HODINKEE Japanでは2025年9月29日(月)から10月5日(日)の1週間、日本の時計ブランドや市場に焦点を当てたJapan Watch Week 2025を開催している。このウィークのために用意した新規取材記事やマガジン限定で公開していた記事、編集部員による動画企画まで、サイト上で毎日配信していく予定だ。すでに公開されたコンテンツについてはこちらから確認して欲しい。
本特集はHODINKEE Magazine Japan Edition Vol.10に掲載されています。
1983年に誕生した、G-SHOCKの初号機ことDW-5000C。その出発点が、伊部菊雄氏による「落としても壊れない丈夫な時計」とだけ記された1行の企画書にあったことはあまりにも有名だ。発案者の伊部氏は通ってしまった企画を実現すべく試行錯誤を重ね、中空構造によって高い耐衝撃性を実現したDW-5000Cを完成させた。なお、この“5000”という数字は意図を持ってつけられたものだという。G-SHOCKの誕生以前、カシオにおいて最先端であった20気圧防水モデルにはDW-1000という型番があてられていた。そもそも同社には優れたモデルに大きな型番を冠する風潮があり、DW-5000Cで起こった1000から5000への大跳躍には、耐衝撃という革新性に対する社内の大きな期待があったのである。まさに、前身である樫尾製作所のころから続く“0から1を生む”理念を体現した画期的な製品であったのだ。
現在でこそDW-5000CはG-SHOCKの初号機として広く認知され、ブランドの原点とされている。だが、同モデルが市場に存在した期間は実はそう長くない。1983年中には早くも耐低温仕様のWW-5100Cが登場し、その後もDW-5200C、WW-5300Cと改良が続く。そして1987年には、現在の5600シリーズの原型となるDW-5600Cが発売。このタイミングでDW-5000Cは、市場から姿を消すこととなる。上位互換の登場により旧型が自然に淘汰されるという、いかにも“精密機器メーカー的”な合理的判断であった。しかしこの出来事により、レギュラーとしての5000番が30年以上にわたってブランドのラインナップから失われることになったのである。
第1次ブームの訪れを受けてG-SHOCKに再注目したカシオ
G-SHOCK誕生10周年の1993年に発売されたDW-1983(左)は、遊環や液晶などのディテールをゴールドに彩色するとともに、専用の木製ボックスも用意された。右のDW-5000SPは2003年にリリースされた20周年の記念モデル。外装は5600系に変更されているが、初号機と同様、ステンレススティールケースとスクリューバックを採用し、文字盤にはPROJECT TEAM “Tough”の文字もプリントされた。
DW-5600Cの発売を機に、市場から姿を消したDW-5000C。多くの時計ブランドにおいて“始まりの一本”は重要視される傾向にあるが、カシオは同じフラットベゼル、スクリューバックを備えたアップデートモデルであるDW-5600Cをもって、DW-5000Cと置き換えるという選択をとった。以降、5600は新機能の追加を重ねながら進化を続け、2010年代後半には5600が初号機の正統な後継機として“ORIGIN”の名を冠することになる。しかしこのときはまだ、単純にG-SHOCKにおける最新モデルという位置づけであった。
なお、DW-5600Cが発売された1987年6月の時点でG-SHOCKの存在が広く認知されていたのはアメリカのみ。初号機の発売から1年後の1984年、アイスホッケーのパックをG-SHOCKに代えてスティックで勢いよく打ち込むテレビCMが話題となり、これを検証する番組まで放送された。これを契機としてG-SHOCKの耐衝撃性がアメリカ国内で周知され、警察官や消防士、兵士など、過酷な環境に身を置くプロフェッショナルに選ばれるようになっていったのだ。その一方、G-SHOCKを生み出したカシオの本拠地でありながら日本での認知度は低く、セールスが振るわない状況が続いていた。当時のカシオの新製品カタログをめくってみると、そこには“G-SHOCK”というブランド名は見られない。ほかのカシオ製品と並び、“HEAVY DUTY”というカテゴリーに数本が確認できるのみであった。だが、90年代に入って状況は急変する。一部の雑貨店や古着店などが、アメリカのショップで販売されていたG-SHOCKを逆輸入し始め、国内でも注目されるようになってきたのだ。1988年にカシオに入社し、2024年まで時計マーケティング部を統括していた上間 卓氏は当時のことを次のように追想する。「80年代当時、カシオの時計事業はまだ小規模なものでした。私はG-SHOCKの存在を知りませんでしたし、主力は1980円や2980円の時計。カシオが生産する時計の取り扱いも量販店が中心でした。しかしあるとき、営業で訪れた“さくらや”の店長に『カシオにすごい時計がある。防水に耐衝撃性能まで備えている。こんなに優れたコンセプトの時計はない』と言われた。それが、G-SHOCKとの出合いでした」
耐衝撃構造と20気圧防水という高性能な時計を、カシオが手がけていた──この事実に驚いた上間氏はその後、G-SHOCKの国内における認知度向上のために大胆な策を講じる。当時雑貨店などで扱われていたG-SHOCKはほとんどが逆輸入品であり、販売価格も定価の倍近くに設定されていた。それでも売れているという事実を受け、上間氏は海外営業部門などと連携し在庫を国内へ移動。1990年に海外で先行発売されていたDW-5900Cを、正規の逆輸入モデルとして300本限定で国内販売することにした。そもそもDW-5900Cは世界市場を見据えて開発されたモデルだったが、当時の国内市場ではまったく注目されておらず、在庫も確保されていなかった。そのため、逆輸入という形式でしか販売の道がなかったのだ。そしてこのイレギュラーな販売方法は見事に成功する。逆輸入モデルが発売された当時、アメリカでは耐衝撃性能に加え、マッシブな造形がオーバーサイズのトップスと好相性であることから西海岸のスケーターにも支持されるようになっており、日本でもその影響を受けた若者を中心に盛り上がりが過熱していたのだ。逆輸入モデルの国内販売本数を徐々に増やし続けてきたカシオも、ブームが到来することを確信する。それまで時計事業のいち製品にすぎなかったG-SHOCKにおいて、本格的に“時計ブランド”としての戦略をスタートさせようという機運が高まり始めた。
それは奇しくも、DW-5000Cが誕生してから10周年を迎えようというタイミングでもあった。これと時期が重なる1991年の末に、生産管理部門を経て、時計の商品企画に戻ってきたのが井崎達也氏だ。G-SHOCKが国内でも盛り上がりを見せつつあるなか、井崎氏が依頼されたのは3つのスペシャルモデル。そのひとつが、10周年の記念モデルだった。「最初、周年モデルでベースとする型番に指定はありませんでした。しかしこのときには、初号機をオマージュしようという考えが私を含めた周りにも浸透していました。DW-5000Cをベースに記念モデルを製作することに迷いはありませんでしたね」と井崎氏は振り返る。もっとも、このモデルで5000の型番は使われていない。周年記念であることを踏まえ、モデル名は初号機の発売年を記したDW-1983となったのだ。時計本体も造形や基本性能はDW-5000Cを踏襲しているものの、プッシュボタンや遊環、液晶をゴールド色で統一し、プレミアム感を強めている。こうしてDW-1983は1993年5月に、1983本限定で発売された。上間氏もDW-1983について次のように説明する。「DW-1983はブランド10周年の節目に、5000のポジションを改めて引き上げるきっかけになったモデルです。ちょうどG-SHOCKのブランド戦略を進めていこうとするタイミングでしたので、DW-1983はある意味それを象徴するよ
うな存在になりました」
1987年を境に生産を終了していた5000系はこうして再び世に姿を現し、以後、20周年や25周年といった節目のタイミングに登場することとなる。もっとも年を追うごとに、製造上の問題から造形はDW-5000Cらしいフラットベゼル、特徴的な“タイヤベルト”からシフトせざるを得なかったが、ベースはあくまでもORIGIN。初号機の開発に携わったPROJECT TEAM “Tough”の精神をつなぐためにも5000のエッセンスを残し、これを継承する役目を周年モデルは担っていくことになる。
不在の5000の精神をつなぐべく“ORIGIN”の名を託された5600
右下は1996年に発売された、5600系初のELバックライト搭載モデルDW-5600E。文字盤にはバックライトの名称である“FOX FIRE”の文字も記された。左下はタフソーラーを搭載したG-5600の後継にあたる、2009年発売のG-5600E。G-5600が初号機を想起させる赤枠を文字盤に施していたのに対して本作はそれがなく、5600を踏襲したデザインとなっている。
DW-1983の発売を機に、5000の型番は節目ごとにリリースされるスペシャルモデルがスポット的に継承することになる。しかしカシオはこのころから、フラッグシップとしてDW-5000Cのレギュラーモデル化を夢見るようになった。ブランドのフラッグシップを、目に見える形で展開したいと考えたのだ。過去にカシオは、2001年にDW-5000、2009年にGW-5000と、初代の造形を踏襲しながら時代ごとでの変化を加えた5000のリファインモデルをリリースしてきた。しかしその特徴であるメタルケース、スクリューバックといったディテールは製品コストを跳ね上げることにつながり、G-SHOCKの価格として当時の消費者が許容できる範囲を逸脱してしまっていた。そのため、これらのリファインモデルはレギュラーとしては根付かず、歴史の波に消えていくことになる。
987年発表のDW-5600C。このモデルの登場により、DW-5000Cは生産終了となる。本作はORIGIN同様、フラットベゼルにメタルケースを備えていた。
そんななか、5000のスピリットを色濃く継承し、現代までバトンをつないできたのが5600であった。5600は1987年に誕生して以降、機能と性能のアップデートを重ねながら型番を絶やさず、ORIGINのフォルムを伝え続けていく役割を担ってきた。そもそも1987年登場のDW-5600Cの基本構造は初号機を踏襲したもので、メタルのインナーケースにスクリューバックが組み合わせられていた。同モデルは1996年まで生産が続けられたが、このあいだに公開されたのが映画『スピード』だ。劇中で、主演であるキアヌ・リーブスの着用する腕時計がDW-5600Cであると判明するやいなや世界中にG-SHOCKが知れわたり、日本でも本格的なブームが到来する。この時点で5000と5600に明確な線引きはなく、カシオ内でも5600はあくまで初号機の延長上にあるシリーズと位置づけられていた。だが、1996年にDW-5600Eが発売されたことを機に、両シリーズには決定的な違いが生まれる。1994年、G-SHOCKは初のELバックライト搭載モデルDW-6600Bを先んじて発売していたが、DW-5600Eは同機能を搭載することで当時の最先端を示すモデルとして人気を博した。しかも本作が画期的だったのは、初号機のフォルムを維持しながら新しい機能を加えるために、インナーケースをメタルからグラスファイバー入り樹脂に変え、ケースバックも4点をビス留めするメタルパネルバックに変更したことだ。これによりモジュールの形状に左右されることがなくなり、新たな機能を載せやすくなった。さらに樹脂製ケースによって重量が抑えられ、ケースの厚みとともにコストも抑えることが可能となった。ベゼルの12時と6時側に段差を設けたステップベゼルが採用されたのもこのモデルからだ。以降、5000はメタルのインナーケースとスクリューバックの組み合わせ、5600は樹脂製ケースにメタルパネルバックを組み合わせたシリーズと、仕様が明確に定義づけられることとなる。
左は第2次ブーム終焉後の2001年に発表されたDW-5000。外装形状は5600系だが、メタルのインナーケースとスクリューバックを採用。右は2009年発売のGW-5000。世界6局の標準電波を受信するマルチバンド6に対応していた。
2002年には独自のソーラー充電システムであるタフソーラーを備えたG-5600を、2005年には電波受信機能によって時刻の自動修正を可能としたGW-5600Jを発売。そしてG-SHOCKが誕生25周年を迎えた2008年にはマルチバンド5に対応したGW-M5600を発表する。DW-5600Eの誕生を契機として、5600は初号機より続くG-SHOCKのベーシックな造形に実用的機能を備えたデイリーユースなシリーズと位置づけられたのだ。上間氏は、当時の状況を次のように振り返る。「 1998年ごろを頂点として、G-SHOCKのブームは失速していきました。そこで、電波ソーラーを搭載したGW-300Jをはじめ、変わった形状やカラーリングのモデルを出してみたのですが、一向に状況は改善しない。そこでもう一度本質に戻ろうと考えてGW-5600Jを発表し、その後25周年を迎えた際は、ブランドの象徴的なモデルとして改めて5600を世界的にプッシュしていくことになったのです」。このタイミングで催されたのがSHOCK THE WORLD。2008年当時、上間氏は「世界中の若い人たちにG-SHOCKを着けてほしいという思いがあり、認知度を上げていく必要があった」ことから、このイベントを開催したと説明している。SHOCK THE WORLDはのべ約80都市で行われ、開催から半年もするとG-SHOCKは世界各地で話題になっていった。そのなかでもブランドを代表するモデルとして5600は着実に力を増し、ブランドの35周年ごろに5600は“ORIGIN”の肩書を正式にカシオから与えられることになる。そこにはブランディング的な観点もあっただろうが、1987年以来5000の魂をつないできた同型番に、ORIGINと呼ぶにふさわしいだけの実績がすでに備わっていたことも大きかっただろう。
ブームをけん引していたキーパーソンが語る90年代のG-SHOCK
吉原 隆。1963年東京生まれ。ビームスを経て1990年にユナイテッドアローズに入社。2000年までPRを担当する。その後2020年に同社を退社し、現在は三原康裕氏が代表を務めるSOSUでおしゃれ研究室の室長を務める。Photographs by Keita Takahashi
一部の高感度なショップがG-SHOCKを販売し始めた80年代後半、セレクトショップもまたアメリカでのG-SHOCK人気をキャッチし、その取り扱いを始めていた。上間氏も、「スケートブームなど米国のカルチャーとのつながりもあったためか、G-SHOCKはファッションシーンとの相性もよかった」と語っている。1986年にビームスに入社し、1990年よりユナイテッドアローズでPRを担当した吉原 隆氏は、当時のカシオとコミュニケーションを取りながらG-SHOCKがブームとなっていく過程を見続け、一方では人気絶頂時に発売されたコラボレーションモデルの企画にも携わっていたひとりである。当時より、セレクトショップのスタッフには突出した感度の高さが求められた。服が好きなことは当たり前で、必要なのはそれ以外のプロダクトやカルチャーなどに対する造詣の深さ。吉原氏がビームスに在籍していた頃に店長を務めていた人物もアンテナを多方に張り巡らせていたこともあり、80年代後半にはG-SHOCKに注目していたのだという。
「G-SHOCKも今のように種類があるわけではなく、しかも家電量販店やディスカウントショップでは、カシオのほかの時計に交ざって陳列されていたことを覚えています。それが『スピード』の公開を境に、世の中のG-SHOCKへの向き合い方がガラッと変わったのです。ユナイテッドアローズもそれ以前はG-SHOCKを販売していなかったのですが、1994〜95年ごろに取り扱いを始めました。実はその少し前、カシオから、MR-GのファーストモデルMRG-100についての意見を聞きたいと、栗野(宏文=現ユナイテッドアローズ上級顧問 クリエイティブディレクション担当)にアプローチもありました」
G-SHOCKに詳しいという理由から吉原氏が指名され、このときはMRG-100についてずいぶんと辛辣な意見を述べたという。だがこれがきっかけとなり、カシオとの交流がスタートする。両社は関係性を深め、ユナイテッドアローズは原宿本店にG-SHOCKとベルギーのブランドW&L.T.をフィーチャーしたコーナー、W-SHOCKを開設。DW-5600Cを筆頭に、爆発的な人気を博したイルカ・クジラ会議記念モデルなどを並べていた。「当時はイエローの5600も人気があり、ビタミンカラーも作ってほしいと伝えたら、2カ月後にはリリースされていたりもした。当時もG-SHOCKはフットワークが軽かったですね」(吉原氏)。続く1996年にはコラボモデルAW-500UAを製作するなど、ブームを盛り上げるための一翼を担う。このころにはカシオも、取り扱い店やコラボレーション先のブランドに対し、5600が初号機の系譜にあたることを強調し始めていたという。「特にコラボレーションについては、5600を指定されることが多かったように思います。担当の方に話を聞くと、ちゃんと5600がDW-5000Cの後継機であることを理解している。やはり時計ブランドの取り組みにおいては、そのルーツとなるモデルが注目されるのだなと改めて認識しました」(上間氏)。こうしたブームの発火点となったDW-5600Cについて、吉原氏は次のように思いを語る。「ユナイテッドアローズによる初のコラボモデルはAW-500をベースにしましたが、一方でG-SHOCKと言えば5600というイメージは私も持っていました。それはやはり、1990年代を象徴するモデルだったから。実際にアメリカの特殊部隊員もG-SHOCKを使用しているというリアルさが映画『スピード』をとおしても伝わったことで、当時アメリカに憧憬を抱いていた消費者の物欲も刺激されたのだと思います」
Photographs by Keita Takahashi
そんな第1次ブームのなかでカシオは「強いブランドには定番がある」と初号機の系譜である5600の重要性を強く意識。以降はそのラインナップを拡充させていく。その施策は成功し、G-SHOCKの基礎となるスタイルは今日まで途切れず認知されることとなった。「今後、カシオは5000にも注力していくのでしょう。重要なのは時計ブランドとして自社のアーカイブを大事にするということ。ポルシェがあの造形を維持し、フィアットが500のデザインを守っているようなことを、カシオが今の時代にどこまで追求できるかが大切になると考えています」(吉原氏)
5000の価値を引き上げたG-SHOCKにおける高級機
(上)GMW-B5000D-1JF 8万4700円、(下)MRG-B5000B-1JR 49万5000円(ともに税込)
G-SHOCK誕生35周年の節目にあたる2018年4月、初号機の造形をベースとしながら、ベゼルとバンドにステンレススティールを採用したGMW-B5000シリーズがリリースされた。GMW-B5000は発売されると瞬く間に店頭から姿を消し、しばらくは入手困難な状況が続くなど、初号機のフォルムを継承したモデルとしては当時久しぶりのヒット作となった。しかも、本作が衝撃的だったのはフルメタル外装だけではない。スクリューバックに加えて、近年では周年記念モデルにも見られなかったフラットベゼルも復活させ、レギュラーモデルとしては2009年のGW-5000以来となる5000の型番が付与された。フルメタルの端正なルックスが一般ユーザーを魅了したことはもちろん、熱狂的なG-SHOCKファンの心をもわしづかみにしたのである。
このGMW-B5000シリーズが誕生するきっかけとなったのが、2015年に発表されたコンセプトモデル、DREAM PROJECT DW-5000 IBESPECIALだ。製作を指揮したのは伊部菊雄氏。それまで、G-SHOCKのすべてのモデルは商品化を前提に開発が進められてきたが、「一度くらいコンセプトモデルを作ってもいいのではないか?」と考えた伊部氏は、「究極の丈夫な腕時計であるG-SHOCKと、究極のメタル素材であり永遠の価値があるゴールドという、究極同士のコラボレーションが思い浮かんだ」ことからプロジェクトを始動させる。耐衝撃をうたうG-SHOCKが貴金属製の時計を作ったという事実により、コンセプトモデルはその技術力を示すだけでなく、G-SHOCKというブランドに広くみんなが注目するきっかけを作ったのである。
GMW-B5000シリーズを製作するきっかけとなった、2015年のコンセプトモデル。ステップベゼルを採用していることから、この段階では5600をベースにしていたことがわかる。このコンセプトモデルは2019年にG-D5000-9JRとして商品化。税込みで770万円とG-SHOCKにおいては常識外れの価格にもかかわらず、限定35本は瞬く間に完売した。
もっともコンセプトモデルは外装素材に18Kゴールドを用いたために1本しか製作できず、耐衝撃性能の検証は実施できなかった。そのため「コンセプトモデルの構造をどうにか定番商品化したい」との思いを強くした開発陣は、これを実現させるべく外装素材をステンレススティールに変更。さらにフルメタル用の新たな耐衝撃構造を開発することで完成したのが、GMW-B5000シリーズである。シリーズはその後、チタン外装や独自のCMF(カラー、マテリアル、フィニッシュ)デザインを積極的に取り入れてルックスを多様化させ、人気を不動のものにしていく。こうして5000の名前はこのタイミングでレギュラーに返り咲いたのみならず、5000こそが初号機のクリエーションを継承したモデルであることを、改めて周知させるきっかけとなったのだ。当時企画にかかわっていた現時計BU商品企画部部長の齊藤慎司氏は、次のように語る。「GMW-B5000Bはコンセプトだけでなく、外装に至るまで初号機を意識して製作した最初のモデルです。GMW-B5000がフラットベゼルになったことには、もちろん仕上げ時の利便性という理由もありました。しかし当時は、ブランドとして改めてORIGINを世に知らしめようという動きがあった。実は開発時、耐衝撃構造の面でギリギリまでステップベゼルの案も生きていました。しかしここをクリアすれば、5000のデザインを再現することができるという思いもあったのです。正直なところ、当初はG-SHOCKのファンに盛り上がってもらえればそれでいいと考えていましたが、結果を見て、ORIGINを待っていた人々がこれだけいたのだと実感しました」
そして決定打となったのが、フルメタルORIGINの進化系にして、G-SHOCK最高峰コレクションのMR-GにラインナップされたMRGB5000Bである。本機はG-SHOCKのルーツである角型デジタルのコンセプトを最先端素材とテクノロジーで極限まで高めたモデルであり、ブランドのヘリテージにも強く訴求するコンセプチュアルなモデルとなった。コバリオンと64チタン合金を組み合わせた外装は初号機を連想させるブラックに統一されただけではなく、文字盤には赤枠やレンガパターンの意匠も確認できる。そのうえで外装パーツを25個に分割して細部まで徹底して磨き上げるなど、MR-Gにふさわしいクリエーションを実現。ベーシックな樹脂製モデルと価格を比較するとGMW-B5000シリーズで3倍から6倍、MRG-B5000Bに至っては数十倍という設定であるにもかかわらず、高い技術力とブランドの伝統に根差した精神性が認められ、熱烈なG-SHOCKファンを中心に高い評価を獲得するに至ったのだ。もともとMT-GやMR-Gといったハイエンドラインは、1990年代の終わりごろから展開、認知されていた。しかし、その裏でじっくりと熟成を重ねてきた5000のエッセンスを加えたことでブランドの価値自体も高まり、ここでようやく高級なG-SHOCKをユーザーが許容できる環境が整ったのである。その空気を感じ取ったカシオはついに、念願であった初号機のレギュラーモデル化に踏み切ることになる。
DW-5000Rで実現した悲願のレギュラーモデル化
DW-5000R-1AJF 3万3000円(税込)
GMW-B5000シリーズの誕生を機に、5000こそが初号機のクリエーションを継承したモデルであると周知され、さらに5000の型番が付いたMR-Gまで登場するようになると、カシオでは初号機、すなわちDW-5000Cを本格的に復刻させようという機運が高まっていった。そこには「時計事業が開始されてから50年の節目が目前に迫っていたことも、大きなきっかけでした」と、時計マーケティング部の上間氏は振り返る。
「初号機を復刻するにあたり、これを定番モデルとして展開していくかスポット販売にするかは、社内でも大きな議論になりました。ですが、スポットになるとこれまでの周年記念と同じく、5年や10年に1回の販売になり、そのタイミングでしかスポットライトが当たらなくなってしまう。現在世界的に認知されているブランドには、例えばリーバイス®501®やポルシェ 911のように、世界中で長く支持されている絶対定番があります。改めてORIGINを打ち出していくためには、5000系の始祖である初号機の復刻モデルも定番化して、常にファンに目に見える形でヘリテージを用意する必要があると考えたのです」。また、復刻モデルを定番化した経緯について、商品企画部部長の齊藤氏は次のように説明する。「オリジナルのDW-5000Cを所有している人が持つ特別感は大切にしたいと思う一方で、若い人たちに初号機の雰囲気を感じてもらううえでは、オリジナルをできる限り忠実に再現したモデルを製作することにも意味があると考えました。もちろん、当時のモデルを持っている方からすれば、これまで限定でしか販売されなかった5000が定番になることに対して、複雑な感情はあるかもしれません。ですが、復刻モデルが存在することによって改めて多くの人に初号機の構造を理解し、感じてもらえると考え、全世界での定番化に踏み切ったのです」
こうして、カシオウォッチ50周年のフィナーレを飾る2024年12月にDW-5000Rはリリースされた。そしてこのタイミングで、5600に託されていたORIGINの称号は返還されることになる。G-SHOCKの歴史で初めて「初代G-SHOCK復刻モデル」とうたった本作は文字通り、これまで折に触れて製作されてきた5000系とは作りを異にしていた。
5000の特徴であるメタルのインナーケースとスクリューバックを備えているのはもちろん、DW-1983以来、約30年ぶりに樹脂製の5000系でフラットベゼルが復活したのだ。フェイスデザインは一部の表記を除いて初号機と同じレイアウトと配色にし、バンドに至っては、長さや形状、ディンプルの位置までオリジナルのタイヤベルトを忠実に再現するなど、現在のG-SHOCKが持つ技術によってオリジナルの意匠を可能な限りよみがえらせたモデルとなっている。その一方で、ベゼルとバンドにはバイオマスプラスチックを採用し、バックライトも視認性の高いLEDに変えるといった必要最小限のアップデートも加えられるなど、常に進化を続けるカシオらしいクリエーティビティも確認できる。しかも本作が製造されているのは、カシオのマザーファクトリーである山形カシオ。これはDW-5000Cが同工場で生産されていた背景を踏まえたもので、つまりDW-5000Rは単純に初号機の意匠を再現した復刻版ではなく、ORIGINのストーリーも盛り込んだ、G-SHOCKの源流を感じ取れるモデルとして製作されているのだ。
確かにDW-5000C、そして5000の型番は、DW-5600Cの発売とともに一度は姿を消した。だがORIGINの称号を受け継いだ5600や、DW-5000Cのエッセンスをちりばめた周年記念モデル、さらにGMW-B5000シリーズによってブランドのヘリテージはその存在を絶やすことなく地道に伝えられ、そしてついに初号機の復刻モデルDW-5000Rが登場するに至った。もしかしたら、同モデルについてカシオウォッチの周年企画のひとつとして単純にとらえている人もいるかもしれない。しかしDW-5000Rにたどり着くまでには、第1次ブームを経てカシオがG-SHOCKの時計ブランドとしての価値に気がつき、初号機のレギュラーモデル化という夢を描き、その目標に向かってブランド価値を着実に向上させてきた長いストーリーがあった。そして機が熟し、実現にこぎ着けるまでに、5000のスピリットをバトンのようにつないできたさまざまなモデルが存在していたことを、忘れてはならない。DW-5000Rの企画にあたっては当時の手書きの設計図では不完全であり、オリジナルのDW-5000Cと比較しながらの試行錯誤があったというが「ここまで徹底して作り上げたのは、このモデルを今後しっかりと継続していこうという意志の表れ」と齊藤氏は誇らしげに語る。DW-5000RはすべてのG-SHOCKのORIGINであり、またアイコンとして、歴代の5000/5600モデルから受け継いだ火をブランドの行く先を示す灯台のようにともし続けるのである。
Photographs : Tetsuya Niikura Styling : Eiji Ishikawa(TRS)
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