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In-Depth ブリッグス・カニンガムの驚くべき数々の時計(と車)たち

時計に興味をもつ理由は無数にあるが、そのうちの1つは、手首に着ける小さな機械が、実際に偉業の目撃者になるかもしれないということだ。

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時計に興味をもつ理由は無数にあるが、そのうちの1つは、手首に着ける小さな機械が、実際に偉業の目撃者になるかもしれないということだ。どんどん増える英雄たちと彼らが使っていた時計の中で、今日のテーマとなる人物は、例えばニール・アームストロングと彼のオメガ スピードマスターといった、探検への貢献に迫るものではなく、またポール・ニューマンと彼のデイトナといった、広大なコレクションの世界での重要性に迫るものでもない。ブリッグス・カニンガムはまた違ったタイプのアメリカンヒーローだ。カニンガムの名前は、モータースポーツや水上レース、高級時計や車のコレクションといった世界の中でも超がつくレベルのマニア以外にはほとんど知られていないかもしれない。しかし、詳しく知る人にとっては、ブリッグス・カニンガムと彼の特注の腕時計やスポーツカーのコレクションは、紛れもない伝説となっている。今日は、そういったコレクションを詳しく解説していこう。


ブリッグス・カニンガムとは何者か、なぜ私たちは彼に興味を持つのか。

 カニンガムは、鉄道、公共事業、不動産といった産業で富を築いたシンシナティの名家に生まれた。そのような財産は、19世紀後半のアメリカであったからこそ築くことができた種類の財産だった。カニンガムの父、ブリッグスシニアは、この財産を使って、2人の男が立ち上げた小さな「浮き石けん」の会社にごく初期の段階から投資。この会社はウィリアム・プロクターとジェームズ・ギャンブルが立ち上げ(P&G)、入浴に革命をもたらす石けんだと謳っていた。いかにも、カニンガムは裕福に生まれたが、それは彼が怠け者に生まれたということではなかった。

 実際、カニンガムは自らの活動の追求に人生を捧げたと言ってもいいだろう。カニンガム自身も、彼と同じように恵まれた花嫁(彼女はスタンダード・オイル社の重役の娘だった)も、そんな活動と関わる必要があったわけではない。しかし、2人とも熱心なスポーツマンであり、一説によると結婚した時には歴史上最も裕福なカップルの一組であったと言われているが、彼らは何をするにしても、自らの人生や後に残るものを恐れなかった。今日、彼らの話をする理由はそこにある。

1954年4月26日、タイム誌の表紙を飾ったブリッグス・カニンガム。

 カニンガムは1958年の国際ヨットレース「アメリカズカップ」でチームのスキッパーを務め優勝した。カニンガムはヨットのリギングシステムを発明。これは現在でも使用されていて、彼の名前にちなんで、カニンガムと呼ばれている。カニンガムは独自のヨットやパワーボートを製作。アメリカ初のフェラーリのオーナーで、史上1台目のメルセデス・ベンツ300SLガルウィングのオーナーとしても知られる。彼は、独自にル・マンの基準に適合した車を作っていたが、それは後に紹介しよう。そして偶然にも、カニンガムは非常に熱心な時計購入者で、1950年代に生まれた最も美しく機能的な時計を2本注文していた。では彼の時計を見てみよう。


ブリッグス・カニンガムのステンレススティール製パテック フィリップ

 カニンガムがセーリングや自動車に関する自らの活動に精通していたとしても、時計の世界における彼の伝説的な地位は純粋に偶然だったと言えるだろう。今日でも、カニンガムという名前は時計コレクターにとって、同時代を生きたグレーブスやパッカードと違い、ほとんど知られていない。実際、今日の筋金入りのヴィンテージウォッチの愛好家でさえ、カニンガムが遺した時計をよく知らないかもしない。それは単に、2本あるカニンガムの最も特別な時計が、ほぼ10年間公に姿を表さなかったからだ。カニンガムの時計の中で最も価値の低い、しかし確かにカニンガムが最初に身に着けていた腕時計は、近年、他の2本よりも目にする機会がある。

Ref.565 ブレゲ数字文字盤 - 2015年頃 、フィリップス・ジュネーブ時計オークションで、10万スイスフランで落札

 カニンガムは、パテック フィリップの時計を3本所有していることで知られていて、その全てがステンレススティール製だ。うち2本はカニンガムのために特別にデザインされた特注品であり、残りの1本は標準モデル。しかし、この標準モデルは、ブレゲ数字のステンレススティール製Ref.565カラトラバであり、私たちの多くにとって標準とはほど遠い時計だ。この時計は、他の2本の時計よりも前の1949年に製造・販売されている。

このRef.565は裏蓋にカニンガムの名前が刻印されている。

 この時計の面白い所は、戦時中はスティール製の時計が流行していたが、この時計は戦後に作られた時計ということ。そして、今でも新品同様であるということだ。さらに、現在とは違い、当時はスティール製の時計は人気がなく、裕福な男性がゴールド製の時計よりもスティール製の時計を選択する理由は全くもってなかった。もちろん、それがブリッグス・カニンガムという非常にアクティブで、一流のアスリートでない限りは…。そうであれば、もちろん、ゴールド製よりもスティール製の方が理にかなっているだろう。この時計は1949年の誕生以来、非常に良好な状態にあり、2015年5月に開催されたフィリップス初のジュネーブオークションで、10万スイスフラン(約1100万円)で落札された。 

 確かにこの時計は、希少性、品質、そして来歴の点では世界一流だが、その重要性はまた、カニンガムがパテック フィリップから次の2つの時計を購入するきかっけになったという事実による所が大きい。

Ref.1463 クロノグラフ 夜光塗料を施したブラックダイヤル - 現在150万ドルで売りに出されている

 次に紹介するカニンガムのスティール製パテックコレクションの時計は、間違いなく特注品のRef.1463クロノグラフだ。このRef.1463は、夜光塗料が塗布されたインデックスと針を備えたブラックダイヤルという点で唯一無二の時計となっている。こちらもステンレススティール製で、最初に市場に現れて以来、神話的な存在を確立している。これまでに発見されたブラックダイヤルのRef.1463はこの時計を含めて2本しかない。 

カニンガム、チーム・ドライバーのフィル・ヒル、そしてカニンガムの300SL。カニンガムの手首にあるブラックダイヤルRef.1463に注目。

 その明らかな希少性に加えて、この時計が非常に興味深いのは、カニンガムがこの時計を最も頻繁に身に着けていたと思われること。ラジウムの夜光塗料が塗布されたダイヤルと針の視認性の高さ、スティール製の防水ケースの堅牢さ、クロノグラフ機構を備えていてカニンガムのライフスタイルに合った機能性、非常に理にかなっている。1950年代のカニンガムの写真を見ると、ドライバーのフィル・ヒルと一緒に写っている上記写真(1955年頃)のように、彼の手首にはブラックダイヤルのクロノグラフが装着されているのがよく見られる。この300SLは、実際に市販された最初のガルウィングで、時計は2つとないスティール製のブラックダイヤルRef.1463だ。カニンガムはよく分かっていたのだというのは少し控えめな表現だろう。カニンガムが長い間、私の憧れの存在でいる理由はこうしたことからだ。

前回、1996年にオークションに出品されたカニンガムのRef.1463。

ここでも、2つとないスティール製パテック クロノグラフを着用しているカニンガム。

 カニンガムのRef.1463が前回、公の場で売りに出されたのは1996年6月、ニューヨークのクリスティーズでのことだった。この時計は非常に重要なコレクターが落札した。その人物はジョン・ゴールドバーガー氏にこの時計を貸し出し、ゴールドバーガー氏はステンレススティール製のパテックに関する書籍(上記の例はこの本から借用したもの。ここで入手可能)を出版する際に、298~299ページにこの時計を掲載した。最近、このRef.1463のオーナーは、ヴィンテージ時計の一流ディーラー、ダヴィデ・パルミジャーニ(Davide Parmegiani)氏にこの時計を委託し、150万ドルで売りに出している

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パーペチュアルカレンダー Ref.1526 - 2008年頃、ジュネーブのクリスティーズで、395万6159ドルで落札

 ミリタリー調ブラックダイヤルのスティール製Ref.1463に勝るものなどあるのだろうか? ある。それは、カニンガムが1951年に受け取った時計だ。これはRef.1526で、パテックの最初の連続生産されたパーペチュアルカレンダーとしても知られているが(覚えていますか?)、なんとスティール製なのだ! しかも、このRef.1526は他のRef.1526とは異なり、ケースが大きく、厚みがあり、ラグ幅が広くなっている。スティール製のパーペチュアルカレンダーは2本しか作られておらず、この時計はそのうちの1本。アラビア数字のインデックスはブラックラッカーでコーティングされている。なんてすごいのだろう。

このRef.1526は間違いなくパテック フィリップによって作られた最も美しい時計の1つ(私見では)であり、2008年にクリスティーズを通して売り出された時には、とんでもない値が付いた。この時計は4,137,000スイスフランで落札され、それは当時395万6159ドルという驚異的な金額に相当した。誰が落札したのか?他ならぬパテック フィリップが落札し、この時計はパテック フィリップ美術館に(時折)展示されている。


ブリッグス・カニンガムの車の数々

 もし、ある男性が、時計そのものや時計の収集にはほとんど興味がないにもかかわらず、上記3本のパテック フィリップの時計を所有していたら、その男性が人生で最も重要な時期を捧げた分野である自動車で何をするかを想像してみて欲しい。 

1948年式フェラーリ ティーポ 166スパイダー・コルサ - アメリカ初のフェラーリ

写真提供:レヴズ・インスティテュート(The Revs Institute)

 この1948年式フェラーリ 166スパイダー・コルサもやはり、意図的にではなく、必然的にカニンガムが所有することになった。カニンガムは1949年のブリッジハンプトンでのレースを目標にしており、ジャガーXK120でレースに臨もうとしていた。しかしレースが近づいた時、彼はジャガーから車の準備が間に合わないと告げられ、代替品を探していた。どんな代替品でも良かった。幸いにもフェラーリ輸入業者のルイジ・キネッティの協力を得て、カニンガムはすでにレースで優勝していたこのフェラーリを彼から買うことができたのだ。このフェラーリは、多くの人がアメリカに輸入された最初のフェラーリであると信じている。また、このフェラーリはカニンガムの友人、サム・コリアーの命を奪うことになった。コリアーは1950年のワトキンス・グレン・グランプリで亡くなり、このフェラーリはレースから引退した。この車は現在コリアー・コレクションで保管されていて、ここで見ることができる。

1950年式 キャデラック・ル・モンスター - ル・マン初のアメリカ車

 カニンガムはル・マン24時間レースに世界的な魅力を感じていて、1950年にはアメリカ製のマシンでアメリカ人初の参戦を果たした。カニンガムは「ル・モンスター」という愛称で親しまれている車で参戦した。ル・モンスターは、くさび型でキャデラック製エンジンを搭載したモンスターマシンだ。サンドバンク(コース脇に盛られた砂)に突っ込んだこともあり、彼は友人のコリアーに遅れて11位でフィニッシュしたが、その大きくて派手なマシンはファンの人気を集めた。この車は2012年のル・マン・クラシックに出場した。この車も、やはりコリアー・コレクションで保管されている。

カニンガムC-1とC-2(R)

 カニンガムの最初のル・マン参戦はそれなりに成功したが、彼はもっと上を目指していた。カニンガムは、自分の名前でゼロから車を作り、レースに出場して勝ちたいと考えていた。C-1とC-2(R)はカニンガムによる最初のデザイン・トゥ・ドライブ(自ら設計し、自らハンドルを握る)プロジェクトであり、この2台はアメリカン・モータースポーツの真の伝説となった。これらの車のプロトタイプはキャデラックのエンジンを搭載していたが、すぐに180馬力のクライスラー・ヘミエンジンに変更された。1951年にワトキンス・グレンが開催される頃には、エンジンはとてつもない出力の250馬力までチューンナップされていた。1951年に250馬力を達成していたのだ! このうち5台がル・マンに参戦した。うち1台はミュルサンヌ・ストレートで時速152マイル(約245キロ)を記録し、一時は2位にまで上り詰めた。最終的にカニンガムはコネクティングロッドの故障により15位でフィニッシュしたが、この計画は成功したと考えられている。後に、私の個人的なC-2の体験談をお話しする。

カニンガムC-3 - 1953年における高級感とパフォーマンスの頂点

写真提供:RM Sothebys

 カニンガムはル・マンでの勝利を目標にしていたが、同時にアメリカ製の市販のスポーツカーがフェラーリやマセラティと競い合う日を夢見ていた。C-3はそんなコンセプトをもとにした彼のアイデアだった。C-1とC-2というレースカーのシャーシをベースにしていたが、コーチビルダーのヴィニャーレによるボディワークと「高級感がにじみ出ている」インテリアを特徴としていた。唯一の欠点は1万5千ドルという当時としてはとてつもない価格設定だった。このような価格となった要因の1つは、パームビーチのカニンガム・モーターズの工場からシャーシを輸送し、トリノでボディワークを行い、そして最終仕上げのためにパームビーチに送り返していたためだった。わずか30台しか生産されなかったために、IRS(国税庁)からカニンガム社の自動車メーカーとしての地位が剥奪され、資金繰りが悪化した。この車は、今でもコレクターズアイテムとして扱われており、売りに出されているのを見ることはほとんどない。

カニンガムC-4、C-5、C-6 - ル・マンの常連モデルたち

1953年のル・マンで3位に入賞したカニンガムC-5R(写真提供:レヴズ・インスティテュート)。

 カニンガムはC-4、C-5、C-6カニンガムで、アメリカの自動車メーカーとしてル・マンでの勝利を追い求め続けた。1953年にC-5Rをドライブしたカニンガムはレース前から人気を集めていた。何しろ、カニンガムは1952年のレースで300SLメルセデス2台とナッシュヒーリー1台に次ぐ4位に入っていたからだ。カニンガムは、競争力に自信を持てる車を作り、それは間違いではなかった。しかし、カニンガムが想像できなかったのは、ジャガーがディスクブレーキを採用したことがレースにどのような影響を与えるかということだった。カニンガムをはじめとする他の車は、ジャガーCタイプのストッピングパワーに太刀打ちできなかったが、C-4Rが3位に入り、ジャガーによる表彰台独占を阻止したのだった。

1954年式 メルセデス・ベンツ300SL - 史上初のガルウィング

 今日のメルセデス・ベンツ300SLは、デザインとエンジニアリングの象徴であると同時に、コレクションの象徴でもある。ガルウィングを所有すればトップクラスの自動車愛好家になれるが、当時それは必ずしもそうではなかった。実際、初期の輸入業者マックス・ホフマンがメルセデスを説得し、この車が製造された時、彼は最初の1台はある種の有名人が受け取ることになるとメルセデスに約束していた。その有名人は偶然にも、アメリカズカップで優勝した億万長者、ブリッグス・カニンガムという名のプロドライバーだった。車台番号003(001と002は実際には003の後に工場から出荷された)がカニンガムに渡ったという事実がとても興味深いのは、まず、カニンガムが当時、独自の市販車やレーシングカーを作っていたこと(上記参照)と、W194ベンツ(300SLのベースとなった車)のパワーとバランスを熟知していたことが分かっているからだ。カニンガムは1952年のル・マンでW194ベンツに敗れている。

 この初代300SLは、他の車とは全く異なるもので、間違いなく人の手によって成形されたボディ、アルミニウムではなくマグネシウムで作られた多くの部品、少し短いシャーシ、短い縦型シフトレバー、固定式(チルト機能のない)ステアリングホイールなどが特徴となっている。これらの特徴は、カニンガムがサーキットでの走りの良さを追求するために求めたものもあれば、単にメルセデス・ベンツの市販前製品の特徴と言えるものもあった。 

 初代300SLの重要性は今でも明らかで、米国歴史的車両記録簿(National Historic Vehicle Register)にも登録されているが、当時ははっきりとその重要性が認識されているわけではなかった。カニンガムは、この大きなメルセデスよりも、自分で作った車や予備のジャガーでレースをすることに興味を持っていた。彼のチーム・ドライバーの1人、フィル・ヒルはカニンガムの300SLでレースに参戦したが、大した成果はなかった。1956年までに、この車はすでにカニンガムの友人に売却されていた。その友人はこの車でかなりの結果を残した。この車は、現在の所有者、デニス・ニコトラ氏の元に来るまでに、さらに数回持ち主を変えることとなる。ニコトラ氏は2014年にこの車をオークションに出品したが、入札は350万ドルの最低落札価格に届かなかった。350万ドルは、大まかな見積もりで、オークションでの平均的な300SLの落札価格の約2倍となっている。繰り返しになるが、この車がカニンガムの元にあったのは2年に満たないとしても、166フェラーリと同じように、このような重要な車を注文した彼の先見性には驚かされる。 

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1960年式ル・マン コルベット

 1955年は、カニンガムが自分の車を使ってル・マンに参戦した最後の年だった。またこの年は、80人が死亡する大事故が発生し、ヨーロッパのすべてのレースに終わりが訪れるところだった。カニンガムはこの事故に関わっていないと主張している。1950年代の後半には、ジャガー、OSCA、ポルシェなどでアメリカでのレースを成功させた後、ル・マンでのルール変更に伴って、より大きなエンジンと、その後アメリカの偉大なスポーツカーとなったコルベットのような“GT“スタイルのマシンでの参戦が可能になった。1960年、カニンガムはコルベットのチームを編成してル・マンに参戦。結果、総合8位というそれなりの成績を収めた。コルベットに施されたカニンガムのカラーリングは、それ自体が象徴となっていて、シボレーは公式には関わっていないが、34分のミニドキュメンタリーを制作した(ここで閲覧できる)。この車は、近年では、長い間、行方不明になっている1台の所有権をめぐり、何年にもおよぶ訴訟が続いていることで最も有名になっている。


カニンガムとその遺産

 カニンガムは1961年にマセラティでル・マンに復帰し、4位に入った。1962年には軽量のジャガーに乗り、3台のフェラーリ(うち2台は250GTO)に次ぐ4位に入る。1963年、カニンガムは最後の挑戦としてル・マン優勝を目指し、再びジャガーで参戦。カニンガムは9位に終わり、長いヨーロッパでのレースキャリアの幕を閉じることになったのである。1963年のレースを完走したカニンガムは、長年の激しい競争と紳士的な態度が評価され、ル・マンの名誉市民権を与えられた。カニンガムはカリフォルニアにモータースポーツの博物館を設立している。彼のコレクションは、最終的には彼の友人であるサム・コリアーのコレクションと統合し、現在はレヴズ・インスティテュート(The Revs Institute)にある。カニンガムは2003年に96歳で亡くなった。

 私がいつもブリッグス・カニンガムの話に魅力を感じるのは、2つの要素があるからだ。1つ目は、彼がアメリカのスポーツマンであり、自分のやり方で物事を進めたということだ。最高の収集価値がある時計や車の世界では、私たちはしばしば偉大なイタリアのデザイナーやスイスの起業家の素晴らしさに魅了されている。私自身、他の誰に劣ることなくそうだ。だからいっそう、アメリカの名家の誰かがこのような努力をしているのを見るのは素晴らしいことだ。カニンガムがレースの初期に成し遂げたことは驚くべきことであり、アメリカのモータースポーツに与えた影響は計り知れないものがある。たとえ、カニンガム自身にとっては本質的に取るに足らない存在だった国内最初のフェラーリと300SLの2台を見るだけでもそう言うことができる。次に、カニンガムのレーシングチームによる貢献がある。20世紀にアメリカ人が行った最も重要な取り組みの1つであることは間違いない。カニンガムなしでは、シェルビーもGT40もなかった。もちろん、ル・マンのコルベットも存在しなかった。

 最後に、カニンガムの時計について言うと、彼が裕福で趣味の良い人物であったことは明らかだが、最も魅力的なのは、この3本の時計がすべてスティール製のパテックで、うち2本は7桁台(100万ドル以上)の価値がある唯一無二のものだったが、彼にとっては単なる時計だったということだ。なので、しばしば、我々がメガウォッチと呼ぶ時計の元の所有者と出くわすと、彼らはどれほど彼らの時計に対して関心があるかに驚く。まるで時計をとても高く評価している私たちが常識はずれのような扱いだ。いや、間違いなく私たちの常識はおかしい。というのも、カニンガムがパテックを購入したのは、いつかスイスの博物館に展示される宝物になると思って購入したのではないからだ。カニンガムはこれらの時計が自分のライフスタイルに合っていて、気に入ったから購入したのだ。そして、それは私たちが尊重しなければならないことだだろう。

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カニンガムC-2Rで1000マイル(約1609キロ)のドライブ

 長らく、ブリッグス・カニンガムのことを書いてみたいと思っていたが、まさか彼の車を実際に体験する機会があるとは思ってもいなかった。そして、ご存知のように、私はコッパーステート(Copperstate)1000に参加した。参加車の1台? そのとおり、ル・マンを走ったカニンガムC-2Rで参加したのだ!

 1951年のル・マンで一時2位を走った車で、他ならぬこの車はペブルビーチ・コンクール・デレガンスでクラス優勝も果たしている。さらに、オーナーのT.G.ミットラー氏はこの上なく親切で、この車のことをいろいろ教えてくれた。1980年代にミットラー氏の父が購入して以来、この車はずっとミットラー氏の家族と共にある。

 C-2Rは1000マイルを走りきり、不思議なほどに上手く行ったことをお伝えしただろうか。これが一番驚くべきことだ。この車は世界で最も重要なカーショーで優勝し、次の週末には砂漠を駆け抜けるという二重生活を送っている。 

 これは、アリゾナの砂漠を疾走する 1951年式カニンガムC-2Rだ。カッパーステート1000に出ていた車の中でこの車が一番興味深かったと言わなければならない。なぜかは分かっていただけると思う。


車と時計を作っていたアメリカ人が他にもう1人いたことをご存知だろうか。

 カニンガムの車と時計は、その時代にしては他に類を見ないものだったが、戦後のアメリカで、モータースポーツと時計の天国を追求していたのは彼だけではなかった。もう1人の紳士、S.H.アーノルトはシカゴで外国車の代理店をしていた。彼もまた、アメリカ市場向けにレース仕様の車を製造していた。 

 アーノルトは車を作って販売するだけでなく、それに合わせて特大のクロノグラフも作っていた。アーノルトの時計は直径52mmで、14リーニュのバルジュー・ムーブメントを搭載していたことは、もう言っただろうか。彼の時計は非常に珍しく、前回、売りに出されたのは2011年のアンティコルムで、その時計はなんと懐中時計に改造されていたのだ!

 明らかに、これらのクロノグラフはジャケットの上から装着するためのもので、個人的にダイヤルの「WARSAW INDIANA」の印字がとても気に入っている。アーノルトの車は致命的な事故の後、1960年までに生産中止となり、アーノルトはカニンガムのような幅広い賞賛を受けることはなかった。それでも、1950年代にもう1人のクレイジーなアメリカ人が車や時計を作っていたことを知ると、とてもいい気分になる。


謝辞

 この記事と情報は、ブリッグス・カニンガム財団(Briggs Cunningham Foundation)、BriggsCunningham.comのローレンス・バーマン氏、レヴズ・インスティテュート(the Revs Institute)、そして最も重要なことにジョン・ゴールドバーガー氏の助けがなければ実現しなかっただろう。