2019年7月20日、人類初の月面着陸50周年を記念し、オメガは手巻きクロノグラフ Cal.321を搭載する初めての時計を発表した。初期型スピードマスターで使われたCal. 321は、アポロ計画の乗組員が着用したスピードマスターにも採用されたものだ。「145.012」はCal.321を用いた最後のスピードマスターだったが、生産は比較的短期間に終わっている(主に1967〜1968年の間に生産され、1969年には数本にまで減産された)。
1962年、ウォルター・シラー(Wally Schirra)がマーキュリー・アトラス8号で着用した「2998」に搭載され初めて宇宙へ持ち込まれたキャリバー 321は、その後有人宇宙飛行で幅広く使われた「145.012」でも、名高い腕時計に命を吹き込むムーブメントとして、その類いまれな堅牢性と信頼性を証明するに至った。
Cal. 321の生産を再開するとの発表は、ファンからの熱狂をもって迎えられたが、いくつかの留意事項がある。最新技術の許す限り元のムーブメントを忠実に再現した新型 Cal. 321を、コードネーム「アラスカ」の下で開発したオメガは、2019年1月に行った最初の発表で、「製作にかかるあらゆる作業はキャリバー 321の専用工場で行います」と宣言。また「ムーブメント、ブレスレット、本体の組み立ては、同じ時計職人が担当します」とも述べている。「アラスカ」とは、もともと宇宙探索で用いる新しい時計デザインの可能性を探る、プロトタイプ製作プロジェクトに使われていたコードネームだ。時計愛好家は、今後数ヵ月でさらなるニュースと事の進展を期待できるだろう。
さらに今年、オメガは既存のスピードマスター ムーンウォッチに搭載するムーブメントの改良モデルを生産することを発表した。現行ムーブメントのキャリバー 1861に仲間入りする新型 Cal. 3861は、レバー・カム式クロノグラフ制御機構はそのままに、新たな特徴として「マスター クロノメーター認定」(1万5000ガウスの対磁性能を含む)と同軸エスケープメントが加わっている。これにより、ムーンウォッチの手巻きムーブメントには、それぞれ個性を持つ3つのキャリバーが揃うことになる。これまでのところ、 Cal. 3861を採用する時計は、アポロ11号50周年記念限定モデルと、 ゴールドのアポロ11号記念モデルに限られており、通常モデル(かつNASAに正式採用)のスピードマスター ムーンウォッチ クロノグラフ(311.30.42.30.01.005)については、引き続き Cal. 1861を搭載する。
宇宙へ飛び立つ機会をうかがう Cal. 3861に対し、その先輩にあたる Cal. 321と Cal. 1861は、既に有人宇宙飛行で幅広く使用されている。これらは、EVA(月面歩行と月面探査)で使用された唯一のキャリバーである。これ以外にも、X-33が有人宇宙飛行に正式採用されており、広く活用されていることは、心に留めておきたい。
Cal. 321の生産再開が発表された時点での情報によれば、Cal. 321とCal.3861が当面は特別で高級な時計に限って使用されることは明らかである。一方、Cal.1861は今後もスピードマスター用ムーブメントのメインとして、活躍を続けるだろう。案の定だが、Cal. 321初搭載のスピードマスターは、多くの意味で「高級」な時計となっている。
この記事のためにオメガが用意してくれたプロトタイプを見れば、息を飲まずにはいられないだろう。通常モデルや限定モデル、これまで多種多様な形態で世に送り出されてきたスピードマスターは、長い歴史を経て、今も変わらず静寂の美を称え続けている。優雅で品格に満ちたその姿を強調するのは、金を配合したPT素材だ。
現代ストリートスナップの創始者ともいわれるアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)は生前、このような発言を残している。「実際のところ、二度以上見たいと思える写真がこれまで何枚ありましたか?」。デザイン界のどれにでも当てはまる指摘である。
だが、スピードマスターは色褪せない。ゴールドのスピードマスターは誰の目にも多少派手な印象を与えるものだった一方、PTはより控えめな姿だが、ジェットブラックのオニキス製文字盤や、本物の月の隕石からできたサブダイヤルを備えたことにより、 Cal. 321 PTが、標準モデルのスピードマスターに間違えられることはないだろう。手に取って装着すると、ずっしりとした重さがラグジュアリーなステータスを肌に感じさせてくれる。
どこか澄ました吹雪の魔女を思わせるこの時計は、その印象を和らげる要素がなかったならば、A.ランゲ&ゾーネの時計のように、人を寄せ付けない雰囲気をまとっていたことだろう。重量感のあるPT、ブラックホールのように光を飲み込むオニキス製文字盤、キズひとつないセラミックベゼル。ひんやりとした空気感を醸し出す特徴には事欠かない時計だが、こうした雰囲気を和らげるのにひと役買っているのがメテオライト製のサブダイヤルだ。さらに宇宙の深遠さを視覚で訴えるのと同時に、宇宙探索におけるスピードマスターの歴史を称え、初期の宇宙飛行でスピードマスターと Cal. 321が果たした役割を、今に伝えている。
このムーンウォッチに込められた意義はもちろん、 Cal. 321が、いかに大きな象徴的重要性を帯びているかを目に見える形で表現することだ。ムーブメントは、部品・構成・仕上げ共にオリジナルの仕様を厳密に踏襲しており、またその部品はすべて、昔の在庫部品に頼ることなく一から作り直している。歴史あるムーブメント作りを通じて、 Cal. 321を非常に魅力的なビジュアルを持つ水平クラッチ式クラシック・クロノグラフ・キャリバーに仕上げたのだ。オメガの誠実性は、かくして証明されたのだ。
多大な時間と労力、集中力を注ぎ込み、ジュネーブの伝統的な高級時計作りは通常、宝石のように煌びやかな質感を施す。しかし一方で、 Cal. 321は職人的な質感を感じさせる。ギルト(金色)仕上げのプレート、ブリッジ、テンプ受けが、ヘアライン仕上げやミラー研磨の部分とコントラストになり、ムーブメントに深みを与えている。グレー・ブラック・ホワイトからなるロジウムプレートのムーブメントでは得がたい深みである。
Cal. 321は、1942年に発表されたCal. 27 CHRO C12に基づいたものである。後にレマニアのCal. 2310としてよく知られているが、同キャリバーは今日でも、ブレゲやヴァシュロン・コンスタンタンが、ハイエンド・クロノグラフムーブメントの下地として使用している。
ヴァシュロン・コンスタンタンは、完全自社製のクロノグラフ・ムーブメントに加え、 Cal. 2310を元にクロノグラフキャリバー 1142を開発している。並べてみると、ムーブメントの構造や全体的な配置が似通っていることに気づく。しかし、2台のムーブメントには大きな相違点もある(ご覧の Cal.1141は、HODINKEE の コルヌ ドゥ ヴァッシュ 限定モデルのスティールケースに収められている)。2台の設計には機能的・構造的な違いが多数あるが、最も分かりやすいのは仕上げの方法だ。Cal. 1142は、あくまでジュネーブの高級時計作りに徹しており、素材の質の高さや組み立ての精密さを除けば、ムーブメントに価値を与える要素といえば、プレートとブリッジの面取りをポリッシュで仕上げていて、ねじ穴のカウンターシンクに鏡面仕上げが施され、ネジがブラックポリッシュされている。(いんげんマメ形のテンプ受けなども)
このスピードマスターは、他のものとは持つ価値が完全に異なる。基本構造は共通だが、今では珍しくなってしまったムーブメントを再現するどころか、復活といえるほどの緻密さで蘇らせているのだ。
Cal.321のオリジナルモデルは、今日の我々が考える「量産型ムーブメント」ではなかった。素材、精密な製造、組み立て、調節、精度調整において、手間があっても妥協を許さない姿勢を貫いた。当時の時計作りの世界には、最高品質のムーブメントを、ヴァシュロンやオーデマ ピゲ、パテック フィリップ(あるいは今日のブレゲ)に見られる、豪華絢爛な装飾を施すことなく仕上げることに、価値を見出す素地があったのだ。
ムーブメントの再現には相当な苦労があった。 Cal. 321搭載のスピードマスター(ユージン・サーナン(Gene Cernan)飛行士が月で最後に着用した)をCTスキャンで撮影したオメガは、レマニアの設計に立ち返るため、図面の内容を調べ上げた。レバー・エスケープメントの各部を再現する際、レバーのガードピンをイチからリバースエンジニアリングする必要が生じたりなど、想定外の技術的課題も発生した。新型Cal. 321では、オリジナルモデルを改善した部分はプレートのみである。
元のCal. 321では耐久性を高めるため、銅以外の化学物質を含有することで純銅より高い耐食性を持たせるコーティング(銅メッキ)を採用していたが、新型Cal. 321はメッキ素材として、セドナゴールドが選ばれている。新型Cal. 321は、カップリングクラッチにも、オリジナルモデルと同じ素材を用いている。緑がかった白に近い色合いをしているが、これはメッキではなく、ジャーマンシルバーだ。
この時計の面白さは、動作の仕組みにある。決まり切った原則にしたがい、滑らかに滞りなく歯車を動かすことを、クロノグラフの動作の本質とみなしてはならない。これほどスタート、ストップ、リセットの動作に、楽しみを感じさせてくれるクロノグラフがあっただろうか。ごく一部のメーカーしか到達し得ない最上品質のクロノグラフ。その希少な一本を手にした自分を想像してみて欲しい。
製造とデザインの質の高さ以外にも、組み立てと調節作業は時計のクオリティに大きく貢献する要素だ。優れた製造方法や設計、デザイン、そして職人技を結集させることで、非常に満足度の高い官能的ともいえる体験を、期待通りに実現できるという事実を、目で見て感じ取ることができるのだ。
これ程贅沢な作り方だが、費用がかさむことから、全く妥協を許さない形で、同じ体験を実現できることは稀である。
ムーンウォッチを抱えたオメガが、今後復刻モデルの道筋をどうつけていくのかは、推測の域を出ない。 Cal. 321は、組み立てと調節に非常に高度な職人技を用いていることから、ケースの素材に関わらず、当面は特別なモデル向けの限定したキャリバーにとどまる可能性が高い。
さて、実用性が高く宇宙飛行に正式採用され、幾多の試練を経たCal.1861のメインムーブとしての立場は盤石なようである。一方、マスター クロノメーターとMETAS認定済みのCal.3861は、Cal.1861が誇る長年の歴史を同軸エスケープメントやここ20年間のオメガの研究成果と結びついたことで、最新世代のキャリバーとしては“中間的な”位置を占めることになるだろう。
65万円以下のCal.321を求める感情的な声が上がるかもしれないが、復刻にかかる費用や、オメガの現行ラインナップの価格傾向を踏まえ、私は異を唱えたい。推測はさておき、現状としては、Cal.3861と新型Cal.321を搭載するのは、それぞれ2モデルと1モデルの時計に限られている。とはいえ、手巻きムーンウォッチを取り巻く状況は、過去と比べれば明らかによくなっている。
基本情報
ブランド:オメガ(Omega)
モデル名:スピードマスター プロフェッショナル ムーンウォッチ キャリバー321 プラチナ(Speedmaster Professional Moonwatch Caliber 321 Platinum)
型番:311.93.42.30.99.001
直径:42㎜
ケース素材:プラチナ・ゴールド合金(PT950、AU20)
文字盤色:オニキス製ステップダイヤル、メテオライト製サブダイヤル(月隕石)
インデックス:ホワイトゴールド
夜光:スーパールミノバ、目盛りと針
追加情報:月で初めて着用された「ST 105.012」のケースに基づく設計、ホワイトエナメルの数字を配した「Dot Over 90」セラミックベゼル
ムーブメント情報
キャリバー:オメガCal. 321
機構:時、分、秒表示、クロノグラフ
直径:27mm
厚さ:6.74mm
パワーリザーブ:44時間
巻き上げ方式:手巻き
振動数:2.5Hz(1万8000振動/時)
追加情報:水平クラッチ、コラムホイール制御、オーバーコイルを備えるヒゲゼンマイ、セドナゴールドでメッキ加工したプレートとブリッジ
価格・発売時期
価格:638万円(税抜)
販売時期:2019年12月日本入荷予定
限定:ムーブメントは年産321台で、合計約2000台に達する予定。限定モデルではない
詳細についてはオメガ公式サイトへ。