朗報! 2021年も残りあとわずかとなり、ゆっくりと休暇を取る方も多いのではないだろうか。時計業界にとって、今年もすばらしい年であった。あらゆる価格帯の時計と時計製造への関心がかつてないほど高まったからだ。そしてそれは12月10~11日にニューヨークで開催された最高のオークションシーズンにも表れていた。
私はこのオークション日程の大詰め、非常にユニークな立ち位置にいた。オンリーウォッチを含む11月のオークションを目的にジュネーブに行き、週末の2021 フィリップス・ニューヨーク・ウォッチオークションにマンハッタンへ向かったのだ。フィリップスがニューヨークで時計オークションを開催するのは2年ぶりで、パークアベニューの新しい旗艦本部での初めてのライブオークションだった(フォトレポートでもその様子を紹介している)。ニューヨークの時計オークションに参加した経験は何年も前からあるが、ジュネーブとニューヨークで連続して開催されたことで、国際的オークションを成功させるために必要なニュアンスの違いやそれぞれのセールで現れるトレンドの萌芽をより深く理解できたことは大きな収穫だった。
私はオークションの両日ともノートを傍らにフィリップスの166ロットすべてを見ながら、自分の考えや印象を記録した。またニューヨークのサザビーズ、ロンドンのボナムズ、そしてサザビーズとクリスティーズが主催する今年最後のオンラインオークションにも参加し、より広い視野で全体を捉えた。網羅しなければならないことが多い ため、先に何人かのオークション専門家に電話して意見を聞いてみた。参考までに私は誰もが注目するティファニーブルーの時計を敢えて無視するよう努めた。では、さっそく始めよう。
コレクターズアイテムとしての腕時計の需要が今ほど高まっている時代はかつてなかった。世界中であらゆるカテゴリーの腕時計に対する需要が供給を上回っている。その結果、中古時計市場は加速度的に成長している。ソーシャルメディアやフォーラムでの個人間取引の増加からHODINKEE Pre-Ownedの登場まで、中古市場でのショッピングは本当に欲しい時計を確実に見つけるための最もシンプルな手段となっている(時折、希望小売価格以上のプレミアム価格で購入しなければならないこともあるが…)。
世界的に有名なコレクターで、TalkingWatchesのOBであり、オンラインオークションプラットフォームLoupe Thisの経営者でもあるエリック・クー(Eric Ku)氏は「今の市場は非常に手堅い」とみている。「手に負えないと思うこともあります。しかし同時に世の中に出回っている資金の総量や時計への関心の高さという点では、未知の領域に入っているとも言えます。どのカテゴリーにも関心があり、強力な入札者がいます。そしてこの状況がすぐに変化するかというと、必ずしもそうは言えないのです」
セカンダリーマーケット(中古時計販売市場)の拡大に伴い、既存のオークション業界(格式の高い中古時計販売業界)も大きな恩恵を受けるようになった。フィリップは高級時計のコレクターが急増していることを最もよく表しているオークションハウスだ。フィリップスのオークションカタログのカバーロットがもたらすオンライン上の話題の大きさを見れば、それは明らかだ。今年フィリップスの時計部門はオークション全体で100%の販売率を達成するという、ほぼ不可能なことを成し遂げた。すべてのロットが好調な落札結果となった結果、総額2億930万ドル(約240億円)を達成したのだ。
時計市場の年々の成長にフィリップスがどのように貢献してきたかを示す私のお気に入り、そしておそらく最もわかりやすい指標は100万ドル超のロット数の推移である。2021年にフィリップスが販売した7桁台の時計は27本。2020年は? 15本だ。その前の年は12本だった。
この2年間で、ひとつのオークションハウスにおける百~数百万ドルの時計の販売額は2倍以上に増加したのだ。
InstagramやHODINKEEのようなハイブリッドメディアを利用したコマースプラットフォームの台頭ぶりを見ると、スイスの時計業界が当初、なぜインターネットの普及に消極的だったのか、いまだに理解できずにいる。今やインターネットは時計の世界に関心と影響を与えるいちばんの原動力であると言い切っていい。
2021年にフィリップスの時計オークションに登録したオンライン入札者は84ヵ国から1万人を超え、2020年から15%以上増加し、そのうち2311人が12月のニューヨークのオークションに参加したと報告している。2021年のオンライン入札者のうち、40%がフィリップスの新規顧客で入札者の3分の1が40歳以下だったそうだ。2021年にオンラインで落札された時計の総額は7500万ドル(約85億9950万円)近くにのぼり、2020年対比で70%も増加したこと、1年間に出品された時計の92%が少なくとも1回はオンラインで入札されたこと、そして2021年に出品された時計の半分以上にあたる58%がオンラインで落札された事実などをフィリップスは提供してくれた。
この数字をフィリップス協賛のバックス&ルッソが設立された2015年と比較してみると、当時1年間のオンライン入札者数はわずか573人だった。
サザビーズの時計部門(グローバル)は過去最高の年間売上高を記録した。売上高は1億4200万ドル(約162億8165万円)、販売率は91%で、オンライン落札者が売上ロットの46%を占め、44ヵ国から入札者が参加した。また落札者の46%がサザビーの新規顧客となったそうだ。
そしてティファニーブルーのパテック フィリップ Ref.5711 ノーチラスはフィリップス ウォッチの1ロットに対するオンライン入札者数の新記録となる378人を樹立した。さらに最終的な価格は650万ドル(約7億4000万円)となり、オンライン入札で落札された腕時計の世界記録を更新した。
先日、最も重要で印象的な時計が売れたのはフィリップスでもブルーでもなかった。それはパテック フィリップの永久カレンダー・クロノグラフ Ref.1518で、サザビーズ ニューヨークで957万900ドル(約10億9750万円)という驚異的な金額に達し、オークションで史上5番目に高い腕時計となった。これはサザビーズで落札された腕時計の世界記録、2021年のオークションで落札された腕時計の最高額であり、そしてオークションで落札されたヴィンテージウォッチとしては史上3番目に高い価格となった。
どのパテック フィリップ 永久カレンダー・クロノグラフ Ref.1518であれ、聖杯とみなされ、我々の趣味の歴史にとって大きな意味を持つだろう。実際、サザビーズの“ピンク・オン・ピンク”の個体よりも上位にランクされる唯一のヴィンテージ パテック フィリップは2016年にフィリップス・ジュネーブにおいて1113万7000ドル(当時の為替レートで約11億5825万円)で落札されたステンレススティール製のRef.1518だ。このレベルのこれまで知られていなかった時計が突如として現れると、必ず世間を騒がせる。はっきり言って、サザビーズが発表するまではこの時計の存在を委託者の近親者以外の誰も知らなかった。
Ref.1518は約300本製造されたことが知られており、そのほとんどがイエローゴールドケースである。ピンクゴールドケースモデルの個体数は約5分の1で、そのなかでもサーモンやコッパーダイヤルが貴金属のケースを引き立てる“ピンク・オン・ピンク”モデルは14本しか知られていない。サザビーズによると、この時計は19人の入札者によって争われ、最終的には960万ドルで落札された。これは落札予想価格220万ドルの4倍超にあたる。
「史上最高のパテック フィリップという言葉があるとすれば、それはこの時計かもしれません」とクー氏は語る。「その価格は当然だと思います。驚いたのは、この時計が500万ドルを超えてもまだ複数の入札者がいたことです。通常、オークションは2人のあいだでの腹の探り合いになります。この時計の場合、500万ドルを超えても4、5人の入札者が残っていたのはその品質の高さを物語っています」
この時計は、カリフォルニアのサザビーズのオフィスから送られてきたものだそうだ。前の所有者はエジプトのモハメド・テューフィック・A・“T.A.”トゥーソン(Mohammed Tewfik A. “T.A.” Toussoun)王子であり、生涯のほとんどを隠して過ごしていたとされている。王子の相続人によって委託されたこの時計は高性能で超高額な現代の時計を取り巻く不条理な熱狂に対抗する新しい息吹だ。そして何よりも絶対的に美しい。
この時計の状態と重要性を評価した専門家はクー氏だけではなかった。ヴィンテージ パテック フィリップ研究の第一人者であり、時計メディアCollectabilityの創始者でもあるジョン・リアドン(John Reardon)氏に連絡を取り、この時計に対する彼の見解を伺った。
「まさに聖杯の名にふさわしい時計です」と、この時計を何度も点検する機会があったリアドン氏は私に断言した。「初めて見たときには衝撃を受けました。ダイヤルの色が忘れられません。何世代にもわたって紫外線による褪色ダメージを受けていないピンク・オン・ピンクです。これほどピュアな色はどこにもないでしょう。パテック フィリップ博物館でも珍しいのではないでしょうか。これは非常に特別な時計で、生まれたときの姿をそのまま保っています。このような作品を見ることができるのは愛好家として幸運なことだと思います。サザビーズは世界にこの時計を紹介するという貴い仕事をしたと思います。1000万ドル近くの価格を予想していたでしょうか? とんでもない。この作品はこの価格に値するものでしょうか? 間違いなくそうでしょう」
パテック フィリップのコレクションには“ノーチラス”や“アクアノート”に代表される、不合理な熱狂の対象となる超近代的なスポーツウォッチが存在する一方で、Ref.2499やRef.1518、Ref.2523のような希少なヴィンテージウォッチも存在する。しかし、私が思うにパテック フィリップの現行コンプリケーションウォッチ関するオークションでの実績は、これまで比較的奮わなかったのではないだろうか。オンリーウォッチのために作られた一点モノは別として、パテックの世界では、この分野の時計は流通市場ではかなり急落する傾向にあった。それが少しずつ、しかし確実に変わり始めているのだ。
「上げ潮はすべての船を浮かせます。すべてが高くなって、すべてのものが上昇しているのです」と語るのは、Wind Vintageの経営者でHODINKEEの元寄稿者でもあるエリック・ウィンド(Eric Wind)氏だ。「ここから下がることはないだでしょう」とも見ている。
この成長は特定のパテックのコレクションや腕時計にはほとんど関係ないように見えるが、パテック フィリップ特有で、私が特に興味を持っている特定の分野に焦点を当ててみたい。年次カレンダーである。1996年にパテックが発明した年次カレンダーは、ほかの高級時計メーカーや中堅時計メーカーにも広まったが、今でもパテック フィリップの定番として結び付けられる機構だ。
年次カレンダーは官能的なコンプリケーションではない。チャイムが鳴るわけでも経過時間がわかるわけでも、そしてトゥールビヨンのように踊るわけでもない。しかし機能的には非常に優れており、パテック フィリップファミリーに若い顧客を呼び込むことを目的としていた。当然ながら長年にわたってデザインされてきた年次カレンダーは同ブランドのほかの複雑カレンダーモデルに比べてやや冒険的である。しかし、ここ1週間のオークションでさまざまなモデルが出品されているところを見ると、そのような時代は終わりつつあるかもしれない。サザビーズでは SSにティファニーのサインが入ったRef.5960/1A ブラックダイヤルが25万2000ドル(約2890万円)で落札された。フィリップスではRef.5905P-010が6桁(10万)ドルの壁を越え、クリスティーズではRef.5960Pのペアがエスティメートの上限額の壁を越えて落札された(こちらとこちら)。さらにフィリップスでは同じRef.5960P-01が2万ドル以上の高値をつけた。保守的な年次カレンダーの個体でも、エスティメートの上限額を超えて取引されたのだ。
もちろん、年次カレンダーがすべてではない。11月のクリスティーズ香港でのRef.5950/1A-011とRef.5013R-014の結果を見れば、それがよくわかる。しかしパテックのコンプリケーションは現在のところ、健全で持続可能なペースで上昇傾向にあるようだ。
これは週末にティファニーブルーのノーチラスの落札結果について話していたときに、あるコレクターから言われたことで、それまで考えたことのなかった興味深いトピックだ。チャリティーロットを既存のロットと同列にカウントするの妥当だろうか? というものだ。オークションで時計を落札したときの値段だから当然カウントされる? まあ、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
今年は時計メーカーが特定の限定された時計をオークションに出品して、高額落札の話題から得られる宣伝効果を狙うという新しいトレンドが生まれた。2021年4月にオーデマ ピゲがこの手法を初めて採用し、ロイヤルオーク コンセプト "ブラックパンサー" フライング・トゥールビヨンのユニークピースが520万ドル(約5億9625万円)で落札された。これはオーデマ ピゲのオークションでの記録を更新し、収益がふたつの子供のための慈善団体に寄付された。
あの落札結果について、まだ誰か話題にしているだろうか? 私は正直なところ、この話に取り掛かるまでもう忘れていた。それは記録を破ったにも関わらず、である。ティファニーブルーのノーチラスRef.5711はその記録更新を主張することすらできないのだ。
先日HODINKEE Radioでベンが指摘していたように、チャリティーが絡むとオークションは少しおかしくなる傾向がある。残っている169個のティファニーブルーのノーチラスが100万ドルや200万ドル以上で取引されるとは、知識のある時計コレクターは誰も考えていないだろう。もちろん次に別の個体が出てくるのを待つしかない。しかし考えてみて欲しい。もし同じような状態のピンクゴールドのRef.1518が出てきたらサザビーズが達成した金額でざっくり見積もっても誰も疑わないだろう。
この週末の後、私はチャリティーオークションを伝統的な時計取引市場のなかでの絶対的基準とするのではなく、時計の世界のワイルドな一面に過ぎないと考えるべきだと確信した。
「チャリティーのために時計を販売するという豊かですばらしい伝統があり、その記録はますますすばらしいものになっています」と語るのは、クリスティーズで5年間、時計部門の国際責任者を務めた経験を持つリアドン氏だ。「オークションを開催し、慈善団体を巻き込むことでブランドは感情と競争原理という価格を引き上げるふたつの重要な要素を織り込んだ価格帯で市場比較を行うことができます。フィリップスでノーチラスに650万ドルを支払った人は、すばらしいチャリティーを支援できたことに満足していることでしょう。同時に小売価格で時計を受け取ったほかの169人の人々は、自分の腕のまったく同じ時計が650万ドルで売れたことを友人に伝えることができ、とても良い気分になるでしょう。これはブランドにとっても慈善団体にとっても、そしてオークションハウスにとってもメリットがあります。“三方よし”のビジネスモデルはほとんど存在しませんが、チャリティーオークションはそのひとつなのです」
これはHODINKEE Radioでも話したことだが、ティファニーブルーのRef.5711がネット上で騒がれていたが、ロレックス サブマリーナー Ref.116610LV “ハルク”の結果の方が私にとってもっと衝撃的だった。何と9万4500ドル(約1085万円)で落札されたからだ。
ティファニーブルーのRef.5711の落札額の方が希望小売価格に対する倍率が高いのだが、誰もが爆発的な結果を予想していたと思う。ティファニーとパテックの関係、限定品であること、チャリティー活動など、すべての要素が重なって誰もが納得する最大の敷居になっているからだ。だが、このハルクは? 未使用で箱や書類も揃っている。それはすばらしいことだが、それだけだ。これは116610LVが製造されていた10年間にロレックスが製造した無数のグリーンダイヤルのサブマリーナーの1本に過ぎない。
「合理的な理由はありません」とクー氏は言う。「これはインターネット・ミームの餌なのです。何の説明もありません。馬鹿げている、本当に馬鹿げた現象です。ここでの大きなトレンドはオークションがディーラーのたまり場から一種のソーシャルイベントへと進化したことです。フィリップスはポール・ニューマンのオークションを皮切りに、コレクターを対象としたテーマ別のセールを展開したことでその先駆者として評価されています。そして今ではイベントのようになっているため、時にはこのような本当に狂気じみたことが起こるのです」
参考までに、ハルクが正式に製造中止になる前の数年前には150万円ほどで安定的に取引されていた。今日ではお気に入りのオンライン中古ショップで状態や箱や書類などにもよるが、280万円台から探すことができる。誤解を恐れずに言えば、とても素敵な時計だし、私も所有したいと思っているが、最終的には量産の工業製品あることに変わりない。
同様に、クリスティーズのオンラインオークションでは3種類のクロノトウキョウがそれぞれ1万ドル(約115万円)前後で落札された(1、2、3)。これらの時計は日本の独立時計師・浅岡 肇氏の“手頃な価格帯の”派生モデルであることを念頭に置いてほしい。言い換えれば、ミヨタ製のムーブメントを搭載した魅力的な時計で、定価は20万円台半ばだ。フィリップスのハルクやクロノトウキョウの件は、ティファニーブルーのRef.5711の一件よりもはるかに不快な現実だ。また平均的収入の若年層である私が買える金額にも大きな影響を与えている。Ref.5711は所詮ファンタジーの世界の話だが、ハルクやクロノトウキョウはその類ではないはずだ。
ヴィンテージウォッチ専門のニュースレター“Rescapement”の創始者であるトニー・トレイナ(Tony Traina)氏に1000万円近い金額のハルクについての意見を求めたところ、「なぜこれがライブオークションで行われる必要があるのでしょうか?」と質問された。「それが時計市場を無数の人たちの影響の過敏に受けやすくさせているのです。せっかくオークションのためにニューヨークに行くのであれば、大物がハンマーで競り落とされるのを見たいものです。3時間も座ったままロレックスの現行モデルが流通価格の3倍の価格で落札されるのを見て、人々が目を丸くする様子を見る必要はありませんからね」
地元を悪く言うのもなんだが、フィリップスの会場内の活気はやや欠けているように感じられた。特に先日のジュネーブでの体験と比べると違いは顕著だ。もちろん、その時点ではオミクロン株の脅威は存在していなかった。それに一連のパンデミックの影響で、ヨーロッパやアジアのコレクターが物見遊山にニューヨークの会場に足を運ぶことはなかった。しかし私はジュネーブのどの会場と比較しても、ニューヨークで同じような興奮を感じることはなかった。フィリップスが長期滞在していたラ・レザルヴのテントは賑やかだったし、オンリーウォッチはパレクスポの会場全体を埋め尽くしていた。それに比べてニューヨークの雰囲気は何となく……事務的な冷たさを感じた。
また、リッチ・ザ・キッド(上)やアレクサンドル・アルノー(Alexandre Arnault)のような有名人がゲストとして登場したものの、ジュネーブのように時計業界の内輪にいるような人間模様は見られなかった。ジュネーブの会場内では著名なコレクターやインディーズ時計メーカー、そして数え切れないほどのブランドの幹部や従業員が絶え間なく登場した。
これはもちろんオンラインストリーミングやデジタル技術の進歩のおかげで、販売の業績にはほとんど影響しない。
フィリップスのデジタル戦略責任者であり、HODINKEEの元シニアエディター、アーサー・トゥシェット(Arthur Touchot)氏は「時計のコミュニティが成長し、より国際的になるにつれ、情報へのアクセスが増え、障壁が取り除かれてきました」と語った。「ジュネーブでコレクターズアイテムを見つかったら国際的なコミュニティがすぐに入札してくれるでしょう。また香港でも同じことが言えます。地域がコレクターの注目を集めるのではなく、時計が注目されるのです。時計が人々の入札する場所を決めるのであって、その逆はないのです」
先日の最も興味深いロットのひとつは、アメリカ文学の傑作『見えない人間(原題:Invisible Man)』を遺した偉大な作家、ラルフ・エリソン(Ralph Ellison)が生前所有していたスピードマスターだった。ジャックがこの時計を紹介する素敵な記事を担当したが、この時計は最終的に66万7800ドル(約7610万円)で落札され、そのスピードマスターのリファレンス(145.012-67 SP)の最高落札額の記録を更新した。オークション終了後、オメガは同社がこの時計の購入者であると公表し、ジョン・F・ケネディ大統領のウルトラシン、エルビス・プレスリーのホワイトゴールド製ドレスウォッチ、そしてリチャード・ニクソン大統領のスピードマスターなど、これまでのオークションで獲得した時計と一緒にスイスのビールにある自社が擁するミュージアムに展示する予定だと述べた。
これは明らかにすばらしい時計であり、すばらしいストーリーを持っているが、先週行われたすべてのオークションで注目すべき唯一のオメガでもあった。私がジュネーブ滞在中にフィリップスでオメガとしては異例の記録更新となった340万ドル超(約3億8750万円)で落札されたスピードマスター Ref.2915-1が、オメガとオークション界に関する最新のニュースだったことを考えるとこれは奇妙なことだと思う。そのオークションのあと、価値のあるヴィンテージのスピードマスター(そして潜在的なほかのオメガも)が正当な評価をオークションでようやく得られるようになったかどうかについて活発な議論が行われた。
最もシンプルな答えはオークションにオメガのロットを追加する時間がなかったということだ。ジュネーブでハンマーが落ちる頃にはカタログはとっくに完成していただろうが、それでも残念な気持ちになった。フィリップス、クリスティーズ、サザビーズに出品された何百、何千というロットのなかでヴィンテージオメガは10本にも満たなかったのだから。
スピードマスターのヴィンテージ市場を検証するには春のオークションシーズンまで待たなければなるまい。
ホイヤーはその一方で、私を含めた多くの人々が待ち望んでいたオークションでの復活を経験した。
今回のフィリップスでは、特に状態のいいホイヤー オータヴィア Ref.2446がエスティメートの上限を10万ドルも上回る値をつけたことでホイヤーのセレクション全体が予想を上回る結果となった。この分野は2010年代半ばに瞬間的に関心が高まったあと、何年にもわたり関心が低下し、評価額が下がっていた。
HODINKEEのヴィンテージスペシャリストであるリッチ・フォードン(Rich Fordon)は「ホイヤーに対する一般的な関心と入札は、見ものでした」と語る。さらに「ホイヤーの市場がゆっくりと、そして持続的に成長していることを示しています。最初にこのようなことが起こったときは、急激な成長がありました。これは、価格帯を問わず、ホイヤー市場にとって大きな試練でした。あのオータヴィアは世界でも最高のヴィンテージ・ホイヤーの一つであり、2017年にフィリップスで開催されたホイヤー・パレード以来、オークションに登場した大物ホイヤーです」
私が記憶している限り、初めて懐中時計の分野に活気が戻ってきたことを報告したいと思う。いや、冗談ではない。先日、ジョンはクリスティーズのオンラインオークションに出品された彼のお気に入りの懐中時計6点を紹介した。その6点のうち4点がエスティメートの上限を上回ったのだが、残り(合計316点)を見てみると大半がひとりのコレクターが出品した懐中時計であり、これらの落札結果(訳注;エスティメートの範囲内、もしくは最低額を下回ること)の方がむしろ普通だということがわかった。
フィリップスのジョージ・ダニエルズのエドワード・ホーンビー トゥールビヨン懐中時計は(正当な理由があってのことだが)期待外れだったため、今回の記事では割愛する。しかし、先日のすべてのオークションの結果をじっくり見てみると高性能な懐中時計が何度も出てくることに気づくだろう。サザビーズのこのパテック フィリップ(モハメド・テューフィック王子の相続人が委託したもので、彼はセンスが良かった!)はとても美しいが、私はその結果に唖然とした。エスティメート上限額の15倍近くになったのだ! クリスティーズのオークションにはこれらの作品がたくさん並んでいた。そしてフィリップスのダニエルズ 以外の懐中時計の主役は、ティファニーサイン入りのパテック フィリップ 永久カレンダー・ミニッツリピーター Ref.699/3の50万ドルだった。この時計への関心の高さはパテック フィリップのRef.5236P-001という腕時計が登場したことに起因しているかもしれない。Ref.5236P-001はセンターピニオンの上に横一列の永久カレンダー表示を備えている。
では、私はメモを見落としていたのだろうか? 自粛生活を送るあいだ、私以外は皆、懐中時計と鎖を身につけていたのだろうか? 念のため、リアドン氏にこの結果についての見解を求めた。
「懐中時計は私にとって大切なものですが、今の価格は信じられません。クリスティーズのオークションでは20数点に積極的に入札しましたが、足元にも及びませんでした。ミニッツリピーターやクロノグラフ、タイムオンリーのものなど価格が非常に高かったのです」
今のところ、いくつかの例外を除いて、関心は誰もが知っているメーカーに集中しているようだ。直近の取引状況を見るとパテック フィリップやブレゲのヴィンテージが中心のようだが、オーデマ ピゲ、ジラール・ペルゴ、ヴァシュロン・コンスタンタンなどの懐中時計が好調なのも気になった。
このような関心の高まりは持続可能なのだろうか? それとも純粋に懐中時計に特化したオンラインオークションを開催したことで、一般の人でもじっくりと見て発見できるものがたくさんあったからだろうか? トレイナ氏は前者だと考えているそうだ。今回のオークションは懐中時計ブームの第一波に過ぎないと。「腕時計の価格は上昇し続けていますが、コインウォッチや懐中時計の落札結果は人々が収集価値を見出せると理解し始めた好例だと思います」
これは個人的にエキサイティングな出来事だ。フィリップスのオークションでは、ローラン・フェリエのガレ・トラベラー HODINKEE限定エディションが手数料込みで8万8200ドル(約1010万円)で落札され、オークションにおける我々のコラボレーションモデルのひとつとして、またしてもすばらしい結果をもたらした(我々が手掛けたMB&Fは2021年5月にフィリップス・ジュネーブで9万4500スイスフラン、約1180万円を達成し、ヴァシュロン・コンスタンタンは2018年にフィリップス・ニューヨークにて9万3750ドル、約1075万円で落札されている)。
この時計は私がHODINKEEに入社する前のものだが、最近の限定版プロジェクトにもいくつか参加させてもらっている。このように最初のオーナーの手から離れても性能が維持され、興味を持っていただけることがどれほど大切なことか。時計がそのように生き続けるのを目の当たりにするのは、とてもすばらしいことだ。
今年の中古市場やオークションを注視している読者なら、今の大きなトレンドが現代の独立系時計師であることをご存じだろう。F.P.ジュルヌはその代表格だが、ほかのメーカーも注目度が高まっている。
「独立時計師はヴィンテージと現代のコレクターをつなぐ架け橋です」とトゥシェット氏は言う。「コレクターが独立時計師による作品に見出しているのは、数量が限られていて、品質が極めて高く、ヴィンテージに比べて非常に着用しやすい時計だということなのです」
この週に出品されたジュルヌの時計は基本的にどれもエスティメートの上限をどんどん超えていった。しかし、私の目を引いたのは初期のドゥ・べトゥーンの2本の成立価格だった。2005年製のクロノグラフが13万8600ドル(約1590万円)、2007年製のパーペチュアルカレンダーが17万6400ドル(約2020万円)で落札されたのだ。これまで希望小売価格をはるかに下回る価格で流通していたドゥ・べトゥーンのようなブランドが、このような価格で取引されるようになったことをクー氏に話したところ、彼はこれまで考えたこともなかった見解を示してくれた。
「独立時計師系のマーケットはかなり操作されやすいと思います。私も独立時計師の時計が好きで、自分でも収集しています」とクー氏は続けた。「しかし年間生産本数が200本以下のブランドのことを考えてみてください。もし誰かが一度に10本の時計を買えば相場を操作することができます。例えば赤サブを10本買っても相場が微動だにしないのと対照的です」
では、元祖オークション界の寵児、ヴィンテージロレックスはどうだろうか。
vintagerolexforum.comのオーナーであり、この分野の専門家として広く知られているクー氏は「ヴィンテージロレックスの市場は信じられないかもしれませんが、やや軟調です」と語った。「ほかの分野で見られるような市場の熱狂が反映されていないため、価格が停滞しているのです」
ヴィンテージロレックスに関して、私は専門家ではないことを認めよう。それは私の時計知識のなかで最も顕著な弱点だ。このカテゴリーには非常に多くの細かな違いがあり、細かなディテールを把握するのは非常に困難で、問題を混乱させる偽物もたくさん出回っているからだ。
それにしても長らくヴィンテージウォッチ市場を牽引してきたエンジンが、F.P.ジュルヌをはじめとするインディーズ系の後塵を拝すことになるとは想像もしていなかった。
「オークションでは、高品質のヴィンテージウォッチはあまり出品されていませんでした」とウィンド氏。「これまで市場に出回っていないものという点では、若干枯渇しているように思えます。しかし、私はこの市場が軟調だとは思っていません。安定していて、まだ成長の余地があると思っています。現行の時計や独立時計師の作品に見られる価値を考えると、ヴィンテージのロレックスは今、価格に対して大きな価値を提供していると感じます。特に現行のノーチラスやアクアノートが非常に高騰しているなかで、すばらしいSS製のヴィンテージデイトナを10万ドル以下で購入できるというのは実際に価値のあることだと思います」
ヴィンテージロレックスのなかで、今も衰えていない分野がある。1980年代から2000年代にかけて、企業の表彰品として贈られたドミノ・ピザのロゴがダイヤルに入ったエアキングだ。
この時計はその斬新さゆえにコレクション性が高いのだが、これほどまでに高い価格は見たことがなかった。最初に価格が上がったと感じたのは、2021年10月にHODINKEE Shopで1万4900ドル(約170万円)で販売された個体だった。私がHODINKEEに在籍して以来、この時計の価格について最も多くDMを受け取った。
「今年の初めに、クリスティーズのオンラインオークションで2万ドルで落札された個体がありました」と、ドミノ・ロレックス“公式”愛好家であるウィンド氏は語る。「それが転機となって、その後はどんどん上がっていきました。COMEXのロゴを買うのと同じ理由で、人々がロレックスに夢中になっているのです」
私もほかの多くの人も、90万円以下で販売されているのを見慣れていたが、今はそれが現実ではないようだ。先週、クリスティーズでは2万2500ドル(約260万円)、サザビーズでは1万7640ドル(約205万円)で落札されているからだ。
オークションのカタログが100点を超えると、そのなかには注目度の低い時計が必ず出てくる。それは当然のことだ。驚くべきことに、そのような時計がカタログの表紙を飾っていたりするのだ。ジョージ・ダニエルズのエドワード・ホーンビー・トゥールビヨン懐中時計は、手作りのすばらしい時計だったが、オークション開始の1週間前にティファニーブルーのパテック Ref.5711が登場して話題をさらったため、影が薄くなってしまった。
しかし、このダニエルズの懐中時計が特別な成果を上げなかったわけではない。フィリップスで100万ドルを超えた4つの時計のうちのひとつであり、全ロットのなかではティファニーブルーのRef.5711に次いで2番目に高い金額を記録した。120万ドルのエスティメートの上限に対して、166万3500ドル(約1億9080万円)の落札価格(手数料込)は、どう考えてもすごい金額だ。しかし、先月ジュネーブでフィリップ・デュフォーのグラン・ソヌリ 懐中時計が250万ドル(約2億8700万円)の壁を破ったのを目の当たりにした私は、会場の一部の人たちから落胆の色を感じずにはいられなかった。
「ジョージ・ダニエルズのホーンビー・懐中時計は、もう少し良い結果になると思っていました」とウィンド氏は言う。「200万ドルに肉薄するのではないかと思っていました。うまくいったとは思いますが、もう少し高くなってほしかったですね。私が期待していた、あるいは期待していたようなメディアでの取り上げ方がされなかったのが残念ですね」
2011年に他界したダニエルズの遺産は伝説の時計師の唯一の弟子であるロジャー・スミス氏の作品に引き継がれている。HODINKEEマガジンの最新号でジェームズが紹介しているように。また、ニューヨークでの販売に先立ってフィリップスが行ったインタビューでも、スミス氏は“ダニエルズ式”と呼ばれる、師匠が開拓した時計づくりの手法を真摯に追求し続けている。それは完全に考え抜かれた手仕事によって定義されているのだ。
フィリップスは、ダニエルズの懐中時計とともにロジャー・スミス氏の優れたモデルをセールのために用意した。このモデルは彼の最初の時計をより洗練されたものにした、第2世代の“シリーズ1”ラインの個体で、ケースとムーブメントに“No.1”のサインがあることから、2018年に彼のマン島にある工房から出荷された第2世代のシリーズ1の最初のモデルであることを示している。
フィリップスの壇上に登場したロジャー・スミス シリーズ1は、エスティメートの上限を50万ドル(約5735万円)近くも上回った。これは彼の時計が今、非常に注目されているということである。彼の時計の流通市場の関心は彼が既存のウェイティングリストに応えるためにオーダー受付を中止するという驚きの発表をしてから、さらに高まった。
ダニエルズとスミス氏の時計は、当然ながら一度に入手できる数が限られている。ダニエルズは生涯で27本しか生産しておらず、スミスは1年に10本から12本の生産能力しかないと言われている。
このふたりの作品が今後オークションに出品された場合、その値札は先日見たものよりもさらに高いレベルのものになると見て間違いないだろう。
先日フィリップスのスペシャリストと話していたら、私はジュネーブとニューヨークの両方のオークションに参加する機会に恵まれたので、今年はフィリップスのどの社員よりも多くのライブセールに参加したはずだ、と言っていた。新型コロナ の規制で国際線のフライトが制限されていることを考えると、それも納得だ。また、HODINKEEでオークションやその結果をどのように取材していくべきか考えさせられた。
時計のオークションには値札の報告だけにとどまらない魅力がある。私は純粋に時計収集の最もおもしろい側面のひとつだと思っている。私はバイヤーか? もちろん、そうではない。少なくとも今の段階では、そしておそらく価格がこの先も変わらない限り、バイヤーにはならないと確信している。しかし私がこの世界で純粋に興奮した原経験はキャリアの初期にさまざまなオークションプレビューを訪れ、普通では見ることのできない大量の高級時計を実際に手に取って見ることができたことだった。
この業界は興味が尽きることがない。すべてのロットには語るべき物語がある。そして今は、オークションハウス以外の誰もそれを伝えていないように感じている。そこでHODINKEEのオークション報道に今後どのような期待をお持ちだろうか? コメント欄に遠慮なく書き込んで欲しい。
TOP画像:サザビーズ提供
リッチ・フォードン氏、エリック・クー氏、ジョン・リアドン氏、アーサー・トゥシェット氏、トニー・トレイナ氏、エリック・ウィンド氏には貴重なご意見やご感想をお寄せいただき、この場を借りて感謝申し上げます。