザにささくれ立ち鳥のフンにまみれたデッキに這い上がった。その日私は探検家となり、おそらく大人になったのだ。私の手首には、数年前にモールで買ったセイコーのダイビングウォッチがあった。
あの時計をまだ持っていればよかったのにと思う。厳密には“ダイバーズウォッチ”ではなかったが、ダイバーズウォッチを腕につけた最初の水中での冒険は私の人生を想像もしていなかった方向へ導いた。それ以来、私は腕時計を身につけてのダイビングを主な仕事にしてきた。2008年にスキューバダイビングの正式な資格を取得して以来600回以上のダイビングを行い、手首にはざっと数えて200種類以上のダイバーズウォッチをつけてきた。ニューヨーク・タイムズ紙でさえも、私のニッチな仕事についての記事を書いたほどだ。考えてみるとちょっと滑稽でもある。結局のところほとんどの人が知っているように、伝統的なダイバーズウォッチは(私たちが微力ながら正当化しようとも)もはやダイビングに本当に必要なものではない。しかしこれまでに使ったすべての時計から、いくつかの教訓を得たのも事実である。私は幸運にもフォッシルのブレーカー(覚えているだろうか?)からリシャール・ミルのRM-032まで、あらゆる時計を使う機会を得てきた。
技術的に時代遅れとなりつつあることを考えると、ダイビングウォッチのレビューには本当に意味があるのだろうか? 結局のところいいダイビングウォッチの基準は非常にシンプルだ。経過時間がわかること、視認性がいいこと、防水性が高いことだ。これまで一緒に潜ったダイバーズウォッチのうちいくつかは水漏れし、いくつかのベゼルは固結してしまったが、大部分は問題なく機能した。しかしより重要なことは、(この記事を読んでいるということはあなたもそうなのかもしれないが)私たちにはそれらの時計を使う過程で得たいくつかの教訓があるということである。
その時計が高価であればあるほど、期待する価値がある
ブランドからダイビング用にサンプルの時計を受け取る際は基本的に、責任を持ってその時計を元の状態で返却することを誓約する契約書に署名しなければならない。ブランパンやロレックス、リシャール・ミルなどの場合は署名するのに一瞬ためらってしまい、手のひらを汗ばませた。署名するにあたって私は、ダイビングが器材、特に手首に装着する精密機器にとって過酷なものであり、水圧だけでなく、塩分、砂、ギアへの引っ掛かり、ボートのはしごやスキューバシリンダー(酸素ボンベ)からの衝撃にさらされるものであることをはっきりと伝えてきた。ダイビングから生還しても(そして奈落の底に落ちていなければの話だが)、梱包材に包まれて自宅の玄関に届いた状態ではなくなっている可能性が高い。
まあ、これらはダイビングレビュー用であることを理解したうえで提供される広報用サンプルであり、私にとって実際の財政的リスクはない。しかし自分の時計でのダイビングも数多く行なってきた。それにはヴィンテージのチューダー サブマリーナーや希少なドクサ T-グラフなども含まれる。当然リスクは伴うが、私は破損や紛失のリスク(ちなみに私は1度も紛失したことはない)よりも、よくできたダイバーズウォッチを家に置いていくことのほうが恥だと考えている。結局のところ、より高価な製品にはより優れた性能を期待すべきではないだろうか? 1万5000ドル(日本円で約230万円)のフィフティ ファゾムスには、例えばブランパン×スウォッチのスキューバ フィフティよりも優れた素材、製造過程での配慮、徹底的なテストが施されていると私は思う。だからこそ、これらの時計は意図された用途で使うべきだ。よくできたダイバーズウォッチのほとんどは私たちが想像する以上に過酷な環境に耐えてきたし、これからも生き残っていくだろう。
素敵な時計には気を引かれるものだが、ダイビング中はそうあるべきではない
これは先ほど述べたことと矛盾するように聞こえるかもしれないが、私がここで言いたいのは、手首に光る腕時計を気にするあまり自身を危険にさらさないで欲しいということだ。ダイビングとは本質的に危険を伴う活動であり、人間が本来生存することを想定されていない過酷な環境に挑むものである。ダイビングの装備は生命維持装置であり、装着時やキットのチェックに注意を払い、そしてダイブプランや潜水データに留意しながら深海を泳ぎ回る必要がある。もし腕時計に過度に気を取られたり、水中でのリストショットを撮ることに夢中になってウェイトベルトを忘れたり、無減圧潜水限界を超えたことに気づかなかったりするのなら、腕時計はボートやホテルの部屋に置いておいたほうがいいだろう。手首の上の腕時計に集中していると、走るときに悪い膝をかばうようにいつもと異なる行動をとりがちで、それが原因で気が散ってしまう。しっかりとストラップを締めたことを確認してベゼルをセットしたら、あとは安全なダイブを楽しむべきである。
重要なのは時計ではない
以前にもHODINKEEで書いたことがあるが、前述の内容に関連する逸話がある。数年前、私はブランパンの招待で太平洋のレビジャヒヘド諸島への1週間のダイブクルーズに参加したことがある。このトリップの最初のダイブで、私たちは海底から突き出た岩礁“ザ・ボイラー”と呼ばれるポイントに飛び込んだ。私は1960年代初頭の非常に珍しいミルスペックのトルネク・レイヴィルを着用しており、潜降するときに私の目は手首に釘付けになっていた。それは時計への興味だけでなく、おそらくはケースに海水が入るのではないかという不安からでもあった。
私は短いセルフィースティックに装着されたGoProカメラで、この瞬間を写真に収めようとしていた。胸の前で腕を上げてカメラをこちらに向けたとき、目の片隅に何かが一瞬通り過ぎたのを捉えた。イルカだ。しかし待てよ、尾がふたつある。錯覚か? いや、2本目の尾は小さく、子どものイルカが子宮から出てきたタイミングだったのだ。母イルカは私の周りで水を蹴って羽ばたいているように見え、あたかもコミュニケーションをとろうとしているかのようだった。助けが必要なのか、単に私に興味があるのか、それとも新しい子どもを見せびらかそうとしているのか。いずれにせよ私はそのダイブの残りの時間、腕時計のことをすっかり忘れてしまっていた。そのダイブの残りの時間では、巨大なマンタやジンベエザメも見た。最も記憶に残っている水中での1時間のあいだ、トルネク・レイヴィルは脇役にすぎなかったのだ。
ダイバーズウォッチの最も重要な機能は、冒険の思い出を蓄積し、未来の冒険への意欲をかき立てることである
おそらくこの一連のストーリーから、ひとつの傾向が見えてきただろう。今日ではデジタルのダイブコンピュータが主流であり、これひとつで減圧時間から水深、水温、心拍数まですべてを記録し、アプリと同期して後で人に自慢することまでできるため、ダイバーズウォッチにはほとんど役割が残されていないように見える。しかし、潜水時間計測のための装備である必要がなくなったことで、ダイバーズウォッチはより抽象的ではあるが重要な機能を果たすことができるようになったと私は主張したい。深海の沈没船にダイビングしたり、出産中のイルカと泳いだりした翌週にデスクで手首を見下ろすと、それらの体験がささやかながら自分だけの思い出としてよみがえる。傷ついたスティール、色あせたベゼル、スイープする秒針はいつだってあなたとともにあった。その時計は常に身につけているものであり、だからこそ人生の思い出を集積していく究極の収集物となるのだ。そしてそれが、次の冒険を計画するきっかけになる。20歳で最初の沈没船に潜って以来、私にとってずっとそうあり続けてきた。最初のセイコーがまだ手元にあればよかったのだが、それ以来数え切れないほどの時計と冒険を繰り広げてきた。そして私の冒険はまだ終わっていない。