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人生で一度は“自分の本分を守れ”と言われたことはないだろうか。これは古くからある格言であり、歴史的に見ても妥当なものだ。ひとつの分野に専念し、それを極めれば成功するというわけだ。しかし2026年現在、あらゆる物事のルールは変わりつつある。ひとつの技を極めた者が必ずしも先頭に立つのではなく、むしろ厩舎に追いやられてしまうこともあるのだ。
スイス・ブルックにあるラ・モントル・エルメス(La Montre Hermès S.A.)。
時計業界でその好例となっているのが、我々が普段、より幅広いファッションハウスとして認識しているブランドのようだ。伝統を布に縫い込み、キャットウォークという舞台でその名声を高めてきた帝国たちが、今や時計製造の世界に進出している。こうしたブランドの多くが、既に盤石な名声の新たな武器として時計製造に乗り出し、そして何よりも重要なのは、真に価値のある時計を生み出しているということだ。
エルメスは20世紀初頭から時計製造に携わっており、1930年代からはユニバーサル・ジュネーブを時計製造のパートナーとして迎え、デスククロックなどエルメス独自のサイン入り製品を製造してきた歴史がある。現在の飛躍は、1970年代から着実に築き上げられてきたものである。
最初は馬の装具、次に乗り手のための装備を手がけ、真のラグジュアリーとは規模の拡大ではなく、熟練の技から生まれるものだとすぐに証明してみせた。1970年代、エルメスは職人を育成するための学校を設立し、手縫いやレザーの裁断、スカーフのプリント技術を師匠から弟子へと伝承していくことにした。他ブランドが大量生産や外部委託を追求するなか、エルメスは長期的な視野に立ち、ブランドのDNAを体現する人材を育成するための教育に投資した。これにより生産量が増加しても、バッグやサドル、スカーフのひとつひとつが厳格な基準を満たして仕上げられるようになったのだ。エルメスへの需要が大幅に高まっても、その品質は決して落ちていない。それゆえにラグジュアリーの礎となり、私にとってはその頂点に位置しているように映る。
同じく1970年代、エルメスは時計製造との関係を根本的に見直すことを決意し、自社独自の視点から時計製造に携わるための基盤を築いた。1978年、ティエリー・エルメスの直系の子孫であるジャン=ルイ・デュマによってラ・モントル・エルメスが設立された。ジャン=ルイは、プレタポルテからシューズの製造に至るまで、現代のエルメスの礎となる多くの変革を主導した人物である。また彼はジェーン・バーキンとの偶然の出会いのきっかけを作り、それがおそらく史上最も影響力のあるハンドバッグのシルエットを生み出すことにつながったのだ。
スリム ドゥ エルメス、エルメス H08 クロノグラフ、そしてエルメス カット。
「私がエルメスに入社したときの使命は、ここでの機械式時計製造を発展させることでした」と、エルメス・オルロジェ クリエイティブ・ディレクターのフィリップ・デロタル(Philippe Delhotal)氏は私に語った。デロタル氏はヴァシュロン・コンスタンタン、ピアジェ、ジャガー・ルクルト、パテック フィリップでの役職を経て、2008年から現職に就いている。
「私を最も突き動かしたのは創造性でした。多様な専門職が集まるクリエイションのメゾンで働ける機会です。私にとってそれは、伝統的な時計製造とは異なる世界を見ることができる絶好の機会でした」
エルメスの時計製造体制はふたつの拠点に分かれており、生産はスイスのル・ルノワールモンで行われ、最終組み立てやストラップ製作、品質管理はブルックのアトリエで行われている。
コートハンガーにまでブランドロゴがあしらわれている。
カップとソーサーはもちろんのこと、鐙(あぶみ)の形をしたスプーンにも注目して欲しい。
エルメス カットは私のお気に入りモデルであり、いつか自分の時計コレクションに加えたいと思っている。
2006年にエルメスはヴォーシェ・マニュファクチュール・フルリエの株式25%を取得し、同年、ブルックにラ・モントル・エルメスを設立した。その後、エルメス・オルロジェは2012年にナテベール(Natéber、ダイヤル製造)、2013年にジョセフ・エラール(Joseph Erard、ケース製造)を買収し、専門技術を拡大。2017年にはレ・アトリエ・ドゥ・エルメス・オルロジェ(Les Ateliers d'Hermes Horloger)を正式に設立した。現在、エルメス・オルロジェは完全統合型のマニュファクチュールとして機能しており、ケースからダイヤル、ストラップ、最終組み立てに至るまですべてを自社で管理している。
エルメス H08。
その哲学がどのように時計に反映されているかを理解するために、私はエルメスの製造施設を2日間かけて訪れ、製造、組み立て、そして革工房がどのように運営されているかを実際に見て回り、そのあいだ、実際に時計を手に取ってじっくりと観察した。
ケース製造
エルメスの時計はル・ルノワールモンにあるマニュファクチュール、レ・アトリエ・ドゥ・エルメス・オルロジェで製造される。現在、大規模な拡張工事が進められており、2028年の完成予定だ。これにより既存施設の規模がほぼ倍増し、ブランドのさらなる成長と効率化が可能になるだろう。ここではケースとダイヤルの製造が行われているが、素材から完成品まで一貫して手がけている。そしてその製造工程の大部分において、エルメスは今もなお職人の手作業に大きく依存している。
最初のステップはケースの成形だ。切削とプレス加工によって行われる。
この工程では、ケースの金型を使って複数回のプレス加工が行われる。
ケープコッドの大まかに削り出したケースから、より洗練された形へと変化していくプレス加工の過程。
ケープコッドのケース、プレス加工における最初と最後のステップ。
訪問中に出会ったスタッフは皆、エルメスの時計を身に着けていた。42mmのアルソー クロノグラフをはじめとする魅力的なモデルが手首を飾っていた。
エルメスウォッチのソリッドケースバックもまた、刻印を入れるためのプレス加工を経ている。
この写真にはケープコッドのケースが映っているが、複数回のプレス加工の途中で、ケースは焼鈍炉へと送られる。この工程はケースが適切な状態になるまで繰り返される。
これは切削と研磨の途中にある、ケリーケース3つ。今回の訪問では、すべての工程でこのケリーを幾度となく目にすることになるので、ぜひ覚えておいて欲しい。
またひとつプレス加工を施したケースバックが誕生。これはステップ1が完了した状態だ。
エルメスのマノン(Manon)氏が手首に重ね着けしている、見事なスタイリングのギャロップ ドゥ エルメス。
ケリーの小さなカデナにポリッシュ仕上げを施すには、トップクラスの忍耐力が求められる。
これらのパーツの研磨を担当する職人は、まず大きな粗を取り除き、そこから望みどおりの輝きを引き出す最終ポリッシュまで、研磨工程のすべての段階を担っている。
望みどおりの仕上げを得ると、時計は包装され、次の工程へと送られる。
ケースごとに仕上げの工程は少しずつ異なるが、全段階で行われる品質管理チェックの厳密さには驚かされる。
Hウォッチの風防のホコリ除去作業。
完成したケースバックの刻印部分。
ダイヤル製造
エルメスではケース製造と同様に、ダイヤル製造もプレス加工から始まる。このステップでもやはり、エルメスは職人の手仕事に大きく依存しており、工程の成否は職人の熟練度に大きく左右される。訪問中に多くの職人と話してわかったのは、彼らには専門知識が十分すぎるほど備わっているということだ。彼らの多くはエルメスへ入社する前に、伝統ある名門マニュファクチュールで経験を積んでいる。
ここでほかの多くのマニュファクチュールと比べて際立っていたのは、職人たちのオープンな姿勢だ。多くの職人が、喜んで作業を中断して技術を説明し、工程を実演してくれた。そして自身の仕事に対する心からの誇りを示してくれたのだ。時計製造におけるほかの現場と全く異なる雰囲気がそこにはあり、作り手たちは皆、自分たちの仕事ぶりを快く披露してくれたのである。
真鍮のシートからダイヤルをプレス加工で打ち抜く。
ここにはふたつのダイヤルがある。ひとつはインデックス用の穴が開けられたもの、もうひとつはその工程を行う前のものだ。
表面を滑らかにする工程を控えたアルソー ル タン ヴォヤジャーのダイヤル。
これは手作業で行われるきわめて重要な工程だ。というのも、あとの研磨工程でこれらの欠陥が除去されていなかったら、問題が生じる可能性があるのだ。
再びアルソー ル タン ヴォヤジャーのダイヤル。こちらは製造工程がさらに進み、検査を受けているところだ。
アルソー ル タン ヴォヤジャーのダイヤル製造工程の各ステップ。
最終的に完成したダイヤルと見比べるひととき。
レザー工房でのストラップ製造
これらの部品がすべて製造され、品質管理チェックが完了すると、エルメスのスイス本社であるビール/ビエンヌのラ・モントル・エルメスに移送される。ここは主に最終組み立てが行われ、本社オフィスがある場所だが、エルメスがレザーストラップを製造する場所でもある。もちろん手作業でだ。不思議に思われるかもしれないが、私にとって、これが今回の訪問で最も楽しみにしていた部分だ。革製品の背後にあるクラフツマンシップは、私のちょっとした偏愛の対象なのだ。この古来からの製造方法が今日でも使われているという事実だけでも、私にとっては十分な理由だが、エルメスのようなブランドによって極められているとなれば、その愛情は10倍にも増す。
ここで我々は、エルメスでのレザーストラップ製造に関わる各ステップを案内してもらった。
ラ・モントル・エルメスのエレベーターで数階下りてレザー工房へと案内されると、突然、ツアー全体のムードが変わった。それまでの2日間が実務的で工程重視の製造現場だったのに対し、突然、遊び心にあふれ、活気に満ちた空間へと変わった。音楽は個々のヘッドホンではなくスピーカーから流れ、職人たちの会話はオープンで和やかだった。たとえ個々に作業している時でも、そこにはコラボレーションの雰囲気が漂っていた。この活気に満ちた環境には、創造性を発揮するための時間と空間がしっかりと確保されていたのだ。
天井からはエルメスのシルクスカーフが吊り下げられ、大小さまざまなオレンジ色の箱がタワーのように積み上げられて装飾として飾られていた。扉をくぐると、世界最大級のラグジュアリーハウスで働く熟練職人というよりは、才能を育む美術教師のような親しみやすい雰囲気を持つ職人たちが迎えてくれた。ここは熟練した職人たちの個性によって形作られ、エルメスの刻印が入った製品にも反映された、きわめてパーソナルな工房のように感じられた。時計のマニュファクチュールのなかで、これほど強い仲間意識を感じさせる空間を訪れたのは初めてだった。
縁のヤスリがけ。
加工前と加工後。
レザーの熱処理。
さらに、定革や遊革を手縫いで合わせる作業も。
そう、ステッチのパターンが形成する“H”の文字は意図的なものだ。
2018年にアルソーのローブ・デュ・ソワールが受賞したGPHGのアーティスティック クラフト部門賞と、ダイヤルの製作工程を段階的に解説した写真。
レザーのパーツのなかには、まるでホコリのように小さいものもある。
すべてが貼り合わせられると、最終的な製品はこのようになる(しかしこれはプロトタイプだ)。
ズームして見て欲しい。右側のダンサーの靴下にまでレザーのパーツが使われているのがわかるだろうか。
この恐竜の頭部のプロトタイプダイヤルは、途方もない数のパーツで構成されていた。
おわかりいただけるだろうか。
このプロトタイプダイヤルに、革象嵌細工で表現されたヒョウのヒゲ部分に注目して欲しい。これらは信じられないほど細い部分で、濃い色の部分が視覚的な奥行きを生み出している。これは特定の革片ではなく、線を加熱することによって実現されている。
製造が完了し、時計に取り付けられた最終的なストラップ。
最終組み立てと品質管理
全工程の最終ステップは組み立てと品質管理で、ラ・モントル・エルメスのストラップ製造部門の上の階で行われる。ここではケースへの組み込み(ケーシング)、針の取り付け、ムーブメントのケーシング、ストラップの装着といった最終工程を担当する時計師たちが作業台を並べている。品質管理は製造のあらゆる段階で行われるが、時計が出荷される前の最終チェックはここで行われるため、一切のミスは許されない。
レザー工房からここへ来ると、その雰囲気はまったく異なるものに感じられる。静かな話し声が部屋のゆったりとした、より秩序立った雰囲気を反映しているかのようだ。
ケーシングされる前のケープコッドの最終チェック。
そして完成。
ムーブメントを組み込む作業など、組み立てのあらゆる工程がここで行われる。
スクリュードライバーのホルダーさえも“エルメス オレンジ”だ。
そして最終的にはケースに収められる。
再びダイヤルが検査される。
出会ったスタッフは皆、手首にエルメスを着けていた。新しいモデルだけでなく、このような名作と呼べる古いモデルも愛用されていた。
品質管理における最終ステップのいくつか。
そして、これらが完成品だ。
変わらぬ感動
ここ数年で、エルメスは私のお気に入りのモダンウォッチブランドのトップに躍り出た。それは単に製品そのものの魅力だけでなく、エルメスを取り巻く世界観にも引かれるからだ。エルメスには、高級ブランドのなかでもますます希少になっている温かさ、自信、そして遊び心がある。そしてマニュファクチュールで時間を過ごすうちに、その精神はマーケティング目的で作り出されたものではなく、時計を形にするあらゆる工程において、実際に携わる人々によって自然に生み出されていることがわかった。
その場をあとにしてから、最も印象に残ったのはそのことだった。長年にわたり、あらゆる規模のマニュファクチュールを訪れてきたが、多くの場合、何よりもまず精密さが重視されていると感じられる。静かな部屋、綿密な工程、完璧を目指して設計されたシステム。もちろんそれらは必要なことだし、ブランドの魂は時計そのものに託されることも少なくない。しかしエルメスは少し違った。
どちらの拠点でも、ここで働く人々が心から自分の仕事を楽しんでいるという確かな感覚があった。レザー工房から最終組み立ての作業台に至るまで、職人のあいだにはオープンなコミュニケーション、個々の技術への誇り、そして単に作業方法だけでなく、その作業がなぜ重要なのかを説明しようとする熱意が感じられた。ここにいる多くの人々は、エルメスに入社する前にほかの伝統的な時計メーカーで長年働いていたが、彼らはエルメスについて、企業としての義務感ではなく、むしろ個人的な愛着をもって語っていた。
おそらくそれこそが、現代の時計製造においてエルメスをこれほどまでに魅力的なものにしている究極の理由だろう。技術的な工程自体は業界全体に共通しているが、その背後にある精神は完全にエルメス独自のものである。エルメスには、決して押し付けがましくない遊び心がある。比較的手ごろな価格帯のケープコッドから、数千万円もするメティエダール作品まで、これほど一貫したアイデンティティを維持しながら、幅広い製品を生み出すことができるブランドは少ない。ましてや、それを自己陶酔に陥ることなく成し遂げられるブランドとなれば、さらに希だろう。
エルメスでは、ブランドよりも製品そのものが主役になっているように感じられる。時に深刻になりがちな業界において、これは実に清々しい。
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