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彼女が旅立った夜、その時計は私のもとにやってきた。
それは偶然だった。私はトロントの病院の洗面所にこもり、外の病室で母が泣きながら、死後硬直が始まる前に祖母に少しでも明るい花柄の服に着替えさせようと必死になっている姿から逃げていた。スマートフォンをスクロールし、周囲に漂う悲しみを遮断しようとしていたとき、画面に1本のヴィンテージロレックスが現れた。そのダイヤルのパティーナは、祖母が亡くなる数日前、最後に私へ結婚や子ども、そして仕事について、彼女が大好きな説教をしてくれたあの夜に着ていたセーターとまったく同じオレンジ色だったのだ。
その色に、息をのんだ。
Watch photos courtesy of @soulfully_analog.
あれは大晦日のディナーのときだった。
祖母は91歳でありながら、食卓では相変わらず冴えわたり威厳を放っていた。お気に入りのオレンジのセーターを着て、またもや私に対して、当時の恋人と結婚しないことや、スタンフォード大学で取得したビジネスの学位を活かそうとしないことを叱った。上海方言で矢継ぎ早に言葉を浴びせる様は決壊したダムから水があふれ出すようだった。私は、理由もなくスマートフォンを取り出し録音ボタンを押した。それまで1度もそんなことをしたことはなかったが、その夜、12分間の小言を録音したのである。8日後に彼女がいなくなると知っていればこそ、その記録がどれほど貴重かがわかる。
デビュー小説『These Memories Do Not Belong to Us』がハーパーコリンズから出版された。これは記憶が売買され、架空の中国が支配する世界を舞台にした物語だ。7年をかけて執筆したこの本を誇りに思うが、正直なところ、祖母は私の文学的な夢を理解してくれたことはなかった。祖父は生涯で20本ほどの論文を発表したことがあったが、我が家では執筆は職業とみなされなかったのだ。マッキンゼーなど、彼女が立派と認める企業で働いた経験を持つ私にはもっと実用的な道があると考えており、また、私が愛してやまない保護猫のセオ、肥満から体重の3分の1を減らした彼のことも気に入らなかったのである。祖母は明確な目的のないものを好まず、意見をはっきりと口にすることを恐れなかった。
おそらくそれは、祖母自身の人生が決して贅沢を許さなかったからであろう。
2021年、祖母の誕生日。
6女として生まれた彼女はこの世に望まれない存在だった。男児を望んでいた両親は失望し、彼女を畑に置き去りにしたのだ。数時間後、罪悪感から父が戻ったが、彼女は“弟を連れてくる”という意味の名を授けられた。祖母は上海で工場勤めをしながら道を切り開き、その後、病院で働きながら4人の子どもを育て、やがてその病院で共産党委員を務めるまでに上りつめた。そして医療現場で尊敬される指導者となったのだ。
私は上海で生まれ、青年期にニューヨーク、そしてトロントへ移り住んだ。両親は中国で大学講師をしていたが、カナダではレストランで働いたのち、別の職業に就くために再教育を受けた。私が12歳のとき、母は政府職員として働くためオタワへと移り、そのために母方の両親が私を育てるためにやって来た。以後20年間、祖父母はトロントで私たちと同居した。祖母は食事を作り、私と一緒に武侠ドラマを観ながら会話を楽しんだ。90歳を超えても、彼女は大家族の長として中国の親戚たちを鉄の意志でまとめ上げていた。
彼女の幼少期について私たちはあまり語り合わなかった。米と塩を交換したあと、日本兵に足元を撃たれながら逃げたという恐ろしい断片的な話を聞いただけだ。もっと多くの話を聞いておけばよかったと思うが、おそらく彼女はそれらを胸の内に留めておきたかったのだろう。結局のところ、記憶は彼女のものであり、守るべきものだ。
私の責務は共有した記憶を敬い、忘れないことだ。
私がアシュビルでライター・イン・レジデンスに参加していたとき、祖母が倒れた。パンデミック以来初めての休暇で両親がポルトガルにいたため、恋人と隣人が急いで彼女を病院へ運んでくれた。最期まで頑固な祖母は、自分は大丈夫だと言って家を出るのを最初は拒んだが、その後すぐに医師から虚脱肺と重度の肺炎と診断され、いつ息を引き取ってもおかしくないと告げられたのだ。私は最初の便を予約し、残り30時間の命を彼女の枕元で見守った。
祖母が息を引き取ってから1時間ほど経った頃、病院で初めてオレンジのデイトジャストをInstagramで目にした。ダイヤルは白い中心からオレンジの火種のように輝いていた。
ロレックスを買うなんて思いもしなかった。
そのブランドは過大評価されているように思えたし、大量生産された時計にプレミアムを払うという考えにあまり気が進まなかった。私のコレクションはヴィンテージ寄りで、トロピカルダイヤルのユニバーサル・ジュネーブ ポールルーターから、ギャレ フライング・オフィサー、ルビー色のゼニス レスピレーター、青のジャガー・ルクルト メモボックスまでそろえている(後者2本とパテックのパーペチュアルカレンダーは、私の小説のなかで孤独な時計職人にまつわるいくつかの物語にも登場する)。
また、ラピスラズリからブラッドストーンまで、ストーンダイヤルにも目がない。だが、そのデイトジャストが持つサンレイ仕上げのオレンジ色のパティーナは、祖母のお気に入りのセーターを鮮やかに思い起こさせた。病院から戻った私は、あの12分間の説教の録音を繰り返し再生しながら、時計とセーターを見比べた。そのロレックスには裏蓋のオリジナルステッカーが残っており、ジュビリーブレスもきつく保たれていた。
最近、この時計を9月のブックツアーで身に着けるべきかどうか悩んでいる。祖母を深く愛していたが、彼女は私の執筆活動をあまり支持してくれなかった。禁止された記憶を題材にしたこの破天荒なディストピア小説を、中国批判だと誤解するのではないかという不安もある。もしかすると、彼女が誇りに思うのは、この本がベストセラーになるか、何か大きな賞を受けたときだけなのかもしれない。
2022年大晦日、最後の晩餐。
だが、私は彼女が恋しい。
何よりも恋しいのはその強さと頑固なまでの勇気だ。今の私には、まさにそれが必要だと思う。あれほどの犠牲を払って書き上げた本を、彼女に読んでもらえる機会があればよかった。東京とトロントでの私たちの結婚式にも出席してもらい、もうすぐ家族に迎える娘の誕生を喜んでもらえたらよかったのに。彼女と共に作り上げるはずだった思い出を恋しく思う。
だからこそ、記憶が消えず、どんな新しい技術にも暗い側面はあるとしても家族にも他人にも受け継がれていく、そんな世界を想像したのかもしれない。だが、記憶を共有できるようになるその日までは、このロレックスこそが私が彼女を連れて歩く方法だ。手首に感じる重いスティールは彼女が私に抱いていた期待と、批判という形でしばしば示された厳しい愛情を思い起こさせる。
あのオレンジ色は彼女の炎の色だった。その時計を身に着けるたび、私は彼女の強さを思い出す。そしてその記憶が私たちのなかで今も生き続け、彼女の時間はまだ終わっていないのだと感じるのだ。
イーミン・マー(Yiming Ma、@yimingwrites)氏は中国系カナダ人作家であり、デビュー小説『These Memories Do Not Belong to Us』は2025年8月12日、マリナー・ブックス(ハーパーコリンズ)およびマクレランド&スチュワート(ペンギン・ランダムハウス・カナダ)から出版された。
アマゾン、バーンズ・アンド・ノーブル、またはお好みのインディーズ系書店で入手可能。
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