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この3月、グランドセイコーは新しい時計を発表した。これは、同社の歴史上また時計の歴史においても大きな節目を迎えるものであった。ハイビート SLGH002は、グランドセイコーの60周年(最初のグランドセイコーは1960年にリリースされた)を記念するものの一つであり、グランドセイコーが判断される通常の基準に照らしても、非常に美しくまたとても魅力的な時計である。
グランドセイコーに期待される全てのものがそこにある。つまり、完璧に仕上げられた文字盤のしつらえ、頑丈でありながらエレガントなケースデザイン、全てのコンポーネントの仕上げの細部にいたるまでの執拗なこだわりである。確かにそれは一般的にはニュースとは言えないが、売り上げに影響が出ない程度に必要最低限まで基準を落とすことがしばしば見られるこの世界において、グランドセイコーのようなブランドが最高の基準を維持し、そして実際、自ら設定した卓越性の非常に高い水準を超えるために努力する姿は心強い限りである。しかも、ムーブメントには新しいものも見ることができる。それは、単に優れているというだけでなく、実に並外れたものである。
それはCal.9SA5である。このキャリバーは、高振動の自社製ムーブメントで(汎用ムーブメントを使用するグランドセイコーはなく、実のところ、セイコーブランドの時計もそれは存在しない)、3万6000 振動/時で駆動する。これは、現代のムーブメントの一般的振動数(2万8800振動/時がベーシック)とは大違いである。オシレーターに高い振動数を選択する理由は、他の全ての条件が同じであれば、通常、精度の安定性が優れており、あるいは、少なくとも安定性を向上させる1つのアプローチだからである。
代替ソリューションの実践者として知られるロジャー・スミス(Roger Smith)は、より低い振動数とより大きなテンプを組み合わせた従来のアプローチの擁護者だ。とはいえ、高い振動数のムーブメントがシリーズの時計として生産されるのは現代の時計製造では珍しいこのである。こうしたムーブメントがグランドセイコーによって作られ、広く使用されているという事実により、ハイビートムーブメントを備えた時計は既に一つの高級時計のカテゴリーを築いている。しかし、Cal.9SA5にはまだまだ珍しいものがある。新しいタイプの脱進機だ。
時計の脱進機:略史
脱進機への関心は、時計製造の成熟の兆しであると言われてきた。確かに、脱進機に焦点を当てるということは本質に迫るということである。時計の脱進機は、輪列の一方向に回る回転エネルギーを受け、それをテンプの双方向への振動運動に変換しなければならない。そのためには、脱進機(これは、一定の間隔で定められた増分で輪列からオシレーターにエネルギーを「逃がす」ことからそう呼ばれる)がオシレーターの自由運動にできるだけ干渉しないことが重要である。これは掛け時計・置時計と腕時計のいずれにも言えることである。
また、脱進機は、エネルギーを可能な限り均一に、変動することなくオシレーターに伝えるように設計する必要があることも事実である。また、腕時計では、時計が揺れた場合に誤ってロックが解除されないように脱進機を設計し構築する必要がある。そしてさらに、腕時計の脱進機は「自動的に始動」する必要がある。つまり、時計の所有者がゼンマイにエネルギーを巻き込むと、脱進機を作動させるために揺らさなくとも、時計が自然と始動する必要があるということだ。
これまで腕時計で使用されていた、そして実際にはあらゆる種類の機械式脱進機が付いた時計で使用されていた最初のものは、脱進軸(バージ)だった。この脱進機には多くの欠点があったが、脱進機が常にオシレーターと機械的に接触するため、とりわけ出力変動に非常に敏感であるということが挙げられる。このため、18世紀半ばに、脱進軸、そしてその直後に現れたシリンダー脱進機はいずれも、(私たちの知る限りでは)1755年に英国人トーマス・マッジ(Thomas Mudge)によって発明された、レバー脱進機によって徐々に取って代わられることになった。それ以来、レバー脱進機は、継続的に改良を加えられ、これまでに製造された時計のほとんどで使用されるようになった。
レバーは、腕時計に非常に適しているということから、長い間使われ続けてきた。レバー脱進機は自動起動で、非常に安定性がある。また、レバーが実際にテンプに衝撃(インパルス)を与えていないときには、レバーは輪列のエネルギーによってバンクにしっかりと押し付けられ、簡単にロックが解除されないように設計されている。ただし欠点は、ガンギ車の平らな衝撃面に対し、レバーの爪石の付いたパレットの横方向のスライド摩擦によって衝撃を与えることである。これは、直接的な衝撃ほど効率的ではなく、さらに、機能させるためには潤滑油が必要となる。
しかし、レバー脱進機の動作についての理解が深まり、適切に調整された時計では、修理・点検の合間にも非常に正確に作動するという能力により、レバー脱進機は約3世紀にわたり時計業界で使用されてきた。現代のほとんどの時計には、機械的にトーマス・マッジが理解していなかったことは何もなかっただろうと考えることは、示唆に富んでいる。
レバー脱進機が非常にうまく機能するという事実は、時計メーカーの改良を試みる気を削いだ。しかし、時計の進化を通じて、基本的な概念のバリエーションを含めれば、おそらく何百もの異なる脱進機が設計されてきたが、それは概ね過去のものとなった。工業的に大量生産されることになるレバー脱進機が発明されて以来、265年で唯一の新しい機械式脱進機は、ジョージ・ダニエルズ(George Daniels)の同軸脱進機である。オメガが工業化に成功する前に同軸脱進機が辿った長く困難な道のりは、実用的な時計用脱進機の設計を試みることに内在する難しさを如実に示している。ダニエルズは1980年にこの脱進機の特許を取得したが、商業用時計に採用されたのは、1999年のバーゼルワールドでデ・ヴィルの限定版が初めてのことである。
それ以来、いくつかの興味深い実験的な試みが行われたが、そのほとんどは実験のままで終わっている。オーデマ ピゲは、4万3200振動/時のオーデマ ピゲ脱進機で最も成功に近づいたが、この脱進機は自動起動ではなく、これまでのところ、現行のAP製品では使用されていない。しかし、Cal.9SA5を搭載したグランドセイコーは、新しいデュアルインパルス脱進機を、すぐに入手可能な時計のシリーズに採用した。265年の歴史の中で、新しい時計脱進機が比較的大きなスケールの時計生産に採用された(新しい時計は100本の限定版である)のは、これが3度目である(異論の余地があるかもしれないが、私は、脱進軸以降のものとして、シリンダー、レバー、および同軸脱進機をカウントしている)。2世紀半の間にこうしたことが起きたのはわずか3度目であるという事実は、グランドセイコーが非常に強いこだわりと創造力をこの脱進機の生産に注ぎ込んできたことの証である。
ただし、この脱進機は知的刺激を受けるものかもしれないが、それは何もないところに存在するわけではない。我々は在宅勤務を始める直前に、SLGH002限定版の1つをオフィスで撮影する機会を得た。この機に、脱進機とムーブメントについて話すだけでなく、時計をより総合的に考えるのもいいと思う。
グランドセイコー 60周年記念限定モデル SLGH002
SLGH002は堂々とした時計だ。ケースは18Kイエローゴールドで、サイズは40mm x 11.7mmと大きくはないが、主張の強い時計である。
ケース仕上げの精度もグランドセイコーに期待されるものであるが、SLGH002はこの象徴ともいえる特徴を恐ろしいほど備えている。ケース表面のエッジ部分は、見ているだけで切られてしまうほど鋭く見える。垂直にブラッシュ加工されたベゼルの平らな上面と鏡面研磨された側面のコントラストは、視覚的およびデザイン上の理由だけでなく、まるで科学機器に不可欠な特徴であるかのように見える。そして、もちろん、SLGH002の他の外見的な要素と共に、そこにあるのは、何よりもまず精密さを第一に設計されたインストゥルメントであることを示すものなのである。
同時に、その効果は度を過ぎたものではなく、個々のディテールは、この時計の非常に統一されたデザインが与える全体的な印象を損なうものではない。グランドセイコーの最高の作品に見られるように、確かに素晴らしいディテールがそこにあり、また、ケース、文字盤、針のあらゆる鏡面仕上げの明るい表面が調和し相互作用することにより、時計全体が何ともいえない輝きを放っている。
言うまでもないが視認性も抜群だ。これはもちろん、グランドセイコーのケースと文字盤の最も優れた特徴の一つである。時計の文字盤については間違いなく素晴らしい装飾効果があるが、それは非常に幅広い光の条件下でも時計を読みやすくするという点で、非常に機能的な役目も果たしている。私がグランドセイコーの時計を使用した経験においては、一般的に、文字盤や針に夜光が施されていないものでも、非常に暗い場所で可視性がある。これは、様々な表面がかすかな周囲照明さえも捉えて反射する能力のおかげである。
従来のものに比べ、新しいハイビートムーブメントを使用してすぐに気付く一つの結果は、手首に着けた際の人間工学に優れているという点である。Cal.9S85のサイズは28.4mm x 5.99mmであるのに対し、新しいCal.9SA5は31.0mm x 5.18mmである。その結果、SLGH002の重心はかなり低く、手首に非常に快適である。また、グランドセイコーがこの時計を含め、ドリルスルーラグを維持していることも興味深い。その性質上、それは小さなディテールに過ぎないが、そこに細心の注意を払わなければ本当の贅沢とはいえず、また、所有者が時計を傷つけるリスクを冒すことなくストラップを交換可能にすることは、それが着用時とは関係ないことであったとしても、小さなこととはいえ、顧客への心遣いである。
私は、グランドセイコーがこの点に関し信念を曲げないでいるのをとてもうれしく思う。穴の開いたラグはまた、ある意味では、時計とその価格が送り出す贅沢さの強いメッセージとの微妙なコントラストを成している。結局のところ、それは高級時計の遺産ではなく、ツールウォッチとしての遺産を想起させるものだと言わざるを得ない(私はドリルで穴を開けたラグの付いたパテック、AP、あるいはヴァシュロンを1つでも思い浮かべるのに苦労するが、あなたもきっとそうに違いないだろう)。これらは、グランドセイコーの実用的な時計製造だけでなく、時計を所有することの実用性に対する根本的なコミットメントとのつながりを感じさせるものである。
時計の文字盤についてのもう1つの特徴は、針のデザインと文字盤のマーカーの統合である。これは、私がグランドセイコーで今まで見た中で最も精巧にファセットが施された洗練されたマーカーだと思う。時針にはその長さに沿って縦方向の際立った溝があり、これは平らな先端同様に文字盤のマーカーの内側の端と平行で、見た目にも時間マーカーにぴったりと合致したものとなっている。これはサブリミナルともいえるような方法で、視認性を向上させるためのさらに大きな助けとなっている。ただし、分針は、時間マーカーを超えて、ミニッツトラックの端まで伸びている。分針の先端はほんのわずかにカットされており、見た目でそれを時針と区別するのに十分だが、四角く切り取られた先端は、分針を時針との視覚的な一体感を保つ。仮にそれが先の尖った先端に仕上げられていたとしたら(それはグランドセイコーには可能で、かつてそうしたこともあったが)、両方の針の間には、ほんのわずかではあるがぎこちない分離感が生じることになったのではないかと思う。
キャリバー9SA5
ムーブメントは、ケースや文字盤のデザインや仕上げの側面よりも重要でないと考える人もいる(中には全く重要でないという人もいる)が、一般論としては、ケースは少なくともある程度までは主張するために作ることができると思う。実際のところ、我々は時計のケースバックを見るために時間を費やすことはほとんどない。時計の経験とは、主に手首に着けるアイテムとしての人間工学的な経験、デザインを通じて提供される視覚的経験、そしてその製品の品質である。
ただし、これはこれまでのところは、ということだと思う。歴史的にムーブメントは、少なくとも腕時計の場合には、人が視覚的に経験する時計の要素ではなかった。もちろん懐中時計を持っている人は、望めばムーブメントを見ることができたが、これは日常的に行うことではなかった。ステム巻きの懐中時計では、裏蓋を開ける必要はなく、また、鍵巻き時計には、通常、巻き上げ鍵用の開口部が付いたムーブメントカバーが内側にあり、ムーブメントがほこりにさらされないよう、ある程度保護していた。
時計を使っているときにムーブメントを見る人はいないが、ムーブメントの品質や、それがもつ特徴についての知識は、ムーブメントを見ていなくとも、時計の体験を伝えるというのは事実である。そして、ムーブメントがそのような特性をもっている場合、外観が内部のメカニズムの品質に一致するなら、それは全体として非常に満足できる時計となる。これがまさにSLGH002とそのCal.9SA5で実現されていることなのだ。
9SA5には多くの重要な特徴があり、中には、ハイビートキャリバーとグランドセイコー全般のいずれにとっても新しいものがある。新たにオーバーコイルヒゲゼンマイを備え、緩急針はなく、その代わりにテンプはフリースプラング方式によって精度を調整できる(同様のシステムにはパテック ジャイロマックスとロレックス マイクロステラのリムウェイトなどがある)。
80時間のパワーリザーブを実現する2つの香箱があり、また、現代のグランドセイコーで初めて、テンプがバランスブリッジ(両持ちテンプ受け)の下に固定されたことにより、より高い剛性と耐衝撃性を提供している。バランスブリッジには微調整システムがあり、メインプレートに対する高さを調整することができる。これにより、時計職人はムーブメントを分解することなく、テンプを調整できる。
巻き上げシステムは、時計を巻き上げたときの感触が、時間のみの腕時計を巻き上げたときの満足感により近いものとなるように設計されている。また、Cal.9SA5には、瞬時に日付を切り替えるメカニズムも搭載されており、約0.02秒での動作が可能だ。
しかし、最大のニュースは、新しい脱進機である。我々はSLGH002のクイック解説記事でこの脱進機を詳細に紹介したが、復習すると、レバー脱進機とは異なる多くの機能がある。まず最初に気付く大きな違いは、ガンギ車の構成である。通常のクラブ型のガンギ車の歯ではなく、デュアルインパルス脱進機には、先が尖った8つ星のような形をしたガンギ車があり、先端がわずかに平らで角度がついている。ガンギ車は、アンクルと同様にスケルトン化されている。次のアニメーションでは、脱進機の動作が確認できる。分かりやすくするためにテンプ自体は省略されているが、バランスローラー(テンプの中心軸に取り付けられている)が左上を前後に振動する様子や、脱進機の動作の様々な段階がはっきりと見て取れる。
ご覧のように、脱進機はテンプの振動の両方向に衝撃(インパルス)を与える。テンプが反時計回りに振れると、ガンギ車の歯の1つの先端が、振り座の下部にある爪石の衝撃面を横切ってスライドするため、レバーを介して間接的に衝撃を受ける。テンプが時計回りに振れると、ローラーは、ガンギ車の歯の1つを介して、その爪石に直接衝撃を受ける。テンプが一方向にのみ衝撃を受けた場合、滑り摩擦があるため、この脱進機はレバー式よりもはるかに効率的に動作し、また、テンプに間接的に衝撃が与えられるときだけガンギ車が潤滑面を横切って移動するので、より長期的に精度も安定する。
ムーブメントは、その技術的な独自性に加え、見た目も非常に美しい。グランドセイコーのムーブメントは、一般に、称賛に値するほど立派に築き上げられた精度の雰囲気を放っているが、Cal.9SA5には、グランドセイコーのムーブメントではあまり一般的ではない優雅な曲線が使用されており、デザインのやや叙情的な側面が見て取れるのではないかと思う。シースルーのローターも、しばしば聞かれるムーブメントのプレートやブリッジを直接見たいという熱狂的なファンの声に応えているようである。
腕時計としての歴史
私は何年も前に、武道家である小畑敏四郎の書いた日本の剣術に関する本を読んだことを覚えているが、その翻訳には素晴らしいフレーズがあった。彼は、見事に磨き上げられているが機能的に劣っている剣を「不誠実な心を隠す美しい顔の例」と表現していた。ムーブメントは何もないところには存在しないが、時計の外観にしても同じである。外観や、表面的なデザイン要素に存在する微細なバリエーションにばかり執着するコレクターにとってさえ、仮に品質の劣るムーブメントが搭載されていたとしたら、収集価値のある時計などそう多くは存在しないという事実が残る。
ヴィンテージのロレックス デイトナの場合でさえ、時計に搭載された信頼性の高いムーブメントや、メカニックの細部へのこだわりに対するロレックスの絶大な評判なしには、それらがそれほど収集価値の高いものであると想像することは困難である。
60周年記念モデルであるSLGH002は、私が見た時計の中で最も印象的なものの1つであるのは確かで、非常によく考え抜かれているだけでなく、真に格別なものである。間違いなく高価であるが、それはまた、人の生涯の中で決して見ることができないかもしれない時計史の瞬間を表している。数千に上る実験が行われてきたにもかかわらず、実際に広範に利用されている脱進機はほんのわずかである。
すなわち、500年にわたる時計製造の歴史の中で、脱進軸(バージ)、シリンダー、レバー、そして同軸だけなのである。この時計を所有することは、時計製造で約1世紀に1度のイベントの物理的発現を所有することに他ならない。さらに、過去の時計製造の業績に目を向けるだけでなく、今から何世紀にもわたって記憶される瞬間に参加することをも意味していると思う。
グランドセイコー60周年記念限定モデル SLGH002: 18Kイエローゴールドケース、40mm x 11.7mm;10気圧/100m防水性能;ARコーティングされたボックスサファイアクリスタルとサファイアシースルーバック;耐磁性能 4800A/m(アンペア・パー・メーター)。グランドセイコーCal.9SA5、5 Hz (3万6000振動/時)、80時間パワーリザーブ;ムーブメント径 31.0mm x 5.18mm;瞬時切り替えカレンダー。最大日差+5/-3秒/日。価格450万円(税別)。世界限定100本。
さらなる詳細はについてはグランドセイコー公式サイトへ。
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