Photos by Mark Kauzlarich
今年はオリンピックに夢中になった。信じられないような開会式から、よく知られた競技や少し変わった競技まで、ありとあらゆるものを楽しんだ。ストリーミングやほぼリアルタイムのリプレイのおかげで、ありとあらゆることを指先ひとつで見ることができるようになった。もともとオリンピックの大ファンだったが、家で観戦するだけで満足していたため、自分が実際に現地で観ることになるとは思ってもみなかった。今となってはもう一生オリンピックを見逃すなんて考えられない。
“オメガがオリンピックに連れて行ってくれたから、心を奪われたのだろう?”と言われる覚悟はできている。だからこそ、普段この手の旅行、とくに時計の発表会や何かを取材する目的がない旅行は断ることにしている。実際のところ、オリンピックではオメガによって実現した“世界最速の男”の写真撮影や、世界記録達成の際に公開された新しいスポーツウォッチ、さらにはダニエル・クレイグ(Daniel Craig)の手首にあった新しいシーマスター 300Mのお披露目など、時計にまつわるニュースは多くあった。だが信じてもらえない人たちに対しては、正直にこう言うしかない。
オメガ スピードマスター クロノスコープ パリ2024エディション
実際にオリンピックを目にすることで、競技そのものやアスリートたち、そしてオリンピックが意味するものへの愛情と敬意がさらに深まった。もしオメガへの愛が増したとすれば、それはほかの時計に対する愛がいつもそうであるように、結局は“人”によるものだったのだと思う。オメガファンだけでなく、世界中から集まった情熱的なファンの大群に囲まれたことが、オリンピックをまったく新しい次元に引き上げてくれた(観客の大歓声で永続的に耳を傷めてしまったかもしれないが、その経験も含めてだ)。
このモデルこそが、HODINKEEのすべての始まりとなったオメガ スピードマスター マーク40である。希少でもなければ高価でもないが、重要なのはそのストーリーなのだ。
結局のところ、人々こそがストーリーテラーであり中心なのだ。“最も重要なムーブメント”や“最も美しいモデル”から、“私にとっていちばん大切な時計”まで、すべての最上級表現はストーリーから始まる。オメガとともに参加したオリンピックで出会ったコレクターや小売業者、同僚たちから感じ取ったのは、オメガというブランドと時計に対する情熱と興奮だった。彼らは実に希少で、ときに珍しい時計を持ち出してきた。しかし私が出会ったすべての人が証明してくれたのは、話題性や投資収益のためではなく、それぞれの時計が持つストーリーと、所有者にとって特別な存在となるディテールが重要だということだった。いつも言っていることだが、すべての時計を集める余裕がなくても、少なくともそのストーリーと知識は集めることができる。そしてオリンピックで出会った人々は、そのストーリーをよろこんで共有してくれた。
1932年のオリンピックで使用された、初期のスプリットセコンドクロノグラフのひとつがパリのオメガハウス(特別なイベントスペース)に展示されていた。
ある意味で、オリンピックにおけるオメガの役割は舞台裏に自然に溶け込むことだ。それはこの92年間、主に“公式タイムキーパー”としてオリンピックを支えてきた役割でもある。確かに1964年、1972年、1992年、1994年にはセイコーが計時を担当したが、オメガは2032年の100周年まで公式タイムキーパーを務める契約を結んでいる。この92年のあいだに状況は大きく変わった。1932年の大会では、オリンピック会場にひとりの時計職人と30個のスプリットセコンド懐中時計が配置され、10分の1秒を計測していたが、2024年には1秒間に4万コマを撮影するカメラと1000分の1秒を簡単に計測できるタイマーが登場するまでに技術が進化した。パリのオメガハウスに展示されているのは、まさにその1932年当時の懐中時計のひとつである。
男子100m決勝のフォトフィニッシュ。Photo: courtesy of Omega
もちろん、オメガのブランディングは随所に見られるが、パリに設置されたオメガハウス(社交クラブと博物館を兼ねた施設)以外では比較的控えめだ。それはオメガブランドのテクノロジーにも同様に言える。その技術の多くはスウォッチグループ傘下のスイスタイミング社によるもので、オメガだけでなく、ロンジンなどのブランドにも提供され、さまざまなスポーツイベントで活用されている。実際に意識して探さない限り、目立つことはない。肝心なのは目立つことではなく、アスリートたちの何年にもわたる努力を台無しにするような機材トラブルを避けることだ。そして世界最高のアスリートが誰かを決める瞬間が来ると、オメガはその場に立ち会い誰かのストーリーに貢献する。
ダニエル・クレイグ氏がノンデイトのシーマスター 300Mを着用していることについて記事を書いた翌日、会場周辺にある時計がどこか見覚えがあるのに気づいた。
先週パリにいたなら、オメガの“ロリポップ”を見かけているかもしれない。ビザやNBC、そのほかのスポンサーの看板と並んで、いろんな人たちが目的地に辿り着くのを助けていた。
パリから持ち帰りたかったのは(ギフトショップで購入した十数個のピンバッジに加えて)、オメガが使用する計時技術に関するストーリーだった。しかし現地にいた48時間ではそれを間近で見ることは叶わなかった。それは数年後まで待つことになるだろう(編注;HODINKEE Japanではオメガタイミングの記事を掲載している)。皆を一緒に連れて行けたらよかったのにと思う。もしかすると、すでに自分で行った人もいるかもしれない。ただ私が短い時間で目にした最もクールな時計や瞬間をまとめたPhoto Reportを見ることで、少しでもその場にいた気分になってもらえたらと思う。時計に対してもオリンピックそのものに対しても、あの場で感じた情熱の一端でも伝われば幸いだ。
1日目: スピーディとビーチバレー
前回の夏季オリンピック(少なくとも時計に関して)の話に戻ろう。フラテッロのロバート=ヤン・ブロア(Robert-Jan Broer)氏が着用していたオメガ スピードマスター“ライジングサン”東京オリンピック限定モデル、Ref.522.30.42.30.06.001。これは2日目のスタートに彼が選んだ時計だった(もちろん彼はスピードマスターを複数本持参していた)。
オメガハウスから少し歩き、バスに乗ってセーヌ川を下ると、開会式が行われた数々の場所を目にすることができた。
オリンピックのためにつくられたオメガ スピードマスター クロノスコープをもう1度。時計よりも手首につけた様子を見せたくて投稿したかった。
手首はオメガCEOであるレイナルド・エシュリマン(Raynald Aeschlimann)氏だった。彼はいつものように、セーヌ川を下るあいだに率直な感想をいくつか共有してくれた。
オリンピックにおいて、時間を計測するスピーディは最も理にかなっているかもしれないが、自分がどれだけハードに働いているかを知りたいなら2018年限定のオメガ CK 2998のような時計を試してみるのもいいだろう。
オリンピックで見かけたのはスピードマスターだけではなかった。こちらは珍しくてあまり見かけないオメガ コンステレーション ダブルイーグル クロノグラフ“ミッションヒルズ”エディションで、サウジアラビアから来た新しい友人、シェイク・モハメド・アル=フセイニ(Sheikh Mohammed Al-Hussaini)氏の手首に輝いていた。
セーヌ川を下り、グルネル橋にある自由の女神像の周りを回ったあと、再び川をさかのぼった。
オリンピックのために登場した、新しいシーマスター 300Mをつけていたのは、子供たちが言うところの“しっかり準備した”コレクターだった。
船を降りる前に、まさか見られるとは思ってもみなかった時計に出合った。それは台湾のコレクターが手首につけていたスピードマスター ムーンフェイズで、プラチナゴールドのケースに赤いアルミナ製のベゼルリング、サテン仕上げのプラチナ製リキッドメタルタキメーターとルビーのインデックスが特徴的なモデルだった。
もちろん、定番のスピードマスターもたくさん見かけた。
さらに個性的なモデルも登場した。たとえばスピードマスター“フロム ムーン トゥ マーズ”のRef.3577.50.00のようなものだ。この表現、少し洒落が効いている。
このタトゥーに見覚えがあるかな? そうウェイ・コー(Wei Koh)氏だ。彼の手首にはシルバーのスヌーピー スピードマスターが輝いていた。
なかには金メダル、つまりセドナゴールドを選んだ人もいた。たとえばスピードマスター Ref.310.60.42.50.01.001とか。
エッフェル塔に登ると、ビーチバレーの競技が行われているエッフェル塔公園の景色が一望できた。
エッフェル塔の反対側には、セーヌ川を挟んだトロカデロ庭園内にあるチャンピオンズパークの景色が広がっていた。
そう、このムーンシャインゴールドも含めいくつかのムーンスウォッチも見かけた。
ミッション・トゥ・ネプチューン ムーンスウォッチ
ブルーのオメガ シーマスター 300。
これは私が実物を見たことがなかった、シーマスター 300M Ref.210.92.44.20.01.003。
エッフェル塔スタジアムの合成パノラマ写真。ここはオリンピックのビーチバレー競技のために一時的に設置された会場で、初日の夜にはパリの夜景とともに試合(それと追加のショーもいくつか)を楽しめた。
前回王者のノルウェー代表、アンデシュ ベルントセン・モル(Anders Berntsen Mol)選手とクリスティアン サンドリエ・セルム(Christian Sandlie Soerum)選手が、6回目にして最後のオリンピックとなるスペイン代表アドリアン・ガビラ・コリャド(Adrian Gavira Collado)選手とパブロ・エレラ・アレプス(Pablo Herrera Allepuz)選手と対戦した。
今回の旅で自分がつけていたのは、ブルーダイヤルのスピードマスター クロノスコープだ。
ビーチバレーが公式タイムキーパーの管轄に含まれるとは思わないかもしれないが、オメガはデータや分析も担当している。選手はもはやユニフォームにセンサーをつける必要はない。その代わりオメガのデータは、競技フィールド周辺に設置された高精細カメラによって収集されており(ネットに取り付けられているものも含む)、それぞれのカメラは各スポーツ用に特別に訓練された人工知能(AI)モデルにそれぞれ供給される。
ビーチバレーの試合中にふと左側を見ると、アクアテラ 150M “ウルトラライト” デュプランティスのプロトタイプのひとつが現れて驚いた。
そして試合の合間、現地時間午後10時直前に照明が暗くなり、スポットライトが回り始めた。カウントダウンのあと、エッフェル塔でライトショーが始まった。
次に行われたのは、アメリカ代表のマイルズ・パーティン(Miles Partain)選手&アンディ・ベネシュ(Andy Benesh)選手と、カタール代表のシェリーフ・ユヌス(Cherif Younousse)選手&アハマド・ティジャン(Ahmed Tijan)選手による準々決勝戦だった。
順調に見えたものの、アメリカのファンにとっては残念なことにアメリカチームは敗退してしまった。これにより、史上初めて男子・女子ともにビーチバレーボールでメダルを獲得できない結果となった。
オリンピックに参加する楽しみのひとつは、どの競技にも多様なファンが集まる姿を目の当たりにできることだ。とくにビーチバレーはほかの競技以上に、巨大なパーティのような雰囲気があった。
2日目: 新体操、陸上競技、そしてセレブとの遭遇
2日目のスタートに、再びウェイ・コー氏に遭遇した。彼が身につけていたのは、2003年のスピードマスター スヌーピー“アイズ オン ザ スターズ”、Ref.3578.51.00だった。
ヴィンテージのアール・デコ風インデックスが特徴的なオメガへの回帰はどうだろう?
そして、クラシックなスピードマスターにももう少し愛を込めて。
新体操の個人総合予選を観るのはとても興味深かった。ファンの熱狂ぶりはほかの競技と同じくらい遜色なかったし、普段ならわざわざ観に行くことはなかったかもしれないが、この競技への新たな敬意が芽生えた。
確かにオメガのブランディングはあちこちにあったが、今回も彼らの貢献は演技の長さを計測することと、記録されたデータの分析に基づいていた。
外に出て新鮮な空気を吸っていると、思わず微笑んでしまうような光景を目にした。オリンピックのボランティアとして手伝っている親切な地元の人と話をしたのだ。彼はかっこいいユニフォームに加えて、いくつかのイベントに無料で入場できる特典があり、さらにボランティア専用のオリンピック スウォッチも支給されていたのだ!
これは、過去の大会でも登場してきたボランティア専用のスウォッチに続くものだ。これらの時計はスウォッチペイ対応で、オリンピック会場内でNFC決済ができる仕様になっていた。現在eBayでもいくつか見かけるが、ボランティアは4万5000人いるためとくに希少というわけではなく、250ドル(日本円で約3万7000円)という値段設定には笑ってしまった。価格がもう少し現実的になったら必ず手に入れようと思っている。
スウォッチの話をすると、実は公式に発売されたものがほかに3種類あり(さらにVIPに配られたと思われるモデルもいくつか)、そのなかには“パープル ロールショット”というモデルもあった。定環にはバレーボールのロゴがあしらわれている。
ランチの際に、99本ものスピードマスターを所有するイタリア人コレクターと話す機会があった。彼が持っていたのはブルーのインデックスと針を備えたプラチナ製のスケルトンムーンフェイズモデルだった。この時計はRef.3688.30.32で、2003年に発売され、わずか57本しか作られなかった希少なモデルだ。
こちらが装飾されたCal.3604Aだ。この仕上げはアーミン・シュトロームによって手がけられた。
休憩を挟んだあと(その間に2本のオリンピックウォッチのHands-Onを撮影した)、スタッド・ド・フランスに向かい夜の陸上競技観戦を楽しんだ(私たちのなかには“陸上競技”と呼ぶ人もいる)。
スタッド・ド・フランスの合成パノラマ写真。ここでオリンピックの陸上競技が開催された。
友人から最も聞かれた質問に答えると、そう、スヌープ・ドッグ(Snoop Dogg)氏を見た。でも彼のピンバッジは手に入らなかった。これはただのスヌープ氏の写真じゃなくて、彼の左肩の上にオメガの計時用カメラが見えるのだ。
そう、オメガにはカタログ外のモデルもいくつか存在している。ついに実物を目にすることができて興奮したのが、このカノープスゴールド製スピードマスターだ。サファイアがセットされたベゼルやステップのついたダイヤル、そしてリューズにもサファイアがあしらわれている。この時計は私がパリにいた両日、あるコレクターがずっとつけていたものだ。
もうひとつ、私が実物を見たことがなく、二次流通市場では驚くほど手ごろな価格で取引されている時計がある。それがレッドゴールドのプラネット オーシャン 600M、Ref.232.63.46.21.01.001だ。
オーストラリアのニナ・ケネディ(Nina Kennedy)氏が棒高跳びで金メダルを獲得。私たちはその表彰式を観ることができた。
そして国旗掲揚と国歌の演奏も見れた。
一方で、フラテッロのRJも自分の“金メダル”を獲得していた。この時計を見るたびに“いつか本当に手に入れたい”と強く思うモデルだ。
陸上競技場にて偶然、スピードマスターコレクターの友人に出会った(彼は私たちのグループとは別行動だった)。彼が身につけていたのはほぼ新品同様のミントコンディションであるRef.3835.76.31のスティールモデルで、マザー オブ パールのダイヤルにダイヤモンドがあしらわれていた。前日にパリで、ディーラーが長いあいだ持ち続けていたことを思い出し、購入したばかりだったそうだ。
このダイヤルを見てほしい!
ブラックダイヤルのスピードマスター ムーンフェイズ Ref.304.33.44.52.01.001
サマーブルーのアクアテラ。
あの紳士服フォーラムから飛び出してきたような洒落た紳士は誰だろう? 彼は近代オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタン(Pierre de Coubertin)男爵を演じている俳優だ。
夕日が沈み始めるころ、競技の熱気が高まり始めた。私たちは女子走り高跳びの決勝や男子やり投げの決勝、そして写真に収めるには遠すぎたほかのいくつかの競技を観戦した。
女子4×100mリレーの第1ラウンド。
女子1500mの準決勝。
その晩の大きな見どころのひとつは男子200mの決勝だった。スタート直後から前の週末に100m決勝で優勝したノア・ライルズ(Noah Lyles)選手に何かが起こっているのは明らかだった。一方でボツワナ代表のレツィレ・テボゴ(Letslie Tobogo)選手は素晴らしいスタートを切り、そのまま母国のために大きな金メダルを獲得することとなった。
ノア・ライルズ選手はオメガのアンバサダーであり、新旧両方のスピードマスター “ダークサイド オブ ザ ムーン”を交互に着用していた。しかし残念ながら、ライルズ選手は新型コロナウイルスに感染しており3位に終わった。彼の右側では金メダルをかけた激しい争いが行なわれていた。
アメリカのケニー・ベドナレク(Kenny Bednarek)選手(写真上)が銀メダルを獲得し、ライルズ選手は銅メダル、そしてレツィレ・テボゴ選手が金メダルを手にした。
オリンピックで最も素晴らしかったのは、世界中から集まった熱狂的なファンたちを見ることだった。彼らは特定の競技のために来ているようで、たとえばこのドイツから来たファンは女子走り幅跳びに対してとても熱狂していた。
最も興奮したレースのひとつが女子400mハードルだった。オメガのアンバサダーであるオランダのフェムケ・ボル(Femke Bol)選手が出場しており、素晴らしい結果を期待していたが、今のアメリカ人選手シドニー・マクラフリン=レヴロン(Sydney McLaughlin-Levrone)選手には敵わない。そのリードを見てほしい。
これほどのリードがあれば、彼女が50.37という世界記録で優勝したのも納得だ。実際にその瞬間を目にするのは本当に感動的だった。
フェムケ・ボル氏の母親とボーイフレンドのすぐ後ろに座ることができたのはとても幸運だった。彼女は銅メダルにがっかりしていたが、ほかのふたつのレースでは金メダルと銀メダルを獲得していた。
走り幅跳びで銅メダルを獲得したアメリカのジャスミン・ムーア(Jasmine Moore)氏が、競技終了後にハグをしている姿が見られた。
その夜の終わり、アメリカ人のグラント・ホロウェイ(Grant Holloway)選手が圧倒的な走りを見せ、ほかの競技者たちを引き離す姿を目にした。
最後にもうひとつ、アポロ11号50周年記念のスピードマスター。
1日の終わりに落ち着いたが、もう1カ所だけ立ち寄る場所があった。そしてその最後の訪問を終え、オリンピックの聖火台の写真とともにパリにお別れをした。