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セイコー ファーストダイバー開発の舞台裏

セイコー初のダイバーズウォッチとなった62MASは、今からちょうど60年前の1965年に生まれた。この時計はスポーツダイビング向けというよりも、当初から南極地域観測隊、つまり極地探査のために開発されたエクスプローラーモデルだったと思われる。60年の節目を迎えた今、現存する時計や資料、取材をとおして得られた情報とともに、その詳細を振り返る。

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目次

1. 観測隊への共有が前提となったダイバーズの開発
 1965年に発売したセイコー初のダイバーズウォッチ、62MASはいかにして生まれたのか。その特異な誕生の歴史を解説。

2. 初期型と後期型とでは、何が違うのか?
 セイコー ファーストダイバーの62MASは製造時期によって初期型と後期型に分類できる。その違いをこと細く紹介。

3. 今も失われないファーストダイバーのDNA
 60年前に誕生したセイコー ファーストダイバー。セイコーのダイバーズウォッチ開発に今も大きな影響を残している。

セイコー初のダイバーズウォッチ市販前夜、その存在が初めて明かされたのは1965年7月、小売店向けのニュースレター『SEIKOセールス』(1965年7月号)でのことだった。魚を銛に刺して今にも水面に上がってきたばかりのダイバーが、左手首にセイコーマチック カレンダー ダイバーウォッチ 62MASを装着したカラー写真は、夏本番の季節にいかに鮮烈だっただろう。「…スキンダイバーをはじめ、あらゆるスポーツマンに、男っぽさを演出したい男性に、おすすめください」という文言に、昭和の雰囲気と同時に、普遍的なものさえ感じる。

『SEIKOセールス』1965年7月号より。

『国際時計通信』1965年8月号より。

 さらに目を引くのは、時計の仕様だ。「…耐圧、水深150メートルの防水ケース、ダイナミックなデザインの文字板、ムーブは定評のあるセイコーマチック」とある。62MASという型番の命名は、瞬間切り替え式デイトを備えた1万8000振動/時の自動巻きCal.6217A、Seiko Matic Selfdaterに由来したもの。そして発売当時の価格は1万3000円だった。

 翌月、時計業界誌『国際時計通信』の新製品紹介にも、このダイバーズウォッチがセイコーの新製品2点のうちのひとつとして掲載された。ただしそちらではセイコー・オートマチックという名称で紹介されていた。それを除けば、ダイバー向けに開発された150mの水圧に耐える完全防水モデルであり、17石の自動巻きムーブメントでセイコーマチックセルフデーターを搭載していること、価格が1万3000円だった点など、先の小売店向けニュースレターとほぼ同じである。しかしダイヤルが黒く、インデックスには夜光塗料が用いられ、回転ベゼルと合成バンドを備えるといった、詳細についてもこちらでは触れられている。

 当時の空気感を理解する上で、ヒントとなるのはセイコー・スポーツマチックファイブの存在であろう。ダイバーズウォッチでこそないが、1964年の東京オリンピック開催に向かう世相のなかで、セイコーは1960年頃からスポーツやレジャーの場に着用できる時計を開発していた。オリンピック開催の1964年夏には“水に強いセイコー”を謳って、防水キャンペーンをも展開していた。セイコー・スポーツマチックファイブはそんな時期に、先に紹介した小売店向けの『SEIKOセールス』上で、たびたびヨットやダイビングのシーンとともに紹介されていたシリーズの最新作だったのだ。

 これらはスポーツやレジャーの高まる需要に応えるものだったが、東京オリンピックが高度経済成長を面で広く押し上げるイベントだった一方、点としてのアプローチで日本の国際社会復帰を印象づける国家事業が南極地域観測隊、俗にいう南極観測隊だった。これこそがセイコーのダイバーズウォッチが求められた背景というよりは、むしろ要請であり、いわば62MASは隠れたミッションとして、当初より南極観測隊の装備品となることを前提に開発されていたと思われる。

画像:国立極地研究所


1. 観測隊への共有が前提となったダイバーズの開発

手短に、日本の南極観測の流れを振り返っておこう。白瀬 矗(しらせ のぶ)らによる1910~12年の探検から第2次世界大戦などによる空白期間を経て、1956年より第1次観測隊が研究観測に再び着手し、昭和基地を設立したのが1957年のこと。当初は2次で終了するはずの越冬観測は最終的に5次まで延長された。砕氷船の老朽化もあって1962年の第6次を最後に一時は途絶えたものの、1965年の第7次から越冬を含む観測が再開され、現在に至るまでじつに第66次にわたる南極観測が続けられている。

 セイコーミュージアム 銀座の公式サイトにおいて、ダイバーズウォッチは、第8次南極越冬隊に採用されたとの旨が記されている。通常、南極観測隊は南半球の夏季に集中的に活動する。2月以降は越冬隊員のみが南極に残り、翌年2月まで観測を継続するので第8次越冬隊は1966~68年にあたる(ちなみに第8次越冬隊は、1966年12月1日に日本を出発、1967年1月7日に昭和基地に到着。その後1968年2月まで昭和基地に滞在し、1968年3月に帰国した)。

 セイコーは前年の第7次南極越冬隊のために、観測船「ふじ」用の船舶用水晶時計と、基地に据え付けるための恒久設置水晶時計、さらに雪上車用の携帯用水晶クロノメーターという、用途の異なるクォーツクロックを提供していた。1966年、第8次越冬隊にセイコーから提供された計時装置は合計48個で、ストップウォッチが3個、目ざまし時計が12個、トランジスタ掛時計3個のほかに、隊員向けに30個の62MASが含まれていたという。ダイバーズウォッチが極地での探査観測のために初めて寄贈されたのだ(※)。

※第7次南極越冬隊への装備品供給の詳細は、流郷貞夫氏によるセイコーダイバーズウォッチの研究書『The Birth of Seiko Professional Diver's Watch』(NextPublishing Authors Press刊、第3版)によるもの。

第8次南極観測隊(越冬隊)に提供されたファーストダイバーを着用している様子。画像が荒くわかりにくいが左の人物の手元に注目して欲しい。画像:国立極地研究所

 なお、今回、本稿作成のために編集部では国立極地研究所にコンタクトを取り、デジタルアーカイブ未公開の写真のなかにファーストダイバーを着用しているほかの写真が残されていないか調査した。戸外では寒さから手首を露出している写真はほとんどなかったが、膨大な数の写真のなかから新たに発見したのが、以下の2枚の写真である。上の写真よりも鮮明で、着けているのがビッグクラウンの6217-8001であることがおわかりいただけるだろうか?

画像:国立極地研究所

画像:国立極地研究所

 南極観測隊に初めて提供されたダイバーズウォッチは、ファーストダイバーである62MASで間違いない。ただしそれは、1965年に登場した6217-8000のレファレンスナンバーをもつ初期型ではなく、大きなリューズを備えた後期型にして改良版となる6217-8001、通称“ビッグクラウン”だった。一方、初提供の翌1967年6月、セイコーのダイバーズウォッチは初のプロフェッショナルダイバーズモデルとして、300m防水に対応した6215-7000、通称プロフェッショナル300mダイバーに切り替わった。自動巻きムーブメントは1万9800振動/時の6215Aへと進化し、リューズは4時位置へと改められ、何より、62MASと同じ田中太郎氏のデザインながら、モノブロックケースと12時位置に赤い三角状の矢印を持つベゼルまで、仕様も性能も飛躍的に進化した。ほぼフルモデルチェンジされた別物だったが、当面は150mダイバーズが観測隊に提供され続けた。

 なぜ“スモールクラウン”こと、初期型62MASの6217-8000は、南極観測隊が再開された1965年第7次の時点で、隊員用のダイバーズウォッチとして寄贈が見送られたのか? 理由は諸説あるが、それは1960年の第5次南極観測隊からすでに、クラウンが寄贈品として隊員に向けて時計供給が始まっていたという事実だ。

 クラウンは1959年に市販され、のちのグランドセイコーに繋がる高精度と高品質を求めたモデルだ。つまり、クラウンが先んじて提供されていたことで、セイコーと南極観測隊の関係がダイバーズウォッチ以前にまで遡るだけでなく、一時は南極観測自体が中断に追い込まれた時期を挟み、極地の環境に対応すべき装備品として62MAS開発中から期するものが大きかったことをうかがえる。

第8次南極観測隊の集合写真。隊員全員がセイコー ファーストダイバー、62MASを着用したとされている。画像:国立極地研究所

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2. 初期型と後期型とでは、何が違うのか?

初期型。スモールクラウン。

後期型。ビッグクラウン。

ある意味、突貫工事のようなペースで実現された6217-8000こと“スモールクラウン”は、1965年4~6月のたった3ヵ月間のみ製造されたが、南極観測隊の装備品とはならなかった。当時は防水時計がどのようなものか概念さえなく、セイコー社内でケース外装の寸法規格を定義し直すところから、いわば商品を開発しながら要件を定めることが同時に行われていた。こうした状況が、初のダイバーズウォッチが発売されて以降、スポーツウォッチと並行して防水性能の強化やケース外装その他のアップデートが進められ、規格そのものが体系化されていった要因といえる。

 かくして150m防水のファーストダイバーは南極観測隊(越冬隊)に1966年から4回にわたって寄贈され、そのことで確立された評判や信頼性は、映画『男はつらいよ』で寅さんが愛用したマルマン製メタルブレスレットのビッグクラウンや、植村直己が愛用した1970年のメカニカルダイバーズに繋がっていくことになるのだが、ここではファーストダイバーの初期型モデルと後期型モデル、それぞれの違いを詳しくまとめた。

 まずリファレンス番号の違いだ。6217-8000と6217-8001は、そのままリューズの大きさの違いを表す。つまり前者が“スモールクラウン”で、後者が“ビッグクラウン”である。リューズは大小だけでなく、形状もずいぶんと異なる。スモールクラウンはケースの接合部側とケースとの隙間が大きい。対してビッグクラウンはよりケースに密着した形状で、指がかり部分が大きくリューズトップが薄い作りとなっている。

 ベゼル周囲に刻まれたコインエッジも、初期型は凹部が深く刻まれたヤマタニ型であるのに対し、後期型では溝のエッジは浅くカマボコ型の凸部となっている。なお、流郷貞夫氏によるセイコーダイバーズウォッチの研究書『The Birth of Seiko Professional Diver's Watch』(NextPublishing Authors Press刊、第3版)によれば、リューズ自体の品番も異なり、スモールクラウンは55WH13、ビッグクラウンは65W01Nが与えられている。ベゼルのベース部も、横から見ると初期型はケースに対して傾斜するのに対し、後期型はケースと垂直で、リューズ付近でよりクリアランスをとる設計となっている。

 ムーブメントや日付機能、150m防水については双方とも変わりない。だが、風防の品番が初期型は315WH1Tであるのに対して後期型は315TO 1ANとなる。さらには裏蓋ガスケットもOC3160からOC3160Bへと進化している(前述の『The Birth of Seiko Professional Diver's Watch』より)。

 もうひとつ、防水に関わる点で見逃せないのは、裏蓋の仕様や仕上げだ。初期型・後期型ともにエッチング仕上げだが、後期型のほうは凸部がミラーエッチング、凹部は梨地の仕上げとなっており、より経年や摩耗に強い傾向が見られる。ビッグクラウンも最初期はスモールクラウンと同様に、イルカの周囲に品番とブランド名、SSとWATER PROOFがエッチングで、製造番号のみ刻印となる。このイルカの図柄自体は1960年代初頭のモデル、セイコースポーツマン・ドルフィンから受け継がれたもので、そちらでは刻印だった。

 また後期型の裏蓋の仕様は、さらに“SEIKO”が中央に配された“馬蹄型”の枠に材質・型番・WATER PROOF表示の下に、製造番号まですべて刻印されているタイプのものがある。さらにそれ以降のモデルでは、裏蓋を開けた内側中央に打たれたXやJ、Gなど文字のみならず、そもそも刻印の記載内容が統一されていない。これはおそらく、セイコーの時計生産がこの時代、諏訪精工舎や第二精工舎、のちの盛岡セイコーや海外拠点など多様化・統合が進みながら、納入する部品サプライヤーも各地で違っていたためと思われる。

 62MASでは初期型からスイス製のトロピックストラップが採用された。これは網目のような表側に対し、裏側は装着時に手首に密着する面積を減らすよう窪みをもたせつつ、強度を兼ねたダイヤモンドパターンが施され、排水を兼ねて穿たれた穴が特徴的だ。加えて、ZLM01のパーツ品番をもつ通称“ワッフルストラップ”にも組み合わせられたようだが、これは1967年の300m防水モデル、6215-7000にも受け継がれていた。


3. 今も失われないファーストダイバーのDNA

初期型のダイバーズウォッチ、6271-8000は南極観測隊には用いられず、そのミッションは改良された後期型の6271-8001に受け継がれた。海外ブランドのダイバーズモデルのように、海や潜水を通じて開発とフィードバックが進んだわけではないようだが、南氷海で活躍が期待されるダイバーズウォッチでありつつ極地探査に供されたエクスプローラーモデルになった点に、セイコーダイバーズの唯一無二のストーリーがある。国内でスポーツやレジャーの黎明期を迎えた時代、氷に閉ざされた海と大陸という、未知の領域で用いる時計を開発することは、まさしく手探りの挑戦だったに違いない。この難題に対し、密閉性や操作性を高めるケース外装の開発や改良が進められ、防水性能のカテゴリーや規格そのものが整理された。

―プロフェッショナルダイバー向けの潜水用防水時計
―スキューバダイバー向けの潜水用防水時計
―水仕事と水上スポーツ用防水時計
―日常生活防水時計

 こうした要件ごとの規格は、セイコーの防水時計の基準となり、ISO防水規格の基調をなしていったのだ。かくしてセイコーのダイバーズウォッチは、極限の状況でも機能し続ける堅牢性を備え、新しい技術革新を切り拓いていくフレームワークとなった。ちなみに、セイコーのダイバーズウォッチと南極観測隊の特別な関係は、現在も続いている。2024年の第66次南極地域観測隊(越冬隊員)には、プロスペックスのソーラーダイバーズモデル、SBDN075の特別仕様が寄贈された。

これはきわめて希少な第9次南極観測隊への寄贈品リスト。服部時計店(現:セイコーグループ)の名で、ダイバーズウォッチが4本寄贈されたことが記されている。ほかにもアラーム付腕時計が13本、時差付腕時計が12本、普通型腕時計が15本、目覚まし置き時計が6個、そしてストップウォッチが5個観測隊に寄贈されたようだ。画像:国立極地研究所

1967年に発表され、第9次南極観測隊に供給された300mダイバーこと、6215-7000(6215-010)を身に着けたダイバーの写真。こちらは『The Birth of Seiko Professional Diver's Watch』(NextPublishing Authors Press刊、第3版)にも掲載された1枚。画像:国立極地研究所

こちらは第10次南極観測隊の写真。手前の人物の手首に注目して欲しい。こちらは6217-8000の後継機となるセカンドダイバーと呼ばれる6105-8000(1968年発表)。その特徴的なケースがはっきりとわかる。後期型(植村ダイバー)ではなく初期型のものだ。画像:国立極地研究所

 国立極地研究所のデジタルアーカイブとして未公開の写真のなかには、セイコーのダイバーズウォッチがまさに隊員たちとともに身近なものとなっていた証拠が、今回の取材でより確かなものとなった。上の画像はこれまで公になっていない資料や写真である。貴重な歴史の一端を読者にも共有しよう。

映画『男はつらいよ』の初期作品において、劇中で主役の車 寅次郎が着用していたファーストダイバーにオマージュを捧げた1本(2020年にリリースされたが現在は販売終了)。時計の詳細はこちら

2023年のセイコー プロスペックス 1965 メカニカルダイバーズ復刻デザイン 限定モデル。こちらもファーストダイバーからインスピレーションを得た(現在は販売終了)。時計の詳細はこちら

 平成から令和にかけても、セイコーのダイバーズウォッチではファーストダイバーからのインスピレーションが反映されていること、そして数々のオマージュモデルが発表されてきたことは周知のとおり。ファーストダイバーの面影は、今もなお、この特別な歴史に対するリスペクトとともに現在のコレクションに息づいている。

Words:Kazuhiro Nanyo Photos:Yoshinori Eto Styled:Hidetoshi Nakato Special Thanks:National Institute of Polar Research